十一年目の朝
風待ち郵便局へ流れ着いた日の夜、リンは十時間以上眠った。
眠った、というより、寝台へ横になった途端に意識を失ったらしい。
目を開けると、見慣れない木張りの天井があり、窓から差し込む朝の光が、室内を淡い金色へ染めていた。
右肩にはまだ鈍い痛みが残っていたが、腕は昨日よりも上がる。指先の痺れも消え、身体の内側には、わずかながら魔力が戻っている感覚があった。
隣の寝台では、エルナが目を閉じていた。
呼吸は穏やかで、顔色も昨日より良い。
リンが身体を起こすと、寝台の足元に立っていた三号が、陶器の顔をこちらへ向けた。
「起床を確認。安静時間は十一時間二十七分です」
「エルナさんは?」
「睡眠中です。夜間の嘔吐、痙攣、呼吸異常は確認されていません」
それを聞いて、ようやく胸の奥に残っていた固いものがほどけた。
「ありがとうございます」
「感謝は不要です。救護手順を実行しました」
分かっていても、礼を言わずにはいられなかった。
リンは制服へ着替え、静かに医務室を出た。
受付へ続く廊下には、朝食らしい香りが漂っている。根菜を煮た匂いと、焼いた薄いパンの香ばしさが混じっていた。
食堂では、ハインが鍋から皿へ煮込みを移していた。
「起きたか」
「はい」
「肩は」
「昨日よりは動きます」
「そうか。食え」
椅子へ座ると、皿が目の前へ置かれた。
芋と豆、干し肉を煮込んだだけの素朴な料理だったが、空腹だったこともあり、ひどく美味しく感じた。
「これ、全部ここで?」
「豆と芋は温室だ。肉は罠にかかった山兎」
「十一年間、ずっと?」
「最初の一年は非常食があった。古くなってたが、食えなくはなかった」
ハインは自分の椅子へ座り、パンを千切った。
「温室を直すまでは、毎日似たような干し肉だった。今でも大して変わらんが」
「局の外へ出られるんですよね」
「盆地の中だけならな」
食事を終えたあと、ハインは局舎の裏へリンを案内した。
建物の背後には、朝露に濡れた細い道が続いていた。道の先には小さな温室と畑があり、その向こうには針葉樹の森が広がっている。
さらに遠くには、灰色の崖が盆地を囲むように連なっていた。
「北はあの崖だ。登ったことはあるが、向こう側は下まで見えない谷だった。南も同じ。東は一年中雪が残ってる。西へ三日歩いたら、なぜか局の裏へ戻ってきた」
「道に迷ったんですか」
「目印を置いた。方角も確認した。それでも戻った」
ハインは局舎の壁際へ向かった。
雨除けの下に、古い地図が何枚も貼られている。
風待ち郵便局を中心として、外へ向かう線が幾つも描かれていた。地上を歩いた経路、風路が開いた際に飛んだ経路、途中で引き返した位置。赤い線は、どれも盆地の外へ抜ける前に途切れている。
「飛んで出ようともしたんですね」
「十七回」
「十七回……」
「三回は落ちかけた。二回は三号に引きずって帰られた」
壁の端には、翼を折り畳んだ小型の飛行具が立て掛けられていた。
郵便船へ備えられる、緊急脱出用の滑空具だった。翼布には縫い直した跡が幾重にも重なり、片側の支柱は、別の金属を削って継ぎ足されている。
「もう使えないんですか」
「翼を支える骨が折れた。替えがない」
「箒は?」
「俺は航路士だ。箒で長距離を飛ぶ訓練は受けてない」
郵便船航路士は、船の進路や風路の状態を管理する職種である。空を扱う仕事ではあっても、郵便魔女のように、自分の魔力だけで箒を飛ばす専門家ではない。
緊急用の簡易箒を使う程度ならできても、風路の外を越えられるほどの飛行技術も魔力量も持っていない。
「それで、ここに残ったんですね」
「出られなかったからな」
ハインは地図の端が風で捲れないよう、錆びた留め具を押し直した。
「最初は帰る方法ばかり探してた。腹が減ったから温室を直した。寒くなったから蓄風槽を弄った。暇だったから、三号が間違えて仕分けた郵便を分け直した」
「それを十一年?」
「気づいたらな」
言葉だけを聞けば、仕方なく続けてきたようにも聞こえる。
だが、局舎の中にあった郵便物は、どれも丁寧に保管されていた。破れた封筒には保護紙が当てられ、湿気に弱い荷物は床から離されている。
少なくとも途中からは、帰れないから仕方なく守っていたわけではないのだろう。
リンはそれを口にはしなかった。
「今日、帰り道を探します」
「肩は治ってないだろ」
「飛行に支障がない範囲か確認します。無理なら、もう一日休みます」
「昨日よりは話が分かるな」
「昨日も分かっていました!」
「そうか……。やっぱり面倒だな」
まったく信じていない様だった。




