配達以外②
発着場へ降りた一行を、ハインは一人で待っていた。
リンの姿を見たときにも、彼はすぐには近づいてこなかった。
補給袋を積んだ箒。
工具箱を抱えた設備技師。
局舎を見上げながら記録を取る組合員。
それらを順番に見て、ようやく口を開く。
「本当に来たな」
「来ると言ったでしょう」
「言うだけなら、誰でもできる」
「私、預かったものは届けますから」
「今日は何も持ってないだろ」
医務官との約束どおり、リンの箒には小さな水筒しか積まれていなかった。
「私が道を運びました」
そう答えると、ハインは少しだけ目を細めた。
「そうか」
それ以上は言わず、補給班を局舎へ案内する。
食堂の大きな机へ、運ばれてきた物資が並べられた。
保存食、干し肉、豆、塩、砂糖。傷薬と包帯。新しい刃のついた工具。局務人形の関節部へ使う交換部品。
最後に、革紐でまとめられた本の束が置かれる。
ハインの手が、そこで止まった。
「何冊だ」
「三十冊です」
リンが答える。
「少ないな」
「食料より本を優先するわけにはいきません」
「十一年、同じ本を読んでたんだぞ」
「次は増やします」
「次も来る気か」
「来ますよ」
ハインは本の一冊を手に取り、表紙を親指で撫でた。
「なら、次は歴史書を増やせ。恋愛小説ばかり持ってくるな」
補給担当の郵便魔女が顔を上げた。
「選んだのは支局の司書です」
「十一年待った男に、恋愛小説を十二冊も読ませる気か」
「嫌なら私が持って帰ります」
「嫌とは言ってない」
ハインは十二冊の恋愛小説を、自分の側へまとめて寄せた。
設備技師はその横を通り、三号の点検を始めた。
三号は受付台の前に立ったまま、陶器の顔を技師へ向けている。
「右肩の駆動軸が摩耗していますね。交換すれば、腕は動かせそうです」
「部品が合うのか」
「同系統の規格が工房に残っていました。完全には同じではありませんが、削れば使えます」
技師が工具箱を開く。
三号の肩板が外され、内部から古い銀色の歯車と細い術式線が現れた。
ハインはすぐ傍で見ていたが、手は出さなかった。
「あなたが直していたんですか」
技師が尋ねる。
「動かなくなるたびにな。正しい直し方かは知らん」
「十一年動いていたなら、十分正しかったんでしょう」
その言葉に、ハインは何も返さなかった。
リンは医務官の指示どおり椅子へ座り、水を飲みながら局内を見回した。
前に来たときと同じ場所だ。
けれど今日は、食堂から人の声が聞こえる。
工具の触れ合う音があり、紙をめくる音があり、補給袋を運ぶ足音がある。
十一年間、ハインと局務人形だけだった郵便局へ、組合員が戻ってきていた。
そのとき、受付の奥から、小さな鐘の音がした。
澄んだ音ではない。
錆びた金属を無理に鳴らしたような、かすれた響きだった。
三号が技師に肩を開かれたまま、顔だけを受付台へ向ける。
「受入設備、作動」
ハインが立ち上がった。
「来るぞ」
「何がですか」
記録官が尋ねる。
「郵便だ」
一行が受付へ移動する。
受入台の奥には、真鍮製の大きな輪が据えつけられていた。
かつて各地の風路と接続され、行き先を失った郵便物を退避させるために使われていた旧式の転送枠。廃局後は停止したことになっていた設備だった。
輪の内側で、空気が渦を巻いている。
細かな埃と紙片が舞い上がり、青白い術式文字が一つずつ点灯していく。
「触らないでください」
リンは全員を受入台から離した。
渦が強くなる。
一瞬だけ、輪の向こうに別の空が見えた。
風路の上を飛ぶ郵便船の帆と、暗い雲。それが激しく揺れたかと思うと、視界が白く弾ける。
重い音を立てて、郵便袋が受入台へ落ちた。
輪の光が消える。
あとには、灰色の厚布で作られた袋だけが残った。
袋の封印は切れていない。
側面には現在使われている管理札がつき、北方第六風路を示す青い線が引かれていた。
「現在の郵便物です」
記録官が札を確かめる。
「三日前、風路消失の際に行方不明になった輸送袋と番号が一致します」
