選ぶため③
二人は箒へ跨がり、季節支線へ入った。
整えられた流れが箒の穂を包み、重かった身体を前へ押し出す。
雷雲の中を飛んでいたときとは、比べものにならないほど軽い。
それでも、減った魔力が戻るわけではなかった。
リンは干し果実を噛み、水で流し込んだ。甘味が舌へ残ったものの、空腹が満たされた感覚はほとんどない。
背中の郵便鞄へ、意識が向く。
中には、ネラが自分で署名した返答書類が入っている。
学院へ行きたい。
震えながら口にした少女の声を思い出した。
あの返事を出すまでに、ネラは家族も、集落での役目も、これまでの暮らしも考えた。そのうえで、自分の手で一つを選んだ。
リンが運んでいるのは数枚の書類にすぎない。
けれど、これが期限へ間に合わなければ、ネラがようやく選んだ答えは、学院へ届かなかったものとして扱われる。
選べと伝えておきながら、その選択肢を自分の失敗で閉じることだけは、したくなかった。
「リン」
前を飛ぶアデルが、肩越しに振り返った。
「何?」
「速度、落ちてる」
リンは速度計を見る。
気づかないうちに、アデルとの距離が少し開いていた。
「すぐ戻す」
「無理に合わせなくていい。風路を出るまでは、私が落とす」
「落とさなくてもついていける」
「いま遅れてたでしょ」
「干し果実を食べてたから」
「もう食べ終わってる」
「細かいなあ」
アデルは答えず、わずかに速度を落とした。
リンが追いつくために急加速しなくても、自然に並べる程度まで。
そのことが、少し悔しかった。
同時に、息が楽になった。
アデルは、リンの魔力計を覗こうとはしなかった。大丈夫かとも聞かない。ただ、離れない速度へ変えている。
気づかれていることが恥ずかしく、それでも何も言わずに隣へ残ってくれることが、思っていた以上に心強かった。
「そんなに遅くしなくていいよ」
「してない。流れに合わせてるだけ」
「さっきより遅い」
「向かい風になったの」
「嘘」
「喋れるなら、まだ平気そうだね」
アデルが口元を上げる。
リンも言い返そうとしたが、先に呼吸を整えた。
いま必要なのは、アデルへ追いつけることを証明することではない。
期限までに、郵便物を学院へ届けることだ。
分かっている。
それでも、速度を譲られたまま飛ぶことには、どこか落ち着かないものがあった。
最短経路へ向かう途中、北天第三管理塔から赤い信号が上がった。
アデルが信号の数を読み、表情を変える。
「主幹線、閉鎖」
「雷雲?」
「南へ広がったみたい」
二人は最寄りの中継塔へ降りた。
管理官が、机の上へ風路図を広げる。
「学院へ向かう主幹線は、少なくとも一時間は開かん。北側へ回るなら、到着は七時過ぎだ」
「間に合わない」
アデルが地図を睨んだ。
リンは懐中時計を開く。
午後一時二分。
期限まで、四時間五十八分。
ここへ来るまでに得たはずの余裕は、もうほとんど残っていない。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
ネラが返答を決めるのが遅かったわけではない。
帆鯨の集落が遠かったからでも、雷雲があったからでもない。
どれも避けられなかった事情だ。
それでも、期限が過ぎれば、学院の記録に残るのは、回答が届かなかったという結果だけになる。
リンが雷雲を越えたことも、ネラの父親が飛行眼鏡を直していたことも、家族が送り出すと決めたことも、何の理由にもならない。
「西稜郵便支線は?」
アデルが管理官へ尋ねた。
管理官は眉を寄せる。
「開いてはいる。だが狭いぞ。小型の郵便箒しか入れん。途中に中継塔も一つしかない」
西稜郵便支線は、山の稜線に沿って作られた正規の風路だった。
旅客船や貨物船は通れず、緊急の書留や速達便を運ぶ郵便魔女だけが利用する。流れが細く、山肌へ近いため、速度を保ったまま飛ぶには高い技術が必要だった。
「学院まで何時間?」
「この風なら、五時間弱」
アデルが懐中時計を見る。
「ぎりぎりだね」
その声に、迷いはなかった。
アデルはすでに、行くことを前提にリンを見ている。
「行ける?」
リンは西へ向かう流れへ手を伸ばした。
細い。
山から吹き下ろす風を受け、ところどころ揺れている。
それでも、流れそのものは途切れていない。
雷雲を抜けてきた自分の魔力は、もう十分とは言えなかった。肩の痛みも戻っている。
ここで無理をすれば、自分だけではなく、アデルまで遅らせるかもしれない。
自分一人なら、まだ飛べると言い張って、そのまま入っていただろう。
けれど隣には、アデルがいる。
アデルが自分へ速度を合わせれば、その分だけ到着が遅れる。
リンが倒れれば、彼女は郵便物だけでなく、自分まで助けなければならなくなる。
自分の無茶が、自分だけで終わらない。
そのことが、雷雲を前にしたときよりも重く感じられた。
それでも、ネラの返書を持ち帰るという選択はできなかった。
「行ける」
リンは答えた。
「魔力は?」
「風路の中なら問題ない」
嘘ではなかった。
十分でもなかった。
アデルは数秒、リンの顔を見た。
「途中で遅れたら置いてくよ」
「誰に言ってるの」
「郵便物は置いていかないけどね」
リンが顔を上げる。
アデルは地図を畳みながら、何でもないことのように続けた。
「リンが遅れたら、鞄を持って先に行く。だから、倒れるまで黙って飛ぶのは禁止」
「倒れないよ」
「答えになってない」
「……遅れたら言う」
「本当に?」
「本当」
アデルはまだ疑っている顔だったが、それ以上は追及しなかった。
「それでこそ」
二人は西稜郵便支線へ入った。




