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風待ちの魔女郵便  作者: Loui.Sue
Letter4 名前を呼ぶ手紙
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名簿に残る名前

 記録庫は、朝でも少し冷えていた。


 石造りの壁に沿って、分類棚が奥まで並んでいる。棚には地域別、種族別、協定別の札が掛けられ、古い利用者名簿の背表紙が隙間なく詰まっていた。


 リンは黒樫の森の棚の前で、脚立を押さえていた。


「その段?」


「もう一つ上」


 上にいるフィオナが、腕を伸ばした。


「それ、危なくない?」


「危なくない高さまでしか上がってない」


「フィオナの危なくないは、けっこう危ない」


「リンに言われたくない」


「それはそう」


 リンが素直に認めると、フィオナは棚の奥から厚い名簿を引き出した。


 表紙には、黒樫森林協定区域、とある。


 革の角は擦れているが、金具はまだ生きていた。フィオナは脚立を降りる前に、名簿の下へ布を当てた。古い紙粉が落ちないようにするためだ。


「重い?」


「重い。でも落とさない」


「落としたら?」


「リンが受け止める」


「名簿だけね」


「私も受け止めて」


「努力はする」


「そこは即答して」


 小声のやり取りは、記録庫の高い天井に吸われた。


 机へ戻ると、フィオナは名簿を置く前に布を広げた。紙を傷めないよう、綴じ金具の側からそっと開く。


 古い紙の匂いがした。


 乾いた木と、少しだけ湿った埃の匂い。


「灰角族の項目は……ここ」


 リンは索引をたどった。


 灰角族。


 山岳および森林地帯に居住する知性種族。大型。角部を持つ。共通語の使用に個体差あり。森林管理、獣害監視、山道保全に従事する例あり。


 その横に、古い注記が貼られている。


 魔獣分類に含めない。協定対象利用者として扱うこと。


 リンはその一文を、指でなぞらなかった。


 ただ、目で追った。


「ちゃんと書いてある」


「うん」


 フィオナが小さく頷く。


「ちゃんと書いてあるのに、返送票には書かれなかった」


 リンは何も返せなかった。


 ページをめくると、黒樫の森の利用者一覧が出てきた。村、木材組合、山道管理小屋、季節宿、監視塔。


 その末尾に、太い字で一つの名前がある。


 ヴァルク・ガルム。


 利用者番号。登録日。居住地。受領印形式。


 指印。


 リンは最後の項目で目を止めた。


「指印?」


「灰角族は、署名より指印が多いみたい。筆記具が小さすぎるから」


「そっか」


 フィオナは別の箱から、古い受領票の束を取り出した。


「八年前までの分、こっちに残ってた」


 紐をほどくと、何枚もの受領票が現れた。人間の署名、組合印、村役場の受領印。その中に、紙面の枠から大きくはみ出した黒い指印があった。


 ヴァルク・ガルム。


 受領。


 黒樫の森、北部監視塔跡。


 その印は、枠の中に収まっていなかった。端が少し潰れ、紙の繊維に深く入っている。


 大きな指だったのだろう。


 リンはそれを見て、胸の奥が妙に静かになるのを感じた。


 怖いかもしれない。


 大きいかもしれない。


 角があるかもしれない。


 でも、この指は、ここで郵便を受け取っていた。


「いたんだね」


 フィオナが言った。


「うん」


 リンは頷いた。


「少なくとも、この時は」


 受領票の端には、配達担当者の署名も残っている。八年前の日付。北方中継支局所属の郵便魔女。


 それ以降の束は、途切れていた。


「この後、何があったんだろう」


「黒樫の森周辺の事故記録を見よう」


 リンは別棚へ向かった。


 そこには、配達事故、通行止め、風路異常、獣害記録が並んでいる。黒樫の森の冊子は思ったより薄く、代わりに、隣の石峰山地周辺の冊子が数冊に分かれていた。


 フィオナが眉を寄せる。


「森より、山の方が多い」


「石峰山地南麓。差出人の住所もそこだった」


「マーヤ・セレン」


「うん」


 リンは山地側の記録を開いた。


 七年前、交易路一部崩落。


 同年冬、北部山道閉鎖。


 六年前、山羊の失踪増加。


 五年前、黒樫村周辺で家畜被害。


 四年前以降、黒樫の森北部への定期便停止。


 その下に、小さく追記があった。


 森林内の獣道、複数消失。原因不明。


 リンはその一文で手を止めた。


「獣道が消えた?」


「道が崩れた、じゃなくて?」


「消失、って書いてある」


 フィオナが横から覗き込む。


「風路じゃなくて、獣道?」


「うん。地上の道」


「でも、原因不明」


 リンはページをめくった。


 追加調査なし。危険区域指定継続。黒樫村管理官による立入制限あり。


 そこで記録は途切れている。


「ヴァルクさんの配達が途切れた時期と、近いね」


「近い」


 リンは受領票の束へ視線を戻した。


 八年前まで、指印がある。


 その後、交易路が崩れ、山道が閉じ、獣道が消え、配達が止まった。


 そして今、子供の手紙が戻ってきた。


 危険な魔獣が生息。


 受取人の存在を確認できず。


 リンは奥歯を軽く噛んだ。


「怒ってる?」


 フィオナが聞いた。


「少し」


「少し?」


「けっこう」


「だと思った」


 リンは息を吐く。


「でも、怒ってるだけだと間違える」


「うん」


「本当に危ないかもしれない。ヴァルクさんがそこにいないかもしれない。黒樫村の人たちが、何かを見たのかもしれない」


「うん」


「だから、確かめる」


 フィオナは受領票を一枚ずつ揃え直した。


 指印のある紙を、一番上に置く。


「この人、受け取る時、どうしてたんだろうね」


「どうしてた?」


「この指印、すごく大きい。枠からはみ出してる。でも、毎回ちゃんと同じ場所に押そうとしてる」


 リンは受領票を覗き込んだ。


 確かに、指印は毎回少しずつずれている。けれど、どれも受領欄の近くにある。紙の端を破らないように、押す力を加減した跡もあった。


「小さい紙だったんだろうね」


「うん。人間用の」


「押しにくかっただろうな」


「それでも押してる」


 フィオナは静かに言った。


「郵便を受け取るために」


 記録庫の空気が、また少し冷たく感じた。


 リンは受領票の名前を見た。


 ヴァルク・ガルム。


 返送票の黒い印ではなく、受領票の黒い指印。


 同じ黒でも、まったく違う。


「フィオナ」


「なに?」


「保護袋、厚めにして。森の湿気がある」


「もう用意するつもりだった」


「さすが」


「だから、こういう時だけ褒めるの禁止」


「じゃあ、今度から普段も褒める」


「それ、信用していい?」


「努力する」


「信用できない返事だ」


 フィオナはそう言いながら、受領票を丁寧に戻した。


 リンは名簿を閉じる前に、もう一度だけ該当ページを見た。


 登録は消えていない。


 住所も消えていない。


 名前も消えていない。


 なら、まだ終わっていない。


 リンは名簿の端を押さえ、ゆっくりと閉じた。

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