風待ち郵便局②
玄関をくぐると、外の霧とは別の、柔らかな暖気が頬を包んだ。
床には濃い色の板が張られ、正面に三つの受付窓口が並んでいる。窓口の上には「国内便」「国際便」「還付・照会」と、少し古い書体で書かれた札が掛かっていた。
暖炉には、薪ではなく青白い炎が灯っている。
壁の中から伸びた太い真鍮の管が、暖炉の底へつながっていた。
「蓄風槽……?」
リンが足を止めると、男が横目で見た。
「知ってるのか」
「資料で見ました」
古い中継局では、風路から流れ込む魔力の一部を地下の大きな槽へ蓄え、照明や暖房、通信設備の動力として使っていた。
現在では、風路が途絶えると局舎全体の機能まで失われる危険があるため、交換可能な小型の風晶へ置き換えられている。東部第四支局でも、部屋ごとに風晶を交換できる仕組みが使われていた。
ここでは、廃れたはずの設備が今も動いている。
「旧風路から魔力が来ているんですか」
「少しだけな。局を暖めて、人形を動かすくらいは入ってくる。強くなったり、止まったりで安定はしない」
男は廊下の奥を顎で示した。
「地下にでかい槽がある。風が来たときに貯める。場所は取るが、簡単には壊れん」
廊下には、使い込まれた長靴や、土のついた籠が置かれていた。
壁際には洗ったばかりらしい皿が伏せられ、奥からは根菜を煮込んだ匂いが漂ってくる。
ここは、四十二年前の姿をそのまま残した遺跡ではない。
誰かが暮らしている場所だった。
男はリンを医務室の前にある椅子へ座らせ、扉を開いた。
エルナは革張りの寝台へ横たえられていた。
三号と呼ばれた局務人形が、側頭部へ当てる布と、薄い金属板を用意している。金属板には細かな術式が幾重にも刻まれており、現在の支局で使われる治療具より大きく、線も太かった。
「応急治療板を起動します」
三号が板を、壁から伸びた真鍮の管へ接続した。
淡い緑色の光が板の表面を走り、重ねられた布へ染み込んでいく。
局務人形は、光を帯びた布をエルナの側頭部へ当てた。
「頭部外傷。出血は軽度。腫脹抑制術式を適用します」
治癒魔法は、傷をなかったことにはできない。
出血を止め、腫れや痛みを抑え、身体が自力で治ろうとする働きを助ける。浅い切り傷や軽い火傷ならその場で塞ぐこともできるが、骨折や内臓の損傷、頭部への強い衝撃まで簡単に治せるものではなかった。
専門の魔法医なら、より精密な術式を扱える。
郵便局へ置かれているのは、医師のもとへ辿り着くまで命をつなぐための応急設備に過ぎない。
「意識がはっきりしなかったら?」
リンが尋ねると、男はエルナの手首へ触れながら答えた。
「呼びかけには反応してる。瞳の動きも揃ってるし、脈も悪くない。今は無理に起こさず、自然に戻るのを待つ」
「私が見ています」
「その前に自分だ」
「私は意識があります」
「だから何だ」
男はリンの前へ、もう一脚の椅子を引き寄せた。
「右肩を見せろ」
「エルナさんを――」
「三号が見てる。何か変われば知らせる。動くな」
制服の上着を少しずらされ、腫れ始めている肩へ指が触れた。
リンは息を呑んだ。
「痛いか」
「触る前よりは」
「口は元気だな」
「褒めています?」
「全然」
骨は折れていないらしい。
男は三号へ指示し、別の応急治療板を起動させた。温かい光を含んだ布が肩へ巻かれると、刺すような痛みが少しずつ鈍くなっていく。
「これも飲め」
渡されたのは、湯気の立つ金属杯だった。
中には薄い琥珀色の液体が入っている。蜂蜜と塩、それから柑橘に似た酸味のある香りがした。
「魔力回復薬ですか」
「湯に砂糖と塩を入れただけだ」
「魔力は戻りませんよね」
「身体が動かなきゃ、魔力も作れない。黙って飲め」
リンは杯へ口をつけた。
甘さよりも先に、強い塩気が舌へ広がる。
「不味いのは我慢しろ」
「不味いとは言ってません」
「顔で分かる」
どこかで聞いたような言い方だった。
「……リン」
寝台から、掠れた声が聞こえた。
リンは杯を置き、すぐに駆け寄った。
エルナの瞼が半分ほど開いている。視線はまだ定まらず、リンの顔を捉えるまでに何度か瞬きを繰り返した。
「はい。ここにいます」
「ここは……」
「風待ち郵便局です」
「風待ち……?」
エルナは眉を寄せた。
記憶を探るように天井を見つめ、やがて短く息を呑む。
「風路が消えて……私、弾かれた?」
「覚えているんですか」
「そこまでは。あとは……分からない」
