風待ち郵便局③
風待ち郵便局は、外から見た印象よりも奥行きがあった。
受付の裏には保管庫や作業室が並び、さらに廊下を進むと、台所、食堂、仮眠室、設備管理室が続いている。窓の外には小さな温室まで作られ、曇った硝子越しに青菜や豆の蔓が見えていた。
「食べ物は、あれで?」
「全部は無理だ。局の裏から山へ下りられる。水と薪は取れるし、獣もいる。人里へ抜ける道は見つからなかったが、餓死はしない」
床の一部には新しい板が使われ、窓枠にも不揃いな木材が継ぎ足されている。
三号のほかにも、廊下の隅で動かなくなっている局務人形が一体あった。右腕がなく、胸部の板が開いたまま、内部から何本もの細い管が垂れている。
「直せないんですか」
「部品がない。三号も二度止まった。壊れた一号から部品を移した」
「もう一体は?」
「二号なら温室にいる。足が動かないから、床へ固定して水を撒かせてる」
ハインの口調は淡々としていた。
けれど、人形をただの道具として扱っているわけではないことは、三号の身体を見れば分かった。左手だけ色が違い、指の長さも不揃いだった。別の人形の部品を削り、何度も調整して取りつけたのだろう。
十一年間、ハインは人間としては一人だった。
それでも、完全に一人きりだったわけではない。
廊下の突き当たりにある両開きの扉の前で、ハインが足を止めた。
「ここだ」
腰の鍵束から一本を選び、錠へ差し込む。
金具が重く鳴った。
ハインが両手で扉を押すと、乾いた紙と蝋、古い布の匂いが、閉じ込められていた空気と一緒に流れ出してきた。
リンは、扉の向こうを見たまま動けなかった。
仕分け室は、東部第四支局のものよりも広かった。
壁一面を木製の棚が埋め、宛先の地域や取扱区分ごとに、封筒や小包が収められている。棚へ入りきらない郵便袋は床へ積まれ、場所によってはリンの背丈を越え、天井近くまで届いていた。
最初は、古い郵便物だけが残されているのだと思った。
けれど、違った。
黄ばんで端の崩れた封筒の隣に、見覚えのある現行規格の書留封筒が置かれている。布で包まれた昔ながらの小包の上には、近年使われ始めた軽量防水紙の箱が載っていた。
押された消印の日付も、差出国も、ばらばらだった。
四十二年前。
二十七年前。
八年前。
三か月前。
最も新しい郵便袋には、リンが今朝、東部第四支局で見たものと同じ今年度の封印札が使われている。
「最近のものも、あるんですか」
自分の声が、やけに小さく聞こえた。
「ある」
ハインは先に部屋へ入り、通路を塞いでいた郵便袋を避ける。
「いつ来るかは決まってない」
「どうやって?」
「知らん」
壁際には、大きな石造りの台が置かれていた。
中央に、風路から郵便物を受け取るための術式が刻まれている。現在の中継局にも似た設備はあるが、こちらの方が規模は大きく、何重もの線が絡み合うように組まれていた。
「風が強くなると、あれが光る。そのあと、袋か荷物が落ちてくる。古いものも、新しいものも一緒だ」
「三号が仕分けを?」
「封印と宛名が読めるものはな。文字が古すぎるものや、住所が変わってるものは俺が見る」
ハインは近くの棚から、一通の封筒を取り出した。
宛先に書かれた町は、現在では隣国へ併合され、名前そのものが変わっている。差出人の住所は、過去の戦争で焼失した地域だった。
「こういうのを、三号はずっと配達待ちへ入れる。俺にも、どこへ渡せばいいのか分からん」
「外へ出せないんですか」
「出せるなら、ここまで増えてない」
ぶっきらぼうな答えだった。
責められたわけではない。
それでもリンは、それ以上すぐには聞けなかった。
仕分け棚の間へ一歩踏み込む。
右肩に痛みが走った。
エルナはまだ、隣の部屋で横になっている。
頭を打ち、まともに立つこともできないのに、自分は何をしているのだろうと思った。局内を確認してくるよう言ったのはエルナ自身だった。それでも、早く戻らなければならないことに変わりはない。
なのに、足が止まらなかった。
目の前の封筒には、一つずつ人の名前が書かれている。
