配達以外①
王立風路技術学院へネラの返書を届けてから、四日が経った。
最初の三日間、リンは箒へ触れることすら許されなかった。
食事と睡眠、それから一日に二度、医務室で右肩と魔力の回復を確認されるだけ。支局の窓から郵便魔女たちが飛び立っていくのを眺めながら、机の上へ積まれた報告書を片づけて過ごした。
四日目の朝になって、ようやく短時間の試験飛行が認められた。
ただし、飛べるのは東部第四支局の周辺だけ。飛行時間は二十分以内。郵便物の携行は禁止され、同行者を一人つけること。
リンにとっては窮屈な条件だったが、箒へ跨がれるだけでも、昨日までよりはずっとよかった。
「飛び出して、そのまま北へ行ったりしないでよ」
発着場でエルナが言った。
彼女自身もまだ飛行許可が下りていない。額の包帯は外れていたが、今日は見届け役として、発着場に残ることになっていた。
「行きません」
「返事が早いわね」
「今日は本当に行きません」
「今日は?」
「言葉の綾です」
エルナが何か言い返す前に、医務官が懐中時計を開いた。
「二十分です。肩に痛みが出たら、時間に関係なく戻ってください」
「分かりました」
リンは箒の柄を握り、ゆっくりと地面を蹴った。
久しぶりに身体が浮き上がる。
発着場を離れ、支局周辺を巡る短い環状風路へ入ると、箒が追い風へ押されるように軽くなった。
肩に痛みはない。
魔力の流れも滞っていない。
速度を出そうと思えば、もっと出せる。
けれど、後ろには試験飛行へ同行する郵便魔女がいる。リンは決められた速度を守り、風路の中央を進んだ。
支局の北側を回り、二本目の観測塔が見えたところで、指先へ微かな違和感が触れた。
リンは速度を緩めた。
「どうしたの?」
後ろから声が飛ぶ。
「少し待って」
環状風路そのものに異常はない。
流れは安定しており、観測標の光にも乱れはなかった。
それとは別に、風路の下を横切るような細い筋がある。
現在使われている流れよりも低く、北西から南東へ延びている。押し固められた空へ、古い傷が浮き上がってきたような感触だった。
リンは手袋を外した。
空気へ触れた指先に、消えかけた魔力の癖が絡みつく。
「旧風路がある」
「どこに?」
「環状路の下。北西へ続いてる」
同行者が携帯計器を取り出した。
針は動かない。
「何も出てないよ」
「計器には映らない。もう少し下」
リンは環状風路を外れない範囲で高度を落とした。
細い流れを指先で辿る。
弱い。
けれど、昨日まで何もなかった場所に、確かに道ができている。
その先がどこへ続くのか、リンにはまだ分からない。ただ、風の癖が、風待ち郵便局へ入ったときのものとよく似ていた。
「戻る」
リンは箒を支局へ向けた。
「確かめないの?」
「いまは試験飛行だから」
自分で言って、少しだけ悔しかった。
それでも、ここで勝手に流れへ入れば、次の飛行許可がさらに遠のくことくらいは分かっている。
「位置を記録して。消える前に支局長へ報告する」
二人は速度を上げ、東部第四支局へ戻った。
「行きたいです」
報告を聞き終えるより先に、オスカーは頭を抱えた。
「まだ何も聞いてないぞ」
「風待ち郵便局へ続いている可能性があります」
「それは聞いた」
「消える前に確認する必要があります」
「それも分かる」
「では――」
「お前一人では行かせん」
小会議室の机には、リンが記録した位置と方角が書き込まれた地図が広げられていた。
エルナ、医務官、設備担当官のほか、補給便へ参加する候補者が集められている。
「一人で行くとは言っていません」
「言う前に止めてるんだ」
オスカーは医務官へ顔を向けた。
「どうだ」
「通常なら許可しません」
「通常ではないので、許可してください」
リンが口を挟む。
「患者は黙っていてください」
「もう患者では――」
「まだ制限中です」
医務官は書類へ目を落とした。
