選ぶため②
ネラ・アウリムは、集落中央の広場にいた。
十五歳ほどの少女だった。
長い黒髪を白い紐で結び、青い外套を身につけている。周囲には集落の大人たちが集まり、広場の中央には、鳥の羽と銀の輪を組み合わせた杖が置かれていた。
風読みになるための誓約式が始まるところだったらしい。
「ネラ・アウリムさんですか」
リンが尋ねると、少女が緊張した顔で頷いた。
「国際郵便組合、東部第四支局のリネット・ファルンです。王立風路技術学院から、本人限定書留をお預かりしています」
ネラの表情が固まった。
「学院から……?」
「本人確認と、受領の署名をお願いします」
差し出された用紙へ、ネラは震える手で名前を書いた。
リンは署名と管理番号を確認し、郵便鞄の封を開いた。
書留封筒を取り出し、両手で差し出す。
「こちらです」
ネラは、すぐには受け取らなかった。
「今じゃないと駄目でしょうか?」
「受け取りだけでもしてもらえると助かります」
少女は恐る恐る封筒を受け取った。
集まっていた人々が見守る中、封を切る。
中から数枚の書類を引き出し、一枚目へ目を落とした。
しばらく、何も言わなかった。
同じ行を何度も読み直している。
「……受かってる」
小さな声だった。
隣にいた女性が、息を呑む。
「ネラ?」
「合格してる。特待生で……授業料も、寮も……」
少女の声が震えた。
王立風路技術学院への合格通知だった。
回答書類の提出期限は、今日の午後六時。
ネラは通知が届かなかったため、不合格だと思い、集落の風読みになる決意をしていた。誓約を結べば、少なくとも数年間は群れを離れられない。
「どうするの」
誰かが尋ねた。
ネラは返事をしなかった。
学院へ行きたい。
けれど、村には病気がちな母と、まだ幼い弟がいる。自分が風読みになれば、家族へ安定した配給が与えられる。
ネラは書類を握ったまま、そのことを途切れ途切れに話した。
リンは黙って聞いていた。
「郵便魔女さんなら、どうする?」
ネラは回答書類を握ったまま、リンを見た。
「学院へ行きますか。それとも、ここに残りますか」
広場に集まった人々の視線が、今度はリンへ向けられた。
リンはすぐには答えられなかった。
学院へ行けば、ネラは帆鯨の群れと家族を離れる。
残れば、風読みとして家族の暮らしを支えられる。その代わり、学院へ行けたかもしれない未来を手放すことになる。
どちらを選んでも、何も失わずには済まない。
後悔しない方を選べばよい――そう言うのは簡単だった。
けれど、選ぶ前から正しい道が分かるのなら、ネラも見知らぬ郵便魔女へ答えを求めたりはしない。
リンは、自分の郵便鞄へ触れた。
自分にしか見えない道があれば、自分が飛ぶ。
危険な空を越えなければ届かないなら、自分が越える。
それを選択だと思ったことは、あまりなかった。ただ、自分がやる以外の答えを、最初から考えていなかっただけなのかもしれない。
ネラには自分で決めろと言いながら、自分は本当に選んできたのだろうか。
胸に浮かんだ疑問は、まだうまく言葉にならなかった。
「分かりません」
リンは正直に答えた。
ネラの表情が、僅かに曇る。
「私が決めたら、それはネラさんの返事じゃなくなりますから」
「でも、ここまで届けに来たのに」
「届けるところまでが、私の仕事です」
言い切ると、ネラは手元の書類へ目を落とした。
「何も教えてくれないんですね」
「ごめんなさい」
リンが謝ると、ネラは少しだけ笑った。
「でも、勝手に決められるよりはいいです」
広場の中央で、誓約の杖につけられた鳥の羽が風に揺れていた。
ネラは合格通知を見て、杖を見る。
学院へ行きたいのだろう。
それでも、その言葉を口にすれば、家族を置いていくことまで自分で選んだことになる。
誰かに背中を押してほしいのではない。
自分が進んでもよいと、家族から許してほしいのかもしれなかった。
そのとき、集まっていた人々の間から、一人の男が歩いてきた。
