配達継続
特別配達の申請票には、配達継続、という文字が書かれていた。
リンはその四文字を見下ろして、しばらく黙っていた。
継続。
止まっていたものを、もう一度動かす言葉だ。
けれど、それは必ず届ける、という意味ではない。届けられない理由があるなら、そこで止める。危険なら戻る。相手がいないなら持ち帰る。
それでも、何も確かめずに返すことだけはしない。
「字、睨んでも変わらないよ」
隣でフィオナが言った。
仕分け室の隅には、出発用の机が一つ空けられている。机の上には、保護袋に入れた封筒、危険中断の判断基準、黒樫の森の簡易図、黒樫村管理官への照会状が並べられていた。
「睨んでない」
「眉、寄ってる」
「考えてる」
「じゃあ考えてる眉」
フィオナはそう言いながら、封筒の保護袋をもう一枚重ねた。
外側は薄い防水紙。内側は湿気を吸いすぎないよう処理された布。通常の書留なら少し大げさなくらいだが、黒樫の森は湿気が強い。枝葉に触れれば、雨が降っていなくても水が落ちる。
「それ、厚すぎない?」
「厚くする。封筒の角がもう弱いから」
「飛ぶ時、重さ変わる?」
「少し。でも鞄の奥に入れるなら大丈夫。手前に入れると、出す時に擦れる」
「了解」
「あと、森に入ったら勝手に出さないで」
「出さないよ」
「リン、相手を見つけた瞬間に出しそう」
「そこまで早くない」
「早いよ」
フィオナは顔を上げた。
「宛名を見つけたら、すぐ渡したくなる顔してる」
リンは返事に困った。
否定しようとして、やめた。たぶん当たっている。
机の上の封筒は、薄い保護袋の中にある。返送印は少しぼやけたが、まだ見える。宛名も見える。
ヴァルク・ガルム。
その名前を読むたびに、リンの中で何かが急ごうとする。
でも、急いではいけない。
「渡せる状態か、先に確認する」
リンは自分に言い聞かせるように言った。
「本人かどうか。受け取れるかどうか。危険がないか」
「うん」
「それから渡す」
「うん」
フィオナは今度は茶化さなかった。
扉が開き、エルナが入ってきた。
手には細い地図筒と、赤い紐でまとめた注意票を持っている。
「出発前確認をします」
「はい」
リンとフィオナは同時に返事をした。
エルナは机の上の黒樫の森の図を広げた。黒い線で村道、茶色の線で古い山道、灰色の点線で今は使われていない獣道が描かれている。
「黒樫村までは通常風路を使えます。村から北部監視塔跡までは、現行の風路登録がありません」
「地上から入るんですか」
「村の管理官の判断次第です。森の上を低く飛ぶことは勧めません。枝が高い。霧が出ると、地面より枝の方が先に見えなくなります」
リンは地図を覗き込んだ。
「監視塔跡は、ここですね」
「はい。村から北北西。古い巡回路が残っていれば、歩いて半刻ほど。ただし、今の状態は不明です」
「箒は?」
「森の入口までは使用可。そこから先は、現地判断。飛ぶより歩いた方が安全なら歩きなさい」
リンは頷いた。
歩く。
郵便魔女としては少しもどかしい言葉だった。けれど、森の中で箒が万能ではないことくらい、分かっている。
「灰角族についても確認します」
エルナは別の紙を出した。
「大型です。人間よりずっと大きい。角があります。爪もあります。声も低い。森の中で不意に会えば、驚くと思います」
「昨日も聞きました」
「何度でも言います。驚くこと自体は失礼ではありません」
エルナはリンをまっすぐ見た。
「驚いたあと、どう扱うかです」
リンは少しだけ息を吸った。
「受取人として扱います」
「よろしい」
エルナは次にフィオナを見た。
「フィオナ。あなたは封筒の状態を優先してください。相手が見つかっても、リンに急かされて保護袋を乱さないこと」