「ただし、リンさんが先導しなければ旧風路へ入れないのであれば、条件付きで認めます」
リンは背筋を伸ばした。
「ありがとうございます」
「まだ条件を言っていません」
医務官は指を一本ずつ立てた。
「調査班から離れない。郵便物も補給物資も持たない。単独で風路外へ出ない。現地での作業には参加せず、到着後は休息する。肩に痛みが出た場合、あるいは魔力が規定値を下回った場合は即時帰還」
「分かりました」
「それから、帰路の流れが弱まり始めたら、作業の進行に関係なくリンさんが撤収を判断してください」
「私が?」
「旧風路の状態を判断できるのは、あなたしかいないのでしょう」
リンは一瞬だけ黙った。
行きたいと言い出したのは自分だった。
けれど、自分の判断一つで、同行者全員を帰らせなければならない。
「分かりました」
今度は、さっきより少し慎重に答えた。
オスカーが机の地図を指で叩く。
「班は五名。ファルンが先導。補給物資は残りの郵便魔女二名が分担して運ぶ。設備技師一名、記録官一名。箒同士を誘導索でつなぎ、隊列を崩さないこと」
「旧風路の幅によっては、横に並べません」
「縦列でいい。お前が先頭だ」
「はい」
「目的は風待ち郵便局の所在確認、ハイン・ローデンへの補給、局務人形と設備の状態調査。それ以外へ勝手に手を広げるな」
「分かっています」
「郵便棚を見つけても、持ち出すなよ」
「分かっています」
「新しい郵便物があっても――」
「分かっています!」
リンが声を上げると、エルナが口元を押さえた。
「笑わないでください」
「笑ってないわよ」
「笑ってます」
オスカーは大きく息を吐いた。
「一時間後に出る。流れが残っているうちにな」
旧風路の入口は、試験飛行で見つけたときよりも薄くなっていた。
通常の観測器には、やはり何も映らない。
雲も、風向きも、周囲の魔力量も、計器の上では普段と変わらなかった。
けれどリンには、現行風路の下を斜めに横切る、細い流れが分かった。
「ここから入ります」
リンは後方を振り返った。
五騎の箒が一本の誘導索でつながれている。
索は相手を引っ張るためのものではない。霧や雲の中で隊列の距離を保ち、先頭の進路を後続へ伝えるためのものだ。
「私が高度を変えたら、そのままついてきてください。流れの中心から外れると、急に箒が重くなります。計器は当てにしないでください」
「君だけを見ろ、ということか」
最後尾の記録官が尋ねた。
「箒の前も見てください。私だけ見ていたら、枝にぶつかります」
設備技師が小さく笑った。
リンは手袋を外し、旧風路へ指先を重ねた。
流れの幅は箒一騎分より少し広い程度。
補給物資を積んだ後続が不用意に旋回すれば、穂先が外へ出る可能性がある。
「入ります」
箒の高度を落とす。
現行風路の補助が消え、身体が一度大きく沈んだ。
その直後、細い旧風路が箒の穂を拾う。
普段使う幹線ほど強くはない。それでも、風路外を自力で飛ぶよりは遥かに軽い。
誘導索が順番に張り、後続の箒が同じ流れへ入ってくる。
「二騎目、少し右」
リンが声を飛ばした。
「右?」
「そっちじゃない。私から見て右!」
「先に言ってくれ!」
「いま言いました!」
二騎目の箒が流れの中央へ戻る。
隊列が安定したことを確かめ、リンは速度を上げた。
旧風路は、現実の地形へ素直に沿ってはいなかった。
森の上を進んでいたと思えば、霧の中で急に高度を下げ、次には切り立った岩壁の脇を抜けていく。
後続の誰にも、道そのものは見えていない。
リンが少しでも進路を誤れば、全員が風路の外へ投げ出される。
肩の痛みよりも、その事実のほうが重かった。
「次、下がります。高度を二十」
声を出し、ゆっくりと箒を沈める。
誘導索を通じて、後ろの箒が続く。
しばらくすると、霧の向こうに石造りの発着場が現れた。
その奥に、古い局舎の屋根が見える。
「風待ち郵便局です」
リンが告げると、後ろから息を呑む音が聞こえた。




