選ぶため④
道幅は狭く、左右には山肌が迫っている。
少しでも流れの中心を外せば、岩壁から吹き返す風へ箒を取られる。
アデルが先を飛び、曲がり角と高度を知らせる。
「右へ曲がる!」
「見えてる!」
「次、上昇!」
「分かってる!」
リンは郵便鞄を揺らさないよう、身体全体で箒の傾きを制御した。
普段なら、アデルが指示するより先に流れの変化を読み取れる。
だが、いまは指先へ触れる風の感触が、僅かに鈍い。
肩の痛みを庇えば、箒の先が遅れる。
遅れを取り戻そうと魔力を流せば、計器の針が下がる。
まだ飛べる。
その判断を、何度も繰り返した。
前方で、アデルがまた少し速度を落とす。
リンが遅れているからだ。
「落とさなくていい!」
「落としてない!」
「さっきより遅い!」
「次の曲がりがきついから!」
曲がり角を抜けても、アデルは元の速度へ戻さなかった。
リンには分かっていた。
自分がついてこられる速度を選んでいる。
その配慮へ礼を言えば、消耗していると認めることになる気がした。
けれど何も言わずにいると、アデル一人へ負担を押しつけているようで、胸の奥が落ち着かなかった。
「アデル」
「何?」
「ごめん」
アデルが一瞬だけ振り返った。
「何が?」
「速度」
「何の話?」
「合わせてるでしょ」
「自意識過剰。私が飛びやすい速度で飛んでるだけ」
「絶対違う」
「なら、追い越せば?」
リンは箒へ魔力を流し込んだ。
二人の距離が縮まる。
やがて、箒が横へ並んだ。
「何で本当に追いつくのよ!」
「追い越せって言ったの、アデルでしょ!」
「言葉どおりに全力を出さないで!」
「まだ全力じゃない!」
「そういうところ!」
アデルが呆れた声を上げる。
リンは少し笑った。
肩は痛む。
身体も重い。
それでも、先ほどまで胸へ詰まっていた焦りが、少しだけほどけていた。
一人で飛んでいるのではない。
アデルが隣にいる。
自分が遅れれば、速度を落とす。
強がれば、怒る。
必要なら、郵便鞄を持って先へ行くとまで言った。
その言葉へ安心した自分を、リンはまだ素直に認めたくなかった。
だから、せめて今は隣を飛んだ。
自分だけが届けるのではない。
二人で、この返書を期限へ運んでいる。
その感覚は、背中の責任を軽くはしなかった。
ただ、一人で抱えていたときとは、重さのかかる場所が違っていた。
最後の中継塔を通過したとき、日没まで残り二十七分。
王立風路技術学院の時計塔が見えたときには、残り十一分だった。
リンは時計塔の針を確かめる。
まだ間に合う。
その事実へ安堵するより先に、足元の箒が一度沈んだ。
「リン!」
「大丈夫!」
アデルが横から距離を詰める。
「本当に?」
「着地までは!」
「その言い方、全然大丈夫じゃない!」
二人は発着場へ滑り込んだ。
箒が止まりきるより先に、アデルが地面へ降りる。
リンも続いたが、足へ力が入らず、身体が前へ傾いた。
アデルが腕を掴む。
「走れる?」
「誰に言ってるの」
「いま転びかけた人!」
「転んでない!」
「私が持つ?」
アデルの視線が、郵便鞄へ向く。
リンは反射的に肩帯を握った。
ここまで運んできた。
あと少しだった。
自分で渡したい。
その気持ちが先に立った。
「走れる」
リンは答えた。
アデルは一瞬だけ何か言いたそうにしたが、手を離した。
「じゃあ行くよ!」
二人は受付棟へ駆け込んだ。
学院の受付窓口へ着いたとき、リンの息は完全に上がっていた。
郵便鞄の封を解く指が、僅かに震える。
急げば急ぐほど、留め具がうまく外れない。
「貸して」
アデルが隣から手を伸ばす。
「できる」
「時間!」
リンは一度だけ息を吸い、指へ力を入れ直した。
今度は外れた。
返書を取り出し、窓口へ差し出す。
「ハルヴァ第三移動集落、ネラ・アウリムさんからの回答書類です」
学院の職員が、管理番号と封印を確認する。
壁の時計は、午後五時五十三分を示していた。
職員の指が書類をめくる。
署名。
公印。
本人確認記録。
一つずつ確かめる時間が、ひどく長く感じられた。
間に合っている。
まだ七分ある。
分かっていても、受領されるまでは終わらない。
もし封印に異常があれば。
記録へ不備があれば。
ネラの署名が所定の位置から外れていれば。
今さら何もできない可能性ばかりが、頭へ浮かぶ。
隣で、アデルが息を整えている。
彼女も何も言わず、職員の手元を見ていた。
やがて、受領印が持ち上げられる。
乾いた音が、窓口へ響いた。
「期限内の受領を確認しました」
その言葉を聞いた瞬間、リンは机へ両手をついた。
力が抜けた。
けれど、最初に浮かんだのは、自分が間に合ったという安堵ではなかった。
飛行眼鏡と革鞄を抱きしめながら、学院へ行きたいと口にしたネラの姿だった。
広場で選ばれた答えが、ここまで届いた。
これで学院へ行けると決まったわけではない。
家族と離れる寂しさが消えるわけでも、これからの暮らしが簡単になるわけでもない。
それでも、返事が届かなかったという理由だけで、その未来が閉じることはなくなった。
「間に合った……」
リンの声は、思ったより小さかった。
「当然でしょ」
アデルが隣で答えた。
リンは顔を上げる。
アデルも肩で息をしている。
自分へ速度を合わせたのを、何とも思っていない、それが当たり前だとでも言うよな、そんな表情だった。
「最後、私と同じ速度だったよね」
「荷物があっても飛べるから」
「途中まで、私が合わせてたんだけど」
「最後は並んだでしょ」
「張り合うところじゃない!」
アデルは呆れたように言ったあと、少しだけ笑った。
「でも、届いたね」
「うん」
リンは受領印へもう一度目を向けた。
自分が届けた。
そう言いたい気持ちは、確かにあった。
けれど、それだけではなかった。
ネラが選び、家族が送り出し、アデルが隣を飛び、ここまでつないだ。
一人だけで届けた手紙ではなかった。
「帰ろう、アデル」
「支局まで競争する?」
「いまの私に言う?」
「冗談」
「報告書を半分書いてくれるなら、乗るけど」
「やめとく」
「怖いの?」
「その言い方、覚えたからってすぐ使わないで!」
二人は並んで、受付棟を出た。