「私、急かされる前提なんですね」
「リンは急かします」
「否定できないのが困る」
リンは小さく口を尖らせた。
「急かさないようにします」
「努力目標ですね」
エルナはさらりと言って、注意票を折った。
「それから、二人とも。黒樫村で村人に事情を聞く時は、断定しないこと」
「断定?」
「ヴァルク・ガルムが不当に避けられていた、と決めてかからない」
リンは一瞬、黙った。
胸の奥で、返送印の黒がまた少し濃くなる。
「でも」
「でも、です」
エルナは遮った。
「村に家畜被害があったのは事実です。通行止めが出ているのも事実です。灰角族が危険という記録はなくても、村人が何かを怖がっているなら、その怖さ自体は嘘ではありません」
リンは地図の黒い森を見た。
返送印は嫌だ。
あの書き方は嫌だ。
でも、それだけで村全体を悪者にすれば、リンも同じことをする。
名前ではなく、まとめて見てしまう。
「分かりました」
リンは言った。
「記録と本人確認を優先します。誰かを責めるためには行きません」
「はい」
エルナは短く頷いた。
「それでいいです」
その時、廊下側から足音がした。
オスカーが仕分け室へ入ってくる。片手には支局長印の押された照会状、もう片方には小さな金属札を持っていた。
「黒樫村管理官への照会状だ」
リンは受け取った。
「ありがとうございます」
「管理官には、東部第四支局からの正式確認として渡せ。相手が拒めば、森へは入るな」
「はい」
「ヴァルク・ガルム本人に会えた場合は、本人確認。受領意思。危険有無。可能なら近況確認。返書が出るなら受け取れ」
「はい」
「ただし」
オスカーはそこで、少しだけ声を低くした。
「この配達は、返送印を訂正するためのものじゃない」
リンは顔を上げた。
「はい」
「郵便局の面子を取り戻す仕事でもない」
「はい」
「宛名に書かれた相手が、今も受取人であるかを確かめる仕事だ」
オスカーは金属札を机に置いた。
特別配達。
所在確認併行。
危険時中断可。
短い文字が刻まれている。
「届けられるなら届けろ。届けられないなら、その理由を持ち帰れ」
昨日と同じ言葉だった。
でも、記録庫で指印を見たあとでは、少し違って聞こえた。
「二人で行って、二人で戻れ」
「はい」
リンとフィオナの声が重なった。
オスカーはそれ以上、長くは言わなかった。言葉を増やす代わりに、照会状の端を指で一度だけ叩く。
「行って良い」
リンは封筒を鞄へ入れた。
フィオナの言った通り、手前ではなく奥へ。保護板の隙間にまっすぐ収める。指先が少しだけ紙に触れたが、すぐに離した。
宛名は見えなくなった。
けれど、そこにある。
「行こう、フィオナ」
「うん」
フィオナは肩掛けの道具袋をかけ直した。
中には保護布、耐湿紙、予備の封緘紐、簡易記録票。いつもの配達より、少しだけ荷物が多い。
発着場へ出ると、朝の風はまだ穏やかだった。
箒掛けから自分の箒を外し、リンは柄の感触を確かめる。医務官から許可が出たとはいえ、長く休ませた体はまだ少し重い。
フィオナが横から見ていた。
「無理そうなら、言ってね」
「大丈夫」
「その返事、あまり信用されてない自覚ある?」
「ある」
「なら、もう一回」
リンは箒にまたがる前に、少しだけ肩を回した。
背中が軽く鳴る。
「今のところ、大丈夫。途中で変だったら言う」
「よし」
「よしって」
「採用できる返事だった」
フィオナは自分の箒に乗った。
リンは少し笑ってから、発着場の先を見た。
北の空は、薄い灰色だった。
黒樫の森がある方角。
まだ遠い。ここからは見えない。
けれど、鞄の奥の封筒が、そこへ向かっている。




