返送印①
返送印は、宛名より濃く押されていた。
黒い円形の印が、封筒の右下へ半ば食い込むように残っている。輸送中に擦れた角よりも、差出人の幼い字よりも、そこだけが妙にはっきりしていた。
配達不能。
宛先地域に危険な魔獣が生息。受取人の存在を確認できず、還付。
リンは、その二行を読み終えてから、もう一度、宛名へ目を戻した。
ヴァルク・ガルム。
黒樫の森、北部監視塔跡。
不揃いな文字だった。大人の字ではない。筆圧が強く、何度か書き直した跡があり、最後の「ム」だけ少し右へ下がっている。おそらく、差出人は封筒に名前を書くことに慣れていない。
それでも、その名前だけは、間違えないように書こうとしたのが分かった。
返送印は、その端にかかっていた。
「これ、見て」
フィオナはそう言って、封筒を机の上へ置いた。指では押さえなかった。封筒の紙が薄く傷んでいるからだ。代わりに、手のひらを少し浮かせたまま、リンの方へ滑らせる。
東部第四支局の仕分け室には、朝の郵便袋がまだ半分ほど残っていた。開いた袋の口から、封筒の角や荷札の紐がのぞいている。窓の外では、発着場の箒掛けが風に鳴っていた。
リンは椅子へ座らず、机の前に立ったまま封筒を見下ろした。
「東部第四の返送印じゃないね」
「北方の中継支局。昨日の夕方、還付便に混ざって戻ってきた」
「混ざってた?」
「うん。普通の未達扱いで」
フィオナの声は、いつもより少し低かった。
リンは返送票を持ち上げようとして、やめた。封緘は破られていない。水濡れもない。ただ、何度も仕分け台を渡ったせいか、封筒の端が白く毛羽立っている。
「中は?」
「見てない。開封理由がないもの」
「だよね」
リンは短く返して、返送理由の文字をもう一度読む。
危険な魔獣が生息。
受取人の存在を確認できず。
配達不能。
「灰角族」
「うん」
「魔獣じゃないよね」
「少なくとも、組合の利用者分類では知性種族。森林協定の対象にも入ってる」
フィオナは棚から一枚の薄い記録紙を取り出した。すでに調べてあったらしい。指先に紙粉がつかないよう、端だけを摘んでいる。
「利用者登録も残ってた。ヴァルク・ガルム。黒樫の森、北部監視塔跡。八年前まで、受領記録あり」
「八年前まで?」
「そこから後は、配達記録がない。住所変更も、死亡届も、登録抹消もなし」
リンは眉を寄せた。
飛行制限が解除されて、今日が通常勤務に戻る最初の日だった。医務官からは「長距離便は段階的に」と念を押され、エルナからは「勝手に旧風路へ入らない」とさらに念を押された。
だから、朝のうちは仕分け補助と記録確認だけで終わると思っていた。
思っていたのに、封筒一通が机の上に来ただけで、胸の奥が少し嫌な形に沈んだ。
「危険だから配達を中断した、なら分かる」
リンは封筒を少しだけ動かした。返送印が宛名の上から外れるように。
「現場判断として、そういうことはある」
「うん」
「でも、この書き方だと」
言いかけて、リンは一度口を閉じた。
魔獣。
その言葉は、受取人の名前よりも濃く押されている。
「ヴァルク・ガルムさんが、最初から受取人じゃなかったみたいに見える」
フィオナはすぐには答えなかった。
仕分け室の奥で、誰かが郵便袋を閉じる音がした。紐を引く音。金具が当たる音。それから、発着場へ向かう足音。
いつも通りの朝だった。
その中で、机の上の封筒だけが、戻ってきた理由を黒く抱えている。
「差出人は?」
リンが聞くと、フィオナは封筒の裏を示した。
マーヤ・セレン。
北方第二区、石峰山地南麓、セレン牧羊場。
こちらも子供の字だった。宛名よりさらに小さく、途中で一度、村名を書き損じて上から直している。
「子供?」
「たぶん。切手も、少し曲がってる」
「そこは見なくてもいいでしょ」
「見るよ。貼った人がどれだけ緊張してたか、だいたい出るもの」
フィオナは小さく息を吐いた。
「この子、たぶん初めて手紙を出してる」
リンは封筒の表と裏を見比べた。
初めて出した手紙が、返ってきた。
それだけなら、郵便局では珍しくない。宛先不明、転居先不明、料金不足、封筒の破損。戻る理由はいくつもある。
けれど、この封筒は違う。
戻ってきたのは、手紙だけではない。
名前の扱いまで、一緒に戻されている。
「利用者名簿、もう一度見たい」
「出してある」
「さすが」
「こういう時だけ褒めるの、ずるい」
「普段も褒めてるよ」
「荷紐が綺麗に結べた時だけね」
フィオナはそう言って、少しだけ口元を緩めた。けれど、視線は封筒から離れない。
リンも笑い返そうとして、うまくいかなかった。
宛名の上にかかった黒い返送印が、どうしても目につく。
「リン」
「うん」
「これ、通常の再配達で出せる?」
「無理」
リンは即答した。
「危険地域指定が入ってる。返送理由も、現地判断として一度記録されてる。勝手に持ち出したら、こっちが手順違反になる」
「じゃあ」
「だから、手順を踏む」
リンは封筒を持ち上げた。
今度は、宛名の部分を親指で隠さないようにした。薄い紙越しに、便箋の重みがわずかに指へ伝わる。
「返送が正しいかどうか、確認する。ヴァルク・ガルムさんが本当に受け取れないのか。危険で近づけないのか。それとも、誰も名前を確かめに行かなかっただけなのか」
フィオナが、少しだけ目を細めた。
「行く気?」
「まだ。まずは記録」
「その顔、行く気の顔だよ」
「記録を見てから」
「行く気の人って、だいたいそう言う」
リンは封筒を胸の前で持ったまま、ほんの少しだけ唇を尖らせた。
「今日は飛行制限、解除されたし」
「解除初日に言う言葉じゃない」
「長距離便は段階的にって言われただけ。黒樫の森は、たぶん長距離じゃない」
「たぶん、をつけた」
「つけたね」
二人は顔を見合わせた。
軽く笑えたのは、一瞬だけだった。
フィオナが記録紙をまとめ、リンは封筒を保護板の上へ置く。返送印の黒い円が、朝の光を受けて少し鈍く浮いた。
宛名は、その下でまだ読める。
ヴァルク・ガルム。
リンはその名前を、声には出さずにもう一度読んだ。
読めるなら、まだ消えていない。
「支局長に上げよう」
「うん」
フィオナは封筒を専用の薄い保護袋へ入れた。紙が擦れないよう、袋の口を少し広げて、ゆっくりと。
その動きが、妙に慎重だった。
まるで、封筒ではなく、そこに書かれた名前を傷つけないようにしているみたいだった。




