3-2 黒塗りの十五枚
市場は、川沿いの広場に立つ。
アシュトンは卵の屋台の前で足を止め、十二個を頼んだ。屋台の女が言った値は、一昨日商人が是正した値より一割高かった。言われた値で払った。
広場の東の端に、巡礼の一団がいた。二十人ほど。灰色の外套に、杖と、首から下げた小さな灯明。聖都へ向かう東線は、王都の駅から出る。王都の大聖堂で巡礼の印を受け、三日ほど逗留してから乗るのが習いだった。噴水のまわりで、パンと干し果物を買っていた。
アシュトンは卵の包みを抱え直し、一団の端に寄った。
干し葡萄の袋を受け取っている男がいた。四十前後。外套は一団の誰よりも擦り切れていて、杖の握りだけが新しい。東の山の教区から来たと、屋台の主人に話していた。
アシュトンは、東の山あいの訛りで尋ねた。
「すみません。今日は、何日でしたかね」
男は顔を上げ、訛りを崩さずに答えた。
「年の典礼の、十八週目。木曜日です」
アシュトンは礼を言い、屋台を三つ離れた。
腰の曲がった女が、干し林檎の値を聞いていた。アシュトンは、さっきの訛りのまま、一字も変えずに尋ねた。
「すみません。今日は、何日でしたかね」
女は、男よりずっと濃い訛りで答えた。
「収穫の祝日から、九日目でございますよ」
アシュトンは礼を言い、干し林檎を一袋頼んだ。屋台の主人が量るあいだ、真鍮の秤皿に、広場の東の端が小さく映っていた。
男は干し葡萄を一つも口に入れていない。広場の北側に、魔導具の店が一軒ある。秤皿の中で、男の顔はその看板に一度向き、通りの先の施療院の屋根に向き、また看板に戻った。
一団の世話をしている若い修道士が、宿の亭主と言い争っていた。部屋が足りない、二人ずつ詰めてくれ、という話だった。宿は広場のすぐ裏にある。施療院まで、歩いて五分の距離だった。
亭主が裏の路地へ引き上げるのを待って、アシュトンは後を追った。
「川向こうの、石橋の袂の宿は知っているか。今週は、二階がまるごと空いている。巡礼の団体なら、主人が値を引く」
亭主が振り返った。
「あんた、誰だい」
「卵を買いに来た」
アシュトンは卵の包みを見せた。亭主はそれ以上聞かなかった。
半時間後、一団は杖を揃えて、石橋のほうへ動きだした。川向こうは、王都の西の端になる。
擦り切れた外套の男は、最後尾についた。一度だけ広場を振り返り、魔導具の看板を見た。
*
屋敷の食堂の卓で、ハティが封筒の親展の印を確かめ、受領印を押してから開けた。
「入局の年と、現在の格付け」
台帳の担当官欄を指でなぞりながら、ハティは写しを自分のほうへ向けて開き、最新の評定を探して頁を繰った。将軍の席からは、逆さに見えた。逆さの書類なら、四十年読んできた。
入局は、二十五年前。
勤務評定は、一年に一枚だった。一枚目から、太い墨の線が引いてあった。所見も、序列も、表彰の欄も、一行ずつ塗りつぶしてある。欄外に、朱の印。閲覧制限。
黒い頁は、ずっと続いていた。途切れたのは、あの男が尋ねなくなった冬の一枚だった。
そこから先は、読めた。
報告書 基準枚数に満たず
短期の戦果 なし
所見 手法に時代遅れの感あり
似たような行は、最後の一枚にもあった。
将軍は上着の内側に手を入れ、紙を探した。
「書くな。抗議文なら、まだあいつの内ポケットに入っている」
商人が、頁から目を上げずに言った。
将軍は手を抜いた。
商人は、逆さの頁を見ていた。
ハティは入局の年と格付けを台帳に写した。
「古い記録の閲覧制限は、珍しくありません。昔の話でしょう」
ハティが写しを閉じかけたとき、将軍は墨の長さを比べた。どの年も、表彰の欄の墨が、いちばん長かった。
十五枚あった。
*
魔導師は台所で、朝の皿を拭いていた。昼の少し前に、玄関で、猫が敷居から立ち上がる気配がした。
玄関の扉が開き、卵の包みが調理台に置かれた。
食堂の戸口から、商人が顔を出した。包みの結び目を一目見た。
「一割高い」
「言い値で買った」
「言い値ではない。言い負けだ。明日、私が行く」
アシュトンは、掲示板の前に立っている老将軍のところへ行った。魔導師は皿を拭く手を止めずに、廊下の声を聞いた。
「市場に巡礼の一団がいる。聖都の者が一人、混じっている」
「教国のか」
「宿は、川向こうへ移した」
老将軍が掲示板から当番表を外し、ペンを取る音がした。
魔導師は、拭いていた皿を棚に戻した。
聖都の者が、巡礼に紛れて王都に入る。聖庁では、その者たちを灯消しと呼んでいた。廊下で、何度かすれ違ったことがある。
魔導師は前掛けの上から隠しの中のマッチの箱を押さえ、指先を袖の中にしまった。
廊下に出ると、アシュトンは掲示板の前にいた。
「あの」
アシュトンが振り返った。