小包にも、町や通り、家の名前がある。
住所が消えていても、国が変わっていても、差し出されたときには、そこへ届くはずだった。
誰かが待っていたはずだった。
祝福かもしれない。
謝罪かもしれない。
何でもない近況報告かもしれない。
借りたまま返せなかった本や、寒い土地で暮らす家族へ送った服、帰れなくなった誰かが、せめて言葉だけでも戻そうとしたものかもしれない。
リンは、棚の端から端まで視線を走らせた。
一通を見れば、その隣にも宛名がある。
その下にも、奥にもある。
どれか一つを手に取れば、ほかのすべてを置いたままにすることになる。
この部屋にある郵便物を、一通ずつ調べるだけで、どれほどの時間がかかるのか想像もつかなかった。
まして、受取人を探し、現在の住所を調べ、国境を越え、届けられる状態かを確かめる。
自分が何度飛べば終わるのか。
何度飛んでも、終わらないのではないか。
そんな数を前にしたのは初めてだった。
これまでなら、郵便鞄に入ったものを届ければよかった。
宛名が一つあれば、そこへ向かう道を探せばよかった。
けれど、ここには道を探す前の手紙が、数えきれないほど残されている。
全部届けたい、と考えてしまった。
考えた瞬間、それができないことも分かった。
胸の奥が、急に狭くなる。
自分がこの場所を見つけなければ、この手紙たちは誰にも知られないままだった。
その事実が恐ろしかった。
同時に、自分が見つけてしまったからには、もう知らなかったことにもできない。
リンは振り返りかけた。
扉の向こうにエルナがいる。
いま優先しなければならないのは、負傷した同行者を安全な場所へ戻すことだ。分かっている。それなのに、棚から目を離すことへ、置き去りにするような後ろめたさがあった。
たった今まで、四十二年も、二十七年も、八年も待っていたものだ。
自分が数分背を向けたところで、何が変わるわけでもない。
そんな理屈を思い浮かべた自分が嫌だった。
長く待っているものなら、もう少し待たせてもよいことにはならない。
「全部、ハインさんが整理したんですか」
声に出せたのは、それだけだった。
「人形と一緒にだ」
ハインは封筒を元の棚へ戻した。
「最初は帰る道を探してた。見つからないから、そのうち、こっちをやるようになった」
「十一年間?」
「ほかにすることがない」
そう言いながらも、棚は丁寧に整えられていた。
折れた封筒の角には薄い保護紙が当てられている。湿気に弱い小包は床から離され、古い封印には、割れないよう補助具まで添えられていた。
暇つぶしだけで続けられる仕事には見えなかった。
帰る道を探していたはずの人が、いつから、届かない郵便を守る側へ回ったのだろう。
その間にも、新しい袋は落ちてくる。
ハインが一つ直すあいだに、また一つ増えた日もあったのかもしれない。
「保存術式は?」
「保管庫と棚に入ってる。蓄風槽が止まらないあいだは、湿気と虫を防げる」
ハインは、少し色の変わった封筒へ目を向けた。
「時間までは止められない。紙も布も、少しずつ傷む。気づいたところは俺が直す」
リンは近くの封筒へ手を伸ばしかけた。
擦れた角へ、指が届く前に止める。
自分は郵便魔女だ。
だからこそ、触れてはいけない。
管理者の許可も、正式な引継ぎもない。他局の保管郵便物を、届けたいという気持ちだけで持ち出すことはできなかった。
分かっている。
分かっているのに、手を下ろすのが苦しかった。
目の前に手紙があり、宛名がある。
それでも今の自分には、触れないことしかできない。
ハインが、その手元を見ていた。
「郵便魔女なんだな」
「最初からそう言っています」
「制服だけ着てるやつもいる」
「私は違います」
返した声は、自分で思っていたより強かった。
ハインは否定しなかった。
リンも、それ以上は言わなかった。
違うと言った以上、勢いで一通を持ち出すわけにはいかない。
全部届けたいという気持ちと、いまは一通にも触れられない現実を、どちらも抱えたまま戻らなければならなかった。




