帰路へ続く風
昼前、リンは発着場の端に立ち、右手の手袋を外した。
昨夜、二人を運んできた旧風路は、すでに消えていた。
発着場の先にあるのは、白い霧と、盆地を巡る自然風だけだった。
けれど、何も残っていないわけではない。
目を閉じ、指先へ触れる魔力の違いを探る。
冷たい空気の中に、ごく細い筋があった。
風待ち郵便局から南東へ向かい、霧の中を低く延びている。昨日の流れよりも遥かに弱いが、箒一騎を運ぶ程度の力は残っていた。
「見つけた?」
後ろからエルナの声がした。
振り返ると、額へ包帯を巻いたエルナが、局舎の壁へ手をつきながら立っていた。
「寝てなくていいんですか」
「昨日からそればかりね」
「まだ頭を打ってから一日です」
「だから、飛ぶのはあなたに任せる。私は後ろに乗るわ」
「……本当に大丈夫ですか」
「一人で帰るつもり?」
「それはしませんけど」
エルナが箒へ乗ることはできても、自力で長時間飛ばせる状態ではない。帰路ではリンの箒へ二人で乗り、エルナの箒は固定帯で牽引することになった。
ハインはその準備を黙って見ていた。
「流れは二人分を支えられそうです」
リンは旧風路へ手を伸ばしたまま答えた。
「三人は?」
ハインが尋ねる。
リンはすぐには答えなかった。
流れの幅と強さ、自分の魔力残量、エルナの状態。何度計算しても、結果は変わらない。
「保証できません」
「なら、俺は残る」
「でも、次にこの道が開くのがいつか――」
「何に乗って帰るんだ」
リンは発着場を見回した。
あるのは、リンとエルナの箒だけだった。
「二人を乗せてきた箒で、今度は三人運ぶ気か」
「途中で交代しながらなら」
「頭を打った人間と、肩を怪我した人間と、箒に慣れてない男で?」
反論できなかった。
エルナも、今回はハインの言葉を遮らなかった。
「先に帰れ」
ハインは局舎へ目を向けた。
「ここがあると伝えてこい。俺の名前も、残っている郵便も、全部だ」
「次の道が開かなかったら?」
「そのときは、そのときだ」
「十一年も待ったから、もう少しくらい待てるとか言わないでくださいね」
リンが先回りすると、ハインが眉を寄せた。
「言おうとしてない」
「顔が言ってました」
「昨日会ったばかりで、人の顔を読むな」
ハインは局内から持ってきた布袋を、リンへ差し出した。
中には、風待ち郵便局の運航記録の写し、ハインの古い組合員証、現在の郵便袋から外した管理札が収められている。
「証拠になるものは入れた。郵便物そのものは持っていくなよ」
「分かっています」
「勝手に持ち出したら、そっちの組合に怒られるんだろ」
「かなり怒られます」
「じゃあ、俺まで怒らせるな」
リンは布袋を郵便鞄の内側へ収めた。
「戻ってきます」
「食えるものを持ってこい」
「最初にそれですか」
「砂糖と塩。薬。人形の部品。あと、ちゃんとした工具」
少し考えたあと、ハインは付け加えた。
「本もあれば持ってきてくれ。もう全部読んだ」
それが、十一年という時間を最も強く感じさせた。
「分かりました」
リンは箒へ跨がり、後ろへ乗ったエルナの腕を、自分の腰へ回した。
「しっかり掴まっていてください」
「言われなくても、昨日で学んだわ」
旧風路へ箒を滑り込ませる。
風待ち郵便局が霧の中へ遠ざかっていく。
ハインは発着場に立ったまま、手を振らなかった。ただ、二人の姿が見えなくなるまで、そこから動かなかった。
東部第四支局へ戻ったリンを最初に迎えたのは、支局長でも医務官でもなかった。
「リン!」
着陸場へ降りた瞬間、赤茶色の髪が視界いっぱいに広がった。
「ちょっと、フィオナ――」
勢いよく抱きつかれ、治りきっていない右肩に痛みが走る。
「いたっ」
「あ、ごめん!」
フィオナ・レイは慌てて身体を離すと、リンの肩、顔、腕、足と、順番に視線を走らせた。
養成課程から一緒だった同年代の郵便魔女である。
普段は東部第四支局と周辺都市を結ぶ短距離便を担当しており、リンが仕事以外の話をほとんどしなくても、気にせず隣で喋り続けられる数少ない友人だった。
「生きてる?」
「見れば分かるでしょ」
「見た目だけ元気なことがあるから聞いてるの」
「肩を少し痛めただけ」
「少しって言う人は、大体少しじゃない」
「エルナさんと同じこと言わないで」
そのエルナは、後から到着した救護員に囲まれている。
「風路が消えて、エルナさんが落ちて、リンが拾って、そのあと行方不明になったって本当?」
「誰から聞いたの」
「管理塔から来た連絡。途中から意味が分からなくなって、みんな三回くらい読み直してた」
「大体は合ってる」
「大体で済ませる内容じゃないでしょ」
フィオナは持っていた包みをリンの胸へ押しつけた。
「何、これ」
「パン。医務室へ連れていかれたら、夕方まで何も食べられないかもしれないから」
「朝は食べたよ」
「昼の分」
温かさがまだ残っていた。
「ありがとう」
「うん。今度から風路が消える前に帰ってきて」
「私に言われても困る」
「じゃあ、消えそうな風路に近づかない」
「仕事だったし」
「もういい。そこから先はエルナさんに任せる」
フィオナは諦めたように息を吐いた。
「でも、本当に無事でよかった」
その一言だけは、いつもの軽さがなかった。
リンは少しだけ視線を逸らした。
「心配かけて、ごめん」
フィオナは少しだけ目を細めた。
「そういう素直なの、怪我したときだけだよね」
リンは胸に抱えたパンの包みを見下ろした。
「ありがとう。あとで食べる」
「うん。ちゃんと食べてね」
フィオナは満足そうに笑った。