「私が運びました」
「あなたが?」
エルナはリンを見つめ、それから肩へ巻かれた布へ視線を落とした。
「その怪我で?」
「骨は折れてません」
「聞いてるのは、そこじゃ……」
エルナが上体を起こそうとした。
直後、顔をしかめて寝台へ戻る。
「気持ち悪い……」
「だから起きるなと言ってる」
男が寝台の脇へ立ち、エルナの肩を押さえた。
「名前は?」
「エルナ・ヴァイス」
「所属」
「国際郵便組合、東部第四支局。一等郵便魔女」
「今日は何日だ」
エルナはすぐには答えなかった。
目を閉じ、しばらく考えてから日付を口にする。
男は短く頷いた。
「大きな混乱はなさそうだ。ただし、頭痛と吐き気がある間は起きるな」
「あなたは?」
「ここの留守番」
「名前と所属を」
いつもの硬さを取り戻そうとした声は、まだ少し弱い。
男は面倒そうに眉を寄せた。
「ハイン・ローデン。元は西部第二管理局の郵便船航路士。組合員番号は、もう覚えてない」
「元は?」
「十一年前に船から落ちた。それから、ここにいる」
エルナが瞬きをした。
「十一年?」
「ああ」
「帰還できなかったんですか」
「できるならしてる」
ハインは椅子へ腰を下ろした。
長く他人と話していなかったせいか、何から説明するべきか考えるように、しばらく顎の無精髭を撫でる。
「北方路線を飛んでた。天気は晴れ。風路が急に曲がって、船から投げ出された。気がついたら、あんたたちと同じ発着場にいた」
「船は?」
「分からん。戻れたと思いたいが、確かめられない」
「救援要請は」
「通信は外へ届かない。風路が開いたときに何度か出たが、途中で流れが消える。俺には、どこへ進めばいいのか分からん」
ハインはリンへ視線を移した。
「あんたは分かるのか?」
「旧風路の流れなら、感じ取れます」
「見える?」
「目で全て見えるわけではありません。触れると、流れている方向が分かります。どこが薄くて、どこなら箒を乗せられるかも」
「それで、この人を抱えて入ってきたのか」
「ほかに落下を止められる流れがありませんでした」
ハインはしばらくリンを見た。
感心しているようにも、疑っているようにも見えない。何かの寸法を測る職人のような目だった。
「外へ戻る道も分かるか?」
「今は、分かりません」
リンは正直に答えた。
「入ってきた旧風路は、後ろから細くなっていました。もう消えている可能性もあります」
「そうか」
ハインはそれだけ言って立ち上がった。
落胆した様子が薄いのは、十一年間、同じような期待を何度も抱き、そのたびに諦めてきたからかもしれなかった。
「ここは、本当に風待ち郵便局なんですね」
「看板を見ただろ」
「四十二年前に廃棄されたはずです」
「俺が来たときには、もう廃局だった。人間はいない。いたのは三号と、壊れかけの人形が二体。あとは設備と郵便物だ」
「郵便物?」
リンの声が、思ったより大きくなった。
ハインが片方の眉を上げる。
「まだ立てないんじゃなかったのか」
「郵便物は、どこにあるんですか」
「仕分け室」
「何通くらいですか」
「知らん。増えるからな」
「増える?」
「今も、たまに届く」
ハインは医務室の扉へ向かった。
「見たほうが早い。ただし、途中で倒れるな。今度は俺一人で二人運ぶことになる」
「私も行きます」
寝台の上でエルナが言った。
「駄目だ」
「状況を確認する必要があります」
「さっき起きたばかりだろ」
「私は一等郵便魔女です。正体不明の旧局舎に――」
「三号」
ハインが局務人形を呼んだ。
「負傷者が起きようとしてる」
「安静指示への違反を確認」
三号は寝台の横へ移動すると、エルナの身体へ布製の帯を掛け始めた。
「ちょっと、何をしてるの」
「転落防止処置を実施します」
「必要ありません!」
「必要です」
局務人形の声には抑揚がなく、エルナの抗議にもまったく動じない。
リンは笑いそうになり、慌てて口元を押さえた。
「リン?」
「笑ってません」
「まだ何も言ってないでしょう」
「顔が言ってました」
エルナはリンを睨んだが、すぐに頭を押さえて目を閉じた。
「見てきて。勝手なことはしないでね」
「分かってます」
「返事が早い」
「今日は何を言っても怒られますね」
「誰のせいよ……」
声にはまだ力が戻りきっていない。
それでも、いつものエルナの調子が戻り始めていることが嬉しくて、リンは少し頬を緩めた。




