返送印②
支局長室の扉は、半分だけ開いていた。
中からは、紙をめくる音と、低い咳払いが聞こえる。朝の報告書が積まれている時間だ。リンは扉の前で一度足を止め、封筒を持ち直した。
保護袋に入れたせいで、返送印の黒は少しだけぼやけて見えた。
けれど、消えたわけではない。
「入れ」
中から声がした。
リンは顔を上げる。
「まだノックしてません」
「扉の前で二人分の足音が止まった。急ぎの顔だろう」
オスカー・レーヴェンは机の向こうで書類から顔を上げた。灰色の髪は朝から少し乱れていて、眼鏡の横には細い紙片が挟まっている。昨夜から残っている分類票だ。
フィオナが小さく頭を下げた。
「還付便から、確認していただきたい郵便物があります」
リンは机の上の空いた場所を見つけ、保護袋ごと封筒を置いた。返送印が上に来る向きにする。
オスカーはすぐには手を伸ばさなかった。まず、宛名を読んだ。それから返送理由を読んだ。
その順番だけで、リンは少し息がしやすくなった。
「北方中継支局の返送印だな?」
「はい」
「返送理由は?」
「宛先地域に危険な魔獣が生息。受取人の存在を確認できず、還付」
リンが読み上げると、オスカーは眉間に皺を寄せた。
「受取人名は?」
「ヴァルク・ガルムさん。黒樫の森、北部監視塔跡。灰角族の利用者登録があります」
「灰角族か……」
オスカーはそこで初めて封筒を手に取った。保護袋の上から、角の傷みと封緘を確かめる。
「開封は」
「されていません」
「水濡れは」
「なし。封緘も無事です。ただ、仕分けの擦れがあります」
答えたのはフィオナだった。
オスカーは頷いた。
「エルナを呼べ」
「もう来ています」
背後から声がした。
リンが振り返ると、エルナ・ヴァイスが扉の横に立っていた。片手に救援記録ではなく、薄い規則綴りを持っている。
「廊下でフィオナから少し聞きました」
「早いな」
「この手の返送は、遅い方が困ります」
エルナは部屋へ入り、机の横に立った。封筒を見る。その目は、返送印よりも先に、やはり宛名へ行った。
ヴァルク・ガルム。
声には出さない。
けれど、読んだのは分かった。
「危険地域での配達中断自体は、規則違反ではありません」
エルナは静かに言った。
「はい」
リンは頷いた。
「現地で郵便魔女、または管理官が危険と判断した場合、配達を中断して持ち帰ることは認められています。特に黒樫の森は、近年、家畜被害と通行止めの記録があります」
「そこは分かっています」
「分かっている顔ではありませんね」
リンは少し口を結んだ。
エルナは責めるようには言わなかった。ただ、リンの顔に出ているものを、そのまま指摘しただけだった。
「危険なら、戻っていい。そこは曲げません」
「はい」
「でも、これは別です」
エルナは返送票の一行を指した。
危険な魔獣が生息。
「危険地域への中断なのか、受取人を魔獣と見なした返送なのか。記録の書き方が混ざっています」
オスカーは椅子の背にもたれた。
「受取人の存在を確認できず、という文言も弱いな」
「弱いというより、確認した跡がありません」
フィオナが記録紙を差し出した。
「利用者登録は有効です。住所変更、死亡届、登録抹消、いずれもなし。最後の受領記録は八年前です」
「八年前から配達がない」
「はい」
「その間、誰も確認していないのか」
「少なくとも、この記録上は」
フィオナの返事は小さかった。
リンは封筒から目を離せなかった。
八年。
その長さは、言葉にすると短い。けれど、一通の手紙を待つ時間としては長すぎる。
「差出人は子供か」
オスカーが聞いた。
「たぶん」
フィオナが答える。
「字と切手の貼り方だけでは断定できません。ただ、慣れてはいません。宛名の名前を、何度も見ながら書いた跡があります」
フィオナの返事は、少しだけ早かった。
