選ぶため①
王立風路技術学院からの書留郵便は、リンの郵便鞄へ収められていた。
本人限定であるため、受取人の身元を確認し、署名を得るまで他人へ渡すことはできない。外装には回答期限が記されているが、中に何が入っているかは分からなかった。
「学院からの期限指定書留なら、試験関係かな」
前方を飛ぶアデルが言った。
「さあ」
「興味ないの?」
「ネラ・アウリムさん宛ての手紙だし」
「真面目」
「普通でしょ」
「中身を開けるって言ってるんじゃないわ。予想くらいするのが普通でしょ」
「予想しても速くは届かないよ」
「そういうところ、エルナさんに似てきたね」
「それ、褒めてる?」
「半分くらい」
どこかで聞いた返しだった。
アデルが速度を上げる。
リンはため息をつきながら、郵便鞄を揺らさない範囲で箒へ魔力を流した。
支局から北天高原までは、すべて現在も運用されている風路でつながっている。
北上幹線から北天第三支線へ入り、そこから遊牧民の移動時期に合わせて開かれる季節支線へ乗り継ぐ。整備された流れの中であれば、箒を浮かせ、前へ進める力の大部分を風路が補ってくれる。
だからアデルも、リンも、長距離を高速で飛びながら魔力を温存できる。
アデルは速度を上げ続けたが、リンとの距離は広がらなかった。
「追いつけないの?」
アデルが肩越しに笑う。
「追いついてるでしょ」
「もっと出せる?」
「封筒の角を潰したら、あんたが報告書を書くんだからね?」
「その程度で潰れるわけないでしょ」
「だったら、あんたが持つ?」
「本人限定郵便の管理担当はリンでしょ」
「じゃあ、黙って飛んで」
アデルは一度だけ振り返り、少し面白くなさそうに前を向いた。
それでも、速度は落とさなかった。
二時間余りの飛行を終え、二人は北天高原へ続く最後の中継塔へ到着した。
季節支線は、そこからさらに北西へ延びている。
ハルヴァ第三移動集落は三日前、その支線と帆鯨の北上路が交わる地点を通過する予定だった。
しかし、管理塔へ届いていた最新の記録によれば、集落は予定の進路から外れ、現在地が分からなくなっていた。
「北側で雷雲が発生したらしい」
塔の管理官が地図を広げた。
「帆鯨の群れが進路を変えたんだろう。季節支線へ戻った記録もない」
「最後に確認されたのは?」
「三日前、この地点だ」
管理官が季節支線の西端を指した。
そこまでは、現在も使われている正規の風路である。
二人は中継塔を出ると、季節支線を進み、帆鯨の群れが通過する予定だった場所へ向かった。
支線の終端には、管理員が郵便や物資を受け渡すための小さな整備台が設けられている。風路の流れに固定された金属製の足場で、二頭の箒を係留できる程度の広さしかない。
時刻は午前八時四十二分。
予定地点に、移動集落の姿はなかった。
あるのは、自然風と、季節支線を流れる整えられた魔力だけだった。
リンは手袋を外し、指先へ意識を集中させた。
季節支線の外へ向かって、空気が大きく押し分けられている。
巨大な帆鯨の群れが通った跡だった。
「西へ曲がってる」
「支線はここまでだよ」
アデルが地図を確認する。
「分かってる」
「この先は、風路がない」
「うん」
風路の外へ出れば、箒を支える力は、すべて乗り手自身の魔力で賄わなければならない。
短い距離を緊急避難するだけでも負担は大きい。行き先の分からない群れを探しながら、何時間も飛び続けることなど、普通の郵便魔女にはできなかった。
アデルは携帯計器へ目を落とした。
「私は、行けない」
悔しそうではあったが、誤魔化そうとはしなかった。
「ここから何時間か分からない。ついていっても、村へ着く前に戻る分がなくなる」
「私が追う」
「一人で?」
「帆鯨が残した流れを使える。風路ほど強くはないけど、何もない空を飛ぶよりは消費を抑えられる」
「確かに、私には難しいけど」
「だから、ここで待ってて」
アデルは西の空を見た。
山脈のように積み上がった雲の内側で、青白い雷が光っている。
「その怪我でいけるの?」
「大丈夫」
「言って止まるなら、エルナさんがもう成功してるか」
「それは……そうかも」
「でも、正午を過ぎても戻らなかったら、私は救援を呼ぶ」
「まだ三時間以上あるよ」
「一分でも遅れたら呼ぶ」
「細かいな」
「時間管理は私の担当」
アデルは予備の信号筒をリンへ渡した。
「見つけたら一発。戻れなくなったら二発。怪我をしたら三発」
「雷雲の中で見える?」
「見える場所で撃って」
「注文が多い」
「同行者だからね」
リンは信号筒を収納帯へ差し込み、郵便鞄の留め具を確かめた。
「行ってくる」
「リン」