ネラの父親だった。
手には、古い飛行眼鏡と、小さな革鞄を持っている。
飛行眼鏡の金具は新しく磨かれ、革鞄の破れていた箇所には、丁寧な縫い跡が残っていた。
「これ」
父親は、二つを娘へ差し出した。
ネラが目を丸くする。
「いつ直したの」
「前から」
「どうして」
父親は、娘の顔ではなく、手の中の飛行眼鏡を見た。
「学院で使うだろ」
それ以上のことは言わなかった。
ネラの唇が、僅かに震えた。
母親が広場の端から歩み寄り、幼い弟の肩へ手を置く。
「ルウのことは、こっちで見るから」
「でも――」
「毎日じゃなくていいから、手紙を書いて」
ネラは飛行眼鏡と革鞄を抱えたまま、家族を見た。
行けとは言われなかった。
それでも、自分がいなくなったあとのことを、家族はもう考えていた。
少女は合格通知を胸へ押し当て、顔を伏せた。
やがて、何度も頷く。
「行きたい」
声は震えていた。
「私、学院へ行きたい」
広場に張りつめていた空気が、ゆっくりとほどけていった。
泣き出す者も、大きな声で祝う者もいなかった。
ただ、父親がネラの手へ飛行眼鏡を握らせ、母親が娘の髪へ触れた。
その光景を見ながら、リンは郵便鞄の肩帯を握った。
ネラは、誰かに答えを決めてもらったのではない。
けれど、一人だけで決めたわけでもなかった。
その違いが、胸のどこかへ引っかかった。
返答書類へ署名し、封筒へ収める。
ネラは自分で封を閉じると、リンへ差し出した。
「これ、届けてもらえますか」
リンは封筒を受け取り、管理番号を記録した。
「王立風路技術学院宛ての書留郵便として、お預かりします」
「期限に間に合う?」
リンは懐中時計を開いた。
午前十一時二十三分。
ここから帆鯨の痕跡を逆に辿り、季節支線の終端へ戻るまで、およそ一時間。
そこから学院までは、通常の風路を乗り継いで五時間十五分。
すべて予定どおりに進んでも、残る余裕は二十分ほどしかない。
雷雲は、先ほどよりも南へ広がっていた。
簡単な配達ではない。
けれど、届かない距離ではなかった。
「間に合わせます」
リンは封筒を郵便鞄へ収め、留め具を確かめた。
「私、預かったものは、ちゃんと届けてきましたから」
帰路も、帆鯨の群れが残した痕跡を辿った。
行きよりは迷わない。
けれど魔力は、確実に減っている。
雷雲へ入る前に、リンは集落から離れた空で信号筒を一発撃ち上げた。
赤い光が、青空へ長く尾を引く。
見つけた、という合図だった。
再び雲へ入る。
行きに通った空白を探し、雷を避け、横風へ逆らう。
郵便鞄には、行きにはなかった返書が入っている。
受け取る前よりも重くなったわけではない。
それでも、背中へかかる責任だけは、はっきりと増していた。
雲を抜け、帆鯨の痕跡を辿りきったとき、季節支線の整えられた流れが指先へ触れた。
箒を支えていた重さが、一気に軽くなる。
整備台では、アデルが腕を組んで待っていた。
「遅い」
「正午には間に合ったでしょ」
「十二時二十八分」
「……少しだけ」
「二十八分を少しって言わない」
アデルは文句を言いながらも、リンの顔と肩、郵便鞄を順番に見た。
「見つけた?」
「うん」
「手紙は?」
「届けた」
リンは鞄へ手を添えた。
「返事も預かった」
アデルの表情が変わる。
「期限は?」
「午後六時」
アデルはすぐに懐中時計を開いた。
「あと五時間半」
「学院まで、通常なら五時間十五分」
「余裕、十五分しかないじゃない」
「だから急ぐよ」
「その魔力で?」
リンの残存魔力は、整備台を離れたときより大きく減っていた。
風路へ戻った以上、飛び続けることはできる。だが、余裕があるとは言えない。
アデルは干し果実の包みを投げて寄越した。
「食べて」
「フィオナの?」
「リンの分。私のは食べた」
「全部食べたのかと思った」
「そんなことしたら、帰ってからフィオナに殺される」
二人は箒へ跨がり、季節支線へ入った。