オスカーはその声を聞いて、わずかに目を細めた。叱るのではなく、分かっている、という顔だった。
「リン」
「はい」
「お前はどう見る」
リンは一度、返送印から目を離した。
どう見る。
危険な森。八年前から途切れた配達。灰角族。返送印。子供の字。宛名にかかった黒い円。
どれも、見えている。
その中で、一つだけ、見落としてはいけないものがある。
「この封筒は、まだ配達不能だと確定していません」
リンは言った。
「危険で近づけない可能性はあります。ヴァルク・ガルムさんが、もうそこにいない可能性もあります。受け取れない事情があるかもしれません」
オスカーは静かに聞いている。
「それでも、名前が残っています。登録も、住所も、消えていません」
リンは保護袋の端に指を置いた。
「なら、確認しないまま、魔獣がいるから返す、では終われません」
エルナは何も言わなかった。
オスカーは短く息を吐いた。
「通常便では出せない」
「はい」
「危険地域指定が絡む。再配達ではなく、所在確認を兼ねた特別配達扱いにする」
リンの背筋が、少しだけ伸びた。
「許可されますか」
「条件付きだ」
オスカーは机の上の印箱を開けた。
「黒樫村の管理官に照会。現地で危険が確認された場合は中断。灰角族本人、または明確な受領不能理由を確認できなければ、封筒は持ち帰る」
「はい」
「森へ入るのは二名。リン、フィオナ」
フィオナが目を瞬いた。
「私もですか」
「封筒の状態確認と、現地での再保護が必要になる。森の湿気もある。お前の方が向いている」
「……分かりました」
フィオナは少しだけ緊張した顔で頷いた。
リンは横目でその表情を見る。怖がっていないわけではない。けれど、逃げる顔ではなかった。
「エルナ」
「はい」
「危険中断の判断基準を二人に渡せ」
「すでに持ってきています」
「本当に早いな」
「遅い方が困りますから」
エルナは規則綴りから一枚を抜き、リンへ渡した。
「森の奥で判断に迷ったら、これを見なさい」
「読みながら飛ぶな、ですよね」
「飛行中に読んだら没収します」
「何をですか」
「箒」
「それは困ります」
「なら読まない」
リンが少しだけ肩をすくめると、フィオナが横で息を漏らした。
笑いかけた空気は、すぐに戻る。
机の上には、返送印の押された封筒がある。
オスカーは支局長印を手に取った。朱肉をつけ、特別配達申請票の下部へ押す。
乾いた音がした。
「配達を許可する」
オスカーは印を戻し、リンを見た。
「ただし、間違えるな。これは意地で届ける仕事じゃない」
「はい」
「名前を確認する仕事だ。届けられるなら届けろ。届けられないなら、なぜ届けられないのかを持ち帰れ」
リンは頷いた。
「二人で行って、二人で戻れ」
「はい」
フィオナも、少し遅れて頷く。
「はい」
エルナはその返事を聞いてから、封筒を保護袋ごとフィオナへ戻した。
「フィオナ。出発前に二重保護へ。湿気対策を優先。衝撃より水分」
「分かりました」
「リン。黒樫の森の上空は低く飛ばない。枝に近づきすぎると、視界より先に箒が取られる」
「はい」
「あと」
エルナはそこで少しだけ目を細めた。
「灰角族を初めて見るなら、驚いてもいいです」
リンは返事に詰まった。
エルナは続ける。
「大きいです。角もある。声も低い。森の中で会えば、怖いと思うかもしれません」
「……はい」
「それと、受取人として扱うことは、別です」
リンは、封筒の宛名を見た。
ヴァルク・ガルム。
「はい」
今度の返事は、さっきよりもはっきり出た。
「別です」
オスカーはそれ以上、何も言わなかった。
支局長室を出る時、リンは一度だけ振り返った。机の上には、朱印の押された特別配達申請票がある。
返送印とは違う赤だった。
消すための印ではない。
もう一度、確かめるための印だった。