箒を風路の外へ向けたところで、呼び止められる。
「手紙だけじゃなくて、自分も戻ってくること」
リンは一度だけ頷いた。
「分かってる」
季節支線を離れた瞬間、箒へかかる重さが一気に増した。
追い風が消え、身体も鞄も、急に何倍も重くなったように感じる。
リンは箒へ魔力を送り込み、西へ続く帆鯨の痕跡へ穂先を合わせた。
帆鯨の残した流れは、旧風路よりも不安定だった。
巨大な身体が空気と魔力を押し分けた跡は残っている。だが、それ自体がリンの箒を運んでくれるわけではない。
わずかに抵抗の少ない場所を選び、何もない空を自力で飛ぶ。
魔力計の針は、通常風路にいたときとは比較にならない速さで下がっていった。
それでも、完全に手掛かりのない空を探し回るよりはよい。
帆鯨の群れは西へ進んだあと、高度を上げていた。
やがてリンの前に、巨大な雷雲が立ちはだかった。
外を回れば、痕跡を見失う。
雲の中へ入れば、雷と乱気流に襲われる。
リンは懐中時計を開いた。
午前九時十八分。
整備台へ引き返すだけなら、まだ十分に間に合う。
郵便物を持ち帰る権利もある。
それは失敗ではない。
郵便物を失わず、自分も無事に帰るための、正しい判断だった。ほかの郵便魔女から相談されたなら、リンも迷わず引き返すように言うだろう。
けれど、帆鯨の痕跡は、雷雲の中へ続いていた。
細いが、まだ見えている。
ここで引き返せば、今日中にもう一度この群れを捉えられる保証はない。帆鯨が明日も同じ進路を飛ぶとは限らなかった。
鞄の中にあるのは、期限を指定された郵便物だ。
中身は知らない。
受取人が何を待っているのかも、なぜその日までに届けなければならないのかも、リンには分からない。
だからこそ、自分の判断だけで、今日届くかもしれない手紙を明日へ回すことが怖かった。
風待ち郵便局で見た、未配達郵便の山が脳裏へ浮かんだ。
何十年も待ち続けていた手紙と、この一通が同じではないことくらい分かっている。天候が回復すれば、改めて配達に向かうこともできる。
それでも、あの棚を見てから、手紙を待たせることを、以前と同じようにただの遅延とは思えなくなっていた。
何より、この痕跡が見えているのは自分だけだった。
だから自分が行くしかない。
そう考えることは、リンにとってあまりにも簡単だった。
責任感なのか。
見つけた道を最後まで辿りたいという執着なのか。
飛ぶことなら自分にできると、証明したいだけなのか。
その境目は、自分でもよく分からなかった。
リンは時計を閉じた。
「行ける」
戻れる、とは言わなかった。
誰に聞かせるでもなく呟き、箒の柄を握り直した。
雲へ入った瞬間、視界が白く閉ざされた。
冷たい水滴が顔へ叩きつけられ、横風が箒を大きく押し流す。
雷鳴が腹の底まで響いた。
アデルのように、雷の動きを外から読む者はいない。
リンは帆鯨が通った痕跡だけを追った。
大きな身体が通過した場所では、雲の流れが左右へ分かれ、わずかな空白が残っている。
右。
少し下。
次は左。
指先に触れる魔力の薄い筋へ合わせ、箒を滑らせる。
直後、背後を青白い雷が裂いた。
「近いって……!」
思わず声が漏れた。
風路の外を飛び続ける疲労で、腕が震えている。郵便鞄を背負う肩にも、治りきっていない痛みが戻り始めていた。
それでも、速度を落とせば風に押し戻される。
リンは身体を低くし、箒へ魔力を送り続けた。
白い雲の向こうに、青空が見えた。
一気に雲を抜ける。
目の前に、巨大な影が浮かんでいた。
一頭だけではない。
青灰色の背を持つ帆鯨が、何十頭もの群れを作って飛んでいる。左右へ広げた胸鰭は帆船の帆より大きく、風を受けるたび、ゆっくりと上下していた。
群れの中央では、複数の帆鯨をつなぐ太い綱の間に、木造の家屋や広場を載せた船が浮かんでいる。
洗濯物が風に揺れ、煙突から薄い煙が上がっていた。
「見つけた……」
胸の奥に張りつめていたものが、ようやく緩んだ。
手紙を届けられるかもしれないという安堵と、引き返さなかった自分を正当化できたような安堵が、わずかに混じっていた。
それを認めるより先に、箒の高度が落ちた。
リンは慌てて柄を引き上げる。
「まだ、終わってない」
移動集落へ入る際、正面や側面から近づいてはならない。帆鯨を驚かせれば、群れ全体が進路を乱す危険がある。
リンは群れの後方へ回り、郵便角笛を短く二度鳴らした。
甲高い音が空へ響く。
間もなく、集落から二人の飛行士が現れた。
リンは身分証を掲げ、彼らの案内に従って、着陸用の小舟へ箒を下ろした。
時刻は午前十時五分。
整備台を離れてから、一時間以上が経っていた。