「巡礼の世話役の方は。わたしを、森の道で連れてきてくださった方は」
「無事だ」
アシュトンは外套の隠しから小さな袋を出し、魔導師の手に置いた。干し林檎だった。アシュトンの目は、もう老将軍の手元の当番表に戻っていた。
魔導師は袋を両手で持って、台所へ戻った。戸口から、掲示板が見えた。当番表は戻っていて、最下段に一行が足されていた。
外出 二名以上とす うち一名はユール
*
夕食の皿が下げられたあとで、老将軍が封筒を一通、卓に置いた。
押し花の束とは、別の一通だった。宛名は、アシュトンの字だった。
「あの男が、自分の死を知らせてきた一通だ」
アシュトンの膝で、猫が寝返りを打った。
「消印なら、年が出る。換算表は要らん」
ハティが議事録の用紙を三枚出した。
青年が、封筒を見た。
「局留めの受付印には、年まで入ります」
老将軍が、商人を見た。
「それみろ」
三人が、それぞれ一通ずつ出した。商人は帳簿の裏表紙から、魔導師は料理帳のあいだから、青年は上着の胸から。
四通が、卓に並んだ。受付局は四通とも、王都の中央郵便局。交付の印は、四通とも同じ日付だった。
ハティが、受付の年月を順に議事録に写した。
「日付は」
老将軍が聞いたときには、商人はもう二通を並べていた。
「同じ日だ」
「では、どちらが先に封をされた」
「封の糊の乾き方からすると」
青年が言いかけた。
「糊は疎明資料になりません!」
ハティのペンの下に、四行が縦に並んだ。
王国暦四百八十一年 十二月
王国暦四百八十一年 十二月
王国暦四百八十三年 六月
王国暦四百八十七年 三月
封筒の裏には、保管延長の小さな印が押してあった。一年に一つずつ。青年の封筒には、四つ。
青年は、自分の封筒を卓から取り上げ、胸に戻した。
「四十七通は、焼きました。これは、焼いていません」
青年の目が、卓の木目から上がってきた。猫の背を過ぎて、アシュトンの襟の手前まで来た。
「十年前に、何があったのですか」
アシュトンは猫を抱き上げ、青年の膝に下ろした。それから、席を立った。
*
ハティは規程集を鞄に入れる前に、今朝の封筒をもう一度開けた。人事記録の写しの下に、照合係の回付印のある薄い紙が一枚残っていた。
昨日出した、符号名の照会の回答だった。
照会の四件 いずれも登録済み(亡命者本人)
同一担当官の系列
現役 回答の限りにあらず
閉鎖 一件 リヒトメス(立春) 閉鎖日 王国暦四百八十一年十二月
ハティは、議事録の一行目と二行目を見た。
使わなかった三枚目の用紙で回答書を包み、規程集の、第十二章の頁に挟んだ。
*
石橋の袂の宿は、川に向けて二階の窓を並べていた。
アシュトンは角灯の火を細くして、川のこちら側の岸を歩いた。
灯の入った窓が、九つ。巡礼は、灯明を消さずに眠る。
十番目の窓だけが暗かった。窓掛けの端に、指一本ぶんの隙間があった。石橋と、こちらの岸を見るには足りる幅だった。
帳場の窓は玄関に向いていて、灯があった。主人の影が、帳面の上で動いていた。
アシュトンはそのまま岸を下流へ歩き、一つ目の橋を渡った。
二つ目の橋の上で、後ろの足音が一つ増えた。歩幅が、帝国の歩兵操典のとおりだった。
アシュトンは振り返らずに渡りきった。
屋敷に戻ると、階段の下に青年が座っていた。膝の上で、猫が眠っていた。青年は、猫の背に手を置いたままでいた。
アシュトンは玄関の閂を掛けずに、三段目を跨いで上がっていった。
少し遅れて、玄関の扉が開き、閉まった。閂の音がした。
三段目が、鳴った。
*
九回目の晩、あの方は約束の刻限より遅れてきた。巡礼宿の二階だった。外套に、油の匂いがついていた。
それまでの八回は、魔法の話で終わった。光の術の手順を魔導師が話し、あの方は聞いていた。聖庁で、ほかに話すことを教わった覚えもなかった。
その晩、魔導師は初めて、魔法でないことを口にした。
「油の、匂いがいたします」
あの方は少し考えてから、外套の袖を嗅いだ。
「郵便局の裏に、鱈を揚げる屋台がある。仕事のあとで、いつも寄る」
それから、その屋台の衣の厚さと、塩の振り方と、揚げ油を替える曜日の話をした。
宿を出たあと、魔導師は聖庁の帳場で紙を一束もらった。祭礼の灯の数を記録するための紙だった。その束が、いまの料理帳の後ろの綴じになっている。
最初の行に、書いた。
第九回 鱈の揚げ物。郵便局の裏の屋台の。
最初の夜、あの方は魔導師を脅した。そのことは、今も許していない。
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ユール「当番表に一行足した」
☆ 三つとす フォロー 一名以上とす ユールを除く




