名簿に残る名前
記録庫は、朝でも少し冷えていた。
石造りの壁に沿って、分類棚が奥まで並んでいる。棚には地域別、種族別、協定別の札が掛けられ、古い利用者名簿の背表紙が隙間なく詰まっていた。
リンは黒樫の森の棚の前で、脚立を押さえていた。
「その段?」
「もう一つ上」
上にいるフィオナが、腕を伸ばした。
「それ、危なくない?」
「危なくない高さまでしか上がってない」
「フィオナの危なくないは、けっこう危ない」
「リンに言われたくない」
「それはそう」
リンが素直に認めると、フィオナは棚の奥から厚い名簿を引き出した。
表紙には、黒樫森林協定区域、とある。
革の角は擦れているが、金具はまだ生きていた。フィオナは脚立を降りる前に、名簿の下へ布を当てた。古い紙粉が落ちないようにするためだ。
「重い?」
「重い。でも落とさない」
「落としたら?」
「リンが受け止める」
「名簿だけね」
「私も受け止めて」
「努力はする」
「そこは即答して」
小声のやり取りは、記録庫の高い天井に吸われた。
机へ戻ると、フィオナは名簿を置く前に布を広げた。紙を傷めないよう、綴じ金具の側からそっと開く。
古い紙の匂いがした。
乾いた木と、少しだけ湿った埃の匂い。
「灰角族の項目は……ここ」
リンは索引をたどった。
灰角族。
山岳および森林地帯に居住する知性種族。大型。角部を持つ。共通語の使用に個体差あり。森林管理、獣害監視、山道保全に従事する例あり。
その横に、古い注記が貼られている。
魔獣分類に含めない。協定対象利用者として扱うこと。
リンはその一文を、指でなぞらなかった。
ただ、目で追った。
「ちゃんと書いてある」
「うん」
フィオナが小さく頷く。
「ちゃんと書いてあるのに、返送票には書かれなかった」
リンは何も返せなかった。
ページをめくると、黒樫の森の利用者一覧が出てきた。村、木材組合、山道管理小屋、季節宿、監視塔。
その末尾に、太い字で一つの名前がある。
ヴァルク・ガルム。
利用者番号。登録日。居住地。受領印形式。
指印。
リンは最後の項目で目を止めた。
「指印?」
「灰角族は、署名より指印が多いみたい。筆記具が小さすぎるから」
「そっか」
フィオナは別の箱から、古い受領票の束を取り出した。
「八年前までの分、こっちに残ってた」
紐をほどくと、何枚もの受領票が現れた。人間の署名、組合印、村役場の受領印。その中に、紙面の枠から大きくはみ出した黒い指印があった。
ヴァルク・ガルム。
受領。
黒樫の森、北部監視塔跡。
その印は、枠の中に収まっていなかった。端が少し潰れ、紙の繊維に深く入っている。
大きな指だったのだろう。
リンはそれを見て、胸の奥が妙に静かになるのを感じた。
怖いかもしれない。
大きいかもしれない。
角があるかもしれない。
でも、この指は、ここで郵便を受け取っていた。
「いたんだね」
フィオナが言った。
「うん」
リンは頷いた。
「少なくとも、この時は」
受領票の端には、配達担当者の署名も残っている。八年前の日付。北方中継支局所属の郵便魔女。
それ以降の束は、途切れていた。
「この後、何があったんだろう」
「黒樫の森周辺の事故記録を見よう」
リンは別棚へ向かった。
そこには、配達事故、通行止め、風路異常、獣害記録が並んでいる。黒樫の森の冊子は思ったより薄く、代わりに、隣の石峰山地周辺の冊子が数冊に分かれていた。
フィオナが眉を寄せる。
「森より、山の方が多い」
「石峰山地南麓。差出人の住所もそこだった」
「マーヤ・セレン」
「うん」
リンは山地側の記録を開いた。
七年前、交易路一部崩落。
同年冬、北部山道閉鎖。
六年前、山羊の失踪増加。
五年前、黒樫村周辺で家畜被害。
四年前以降、黒樫の森北部への定期便停止。
その下に、小さく追記があった。
森林内の獣道、複数消失。原因不明。
リンはその一文で手を止めた。
「獣道が消えた?」
「道が崩れた、じゃなくて?」
「消失、って書いてある」
フィオナが横から覗き込む。
「風路じゃなくて、獣道?」
「うん。地上の道」
「でも、原因不明」
リンはページをめくった。
追加調査なし。危険区域指定継続。黒樫村管理官による立入制限あり。
そこで記録は途切れている。
「ヴァルクさんの配達が途切れた時期と、近いね」
「近い」
リンは受領票の束へ視線を戻した。
八年前まで、指印がある。
その後、交易路が崩れ、山道が閉じ、獣道が消え、配達が止まった。
そして今、子供の手紙が戻ってきた。
危険な魔獣が生息。
受取人の存在を確認できず。
リンは奥歯を軽く噛んだ。
「怒ってる?」
フィオナが聞いた。
「少し」
「少し?」
「けっこう」
「だと思った」
リンは息を吐く。
「でも、怒ってるだけだと間違える」
「うん」
「本当に危ないかもしれない。ヴァルクさんがそこにいないかもしれない。黒樫村の人たちが、何かを見たのかもしれない」
「うん」
「だから、確かめる」
フィオナは受領票を一枚ずつ揃え直した。
指印のある紙を、一番上に置く。
「この人、受け取る時、どうしてたんだろうね」
「どうしてた?」
「この指印、すごく大きい。枠からはみ出してる。でも、毎回ちゃんと同じ場所に押そうとしてる」
リンは受領票を覗き込んだ。
確かに、指印は毎回少しずつずれている。けれど、どれも受領欄の近くにある。紙の端を破らないように、押す力を加減した跡もあった。
「小さい紙だったんだろうね」
「うん。人間用の」
「押しにくかっただろうな」
「それでも押してる」
フィオナは静かに言った。
「郵便を受け取るために」
記録庫の空気が、また少し冷たく感じた。
リンは受領票の名前を見た。
ヴァルク・ガルム。
返送票の黒い印ではなく、受領票の黒い指印。
同じ黒でも、まったく違う。
「フィオナ」
「なに?」
「保護袋、厚めにして。森の湿気がある」
「もう用意するつもりだった」
「さすが」
「だから、こういう時だけ褒めるの禁止」
「じゃあ、今度から普段も褒める」
「それ、信用していい?」
「努力する」
「信用できない返事だ」
フィオナはそう言いながら、受領票を丁寧に戻した。
リンは名簿を閉じる前に、もう一度だけ該当ページを見た。
登録は消えていない。
住所も消えていない。
名前も消えていない。
なら、まだ終わっていない。
リンは名簿の端を押さえ、ゆっくりと閉じた。