設備技師が、光を失った転送枠を見上げた。
「この局は、まだ接続を受けているのか」
「ずっとだ」
ハインが答えた。
「毎日じゃない。何も来ない月もある。だが、風路が消えたあとには増える」
リンは受入台の郵便袋を見つめた。
風待ち郵便局が郵便を奪っているのではない。
行き先を失い、空から落ちるはずだった郵便を、古い設備がここへ逃がしている。
廃止されても、誰にも管理されなくなっても、この局は仕事をやめていなかった。
「袋には触れないでください」
リンが言った。
「封印と管理番号だけ記録します。持ち出しは、支局の許可を取ってからです」
「持って帰らないのか」
ハインが尋ねる。
「今日は設備調査と補給だけです」
「真面目になったな」
「最初から真面目です」
「そうだったか」
ハインの言い方に、リンは少しだけ唇を尖らせた。
その直後、指先に触れていた旧風路の感覚が揺らいだ。
リンは窓の外へ顔を向けた。
来たときには細くても一定だった流れが、途切れ始めている。
「作業を止めてください」
声を上げると、設備技師が三号の肩から顔を上げた。
「あと少しで部品が入る」
「帰路が消え始めています」
「どのくらい持つ?」
記録官が尋ねる。
リンは窓際へ移動し、手袋を外した。
細い流れの一部がすでに千切れ、元の自然風へ溶けている。
「三十分。安全に戻るなら、二十分以内に出ます」
設備技師は一瞬だけ三号を見たあと、すぐに工具を片づけ始めた。
「仮固定までします。続きは次回です」
三号の肩板が戻される。
交換部品は完全には馴染んでいないものの、右腕が以前より僅かに持ち上がった。
「右腕駆動、暫定復旧」
三号が告げる。
「次回整備を待機します」
ハインは、補給物資と新しい本、それから動き始めた三号の腕を順番に見た。
「次はいつだ」
リンはすぐには答えなかった。
旧風路がいつ現れるのか、自分にも分からない。
今日と同じ入口が再び使える保証もない。
「見つけたら来ます」
「何日後だ」
「分かりません」
「そうか」
ハインは短く答えた。
怒りも、失望も見せなかった。
「なら、見落とすな」
「見落としません」
リンは箒へ跨がり、誘導索を確かめた。
補給物資を降ろしたぶん、帰りの隊列は少し軽い。
ただし、流れそのものは往路よりも遥かに弱くなっている。
「私から離れないでください」
全員が頷く。
リンは発着場の端から箒を滑らせ、消えかけた旧風路へ入った。
背後で誘導索が張られる。
振り返る余裕はなかった。
それでも、最後尾が霧へ入る直前、発着場に立つハインの姿が見えた。
前回と同じく、手は振っていない。
けれど今度は、その後ろに積まれた補給箱があり、局舎の中では三号の右腕が動いていた。
調査班が現行風路へ戻った直後、旧風路は完全に途切れた。
後続の箒が一騎ずつ安全圏へ入ったことを確認してから、リンはようやく息を吐いた。
「全員いますか」
「五名、全員帰還」
記録官が答える。
リンは右肩を回した。
僅かな重さはあるが、痛みはない。
「支局へ戻ります」
通常風路へ箒を乗せる。
今度は、後続にも道が見えている。
誘導索を外し、隊列を横へ広げることができる。
設備技師がリンの隣へ並んだ。
「あの局は、廃止されたんじゃなかったのか」
「廃止されています」
「それでも郵便を受け入れて、仕分け人形が動いて、管理人が待っている」
技師は考え込むように、後方の霧を見た。
「それを廃止と言うのか」
リンは答えられなかった。
制度の上では、風待ち郵便局は四十二年前に役目を終えた場所だった。
けれど今日、現在の管理番号を持つ郵便袋が、あの受入台へ流れ着いた。
誰にも知られないまま、局は今も、届かなかった郵便を受け止め続けている。
「支局へ戻ったら、調べます」
リンは前を向いた。
「何が起きているのかも。あそこにある郵便を、どうすればもう一度送り出せるのかも」
今度こそ、言葉だけで終わらせるつもりはなかった。




