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3-1 提出資料が重すぎる

料理帳には、朝の頁が一枚もなかった。

百十四回、あの方に会ったのは、いつも日が落ちてからだった。祭礼の灯を落としたあとの回廊で、施療院の裏の物置で、巡礼宿の二階の窓の脇で。好物の話を聞くのも、それを書き留めるのも、夜だった。

朝に何を召し上がるのかを、魔導師は知らない。


前の晩に、賄いの女に頼んだ。明日の朝、竈を一度だけお貸しいただけませんか。

賄いの女は返事の前に、台所の壁へ鋲を一つ打った。「検閲済」の朱印のある献立の隣に、もう一枚、紙が留まった。

「いつもの朝のです。字は汚いけど」


まだ暗いうちに、台所に下りた。

竈は黒い鉄の箱で、正面に真鍮の板がはまっている。板の真ん中の小さな円に指先を当てれば、火が入る。聖庁の厨房にも、同じものがあった。触れたことはない。聖庁で火が要るときは、指先に灯した。

指先が、円の一寸手前で冷えた。

この屋敷に来てから、朝の火はいつも賄いの女が入れている。マッチの箱は、棚の上にあった。

一本目は、擦る途中で折れた。

二本目は、頭だけが飛んで、流しの中で消えた。

三本目を箱に当てたところで、戸口に足音がした。


「おはようございます。早いですね」

ハティだった。六時半だった。事務官の上着の袖をまくりながら入ってきて、調理台の端で足を止めた。しくじったマッチが二本、柄の長さを揃えて並べてあった。

「擦るの、初めてですか」

「聖庁には、ございませんでしたので」

ハティは箱を受け取り、一本取り出した。

「横の、ざらざらしたところに斜めに当てて、手前に引くだけです。強くなくていいです」

小さな音がして、火が点いた。ハティは真鍮の板の脇の小窓を開け、火を差し入れた。竈の奥で、青い炎が輪になった。

「口は二つありますから。こっちは、どうぞ」

箱が戻ってきた。

魔導師は一本を取り、ハティがしたとおりの角度で箱に当てた。聖油の匙を傾けるときの角度だった。

火が点いた。

二つ目の口に、二つ目の輪ができた。


壁の紙には、こうあった。


 朝

 卵 ふたつ

 きのうのパン あるだけ

 バター ひとかけ

 塩 少々

 火は中


「卵、ふたつ」

魔導師は読み上げ、籠から卵を十二個取って、二つずつ、六列にまな板へ並べた。それから紙に向かって、頭を下げた。

パンの袋を開けた。頭を下げた。

バターの包みを開いた。頭を下げた。

三度目の礼のとき、ハティの頭も一緒に下がっていた。

「あの。一行ずつ、礼をしなくていいです」

「では、どこで区切ればよろしいのでしょう」

「区切らなくていいです。卵は、割ったら焼くだけです」

次の行は、塩だった。

「少々とは、いかほどでございましょう」

ハティは塩壺に指を入れ、ひとつまみ取りかけて、半分を壺に戻した。

「このくらいです」

魔導師は、ハティの指先を見ていた。親指と人差し指が、どの高さで閉じたかを。その高さで指を閉じ、それだけ取った。


卵の焼ける音がしはじめた。

「王国の冬は、寒うございますか」

「王都はそうでもないです。北のほうは雪が多いですけど。国境のあたりなんて、春まで解けないって」

「北は」

フライ返しが、卵の縁の上にとどまった。

「春には、北へ行くはずでした」

ハティが顔を上げた。

魔導師は卵を返した。

「火が、少し強うございますね」

ハティは竈の小窓を覗いて、つまみを一つ戻した。



   *


七時の少し前に、アシュトンは宿直室を出た。

階段の三段目は鳴る。跨いで下りた。

台所の戸口の前を通るとき、中を一度見た。調理台の上に、マッチの箱が出ていた。燃えさしが二本と、柄だけのものが二本。竈の口は二つで、どちらにも火が入っていた。

白い衣と事務官の上着が、竈の前に並んでいた。片方が卵を皿に移し、もう片方がパンを切っていた。

「今日って、何日でしたっけ」

ハティの声だった。

「今日は、年の典礼の十八週目の、木曜日でございます」

聖都の言い方だった。

アシュトンは足音を立てずに戸口を離れた。

猫だけが戸口を曲がり、台所へ入っていった。



   *


魔導師が皿を六枚出した。一枚多い、と言いかけて、ハティはそれが自分の分だと気づいた。

卵の黄身は、六枚とも同じ固さだった。


七時半に本部の伝令が来て、宿直日誌を持っていった。代わりに封筒を一つ置いていった。台帳の担当官欄を埋めるために、ハティが換算表と一緒に請求した、担当官の人事記録の写しだった。換算表は、届いていなかった。

ハティは議事録の用紙を一枚、卓に出した。昨日の五枚は、まだ課長に上げずに手元にある。

「台帳の順番ですが、換算表が届くまでは保留です」

四人がこちらを見た。

「ただ、申告には、疎明資料を添えることができます。第十二章、第十二条」

「疎明とは」

老将軍が言った。

「申告が一応確からしいと示すものです。証明までは要りません。手紙とか、記録とか。添付は任意です」

任意、と言い終える前に、椅子が三つ鳴った。魔導師はもう、膝の上で料理帳を開いていた。

ハティは見出しを書いた。


 論点:疎明資料


栞の挟まった頁が、先に開いていた。今朝の日付の下に、二行あった。


 朝。卵ふたつ。塩、ひとつまみの半分。火は中。

 コリンズ様と。


ハティのペン先から、議事録に小さな点が一つ落ちた。

魔導師は頁を繰った。巻の後ろのほうに、見出しのある頁があった。


 好物

 第九回 鱈の揚げ物。郵便局の裏の屋台の。

 第二十二回 林檎の焼き菓子。焦げたほうがよい。

 第四十回 下町の煮込み。酢は一さじ。


行は、その下に続いていた。十九行あった。

アシュトンは、魔導師の焼いた卵を食べていた。

商人が、匙を置いた。

「私は、この男の好物を一つも知らん」

「お尋ねにならなかったからでございます」


商人は返事の代わりに、革の帳簿を卓に置いた。厚さは、ハティの規程集と変わらなかった。

商人の資料なら、受け取った額の控えだろう。ハティの調書の動機欄には、鉛筆で二文字書いてあった。金銭。

帳簿は、日付、摘要、支払、受取の四段だった。ハティは受取の欄を目で追った。

〇。

次の行も、〇。頁をめくった。〇。

空いた行は一つもなかった。どの行にも、同じ大きさの〇が、同じ筆圧で書き込まれていた。頁の上の年が、一つずつ進んでいく。

十九年目の頁で、ハティはめくるのをやめた。

「空欄ではない。零だ」

ハティは調書を開き、動機欄の鉛筆の二文字を、消しゴムで消した。


老将軍が、上着の内側から紐で括った束を出した。蝋を引いた、軍用の紐だった。結び目の封を確かめてから、自分で解いた。

手紙の束だった。どれも短い。便箋一枚に、二行か三行。天気のこと、庭のこと。一通に一輪ずつ、薔薇の押し花が挟まっていた。どの手紙の右肩にも、老将軍の手で通し番号が振ってある。番号の頭に、家、の一字。帝国の書式で、私信を家族の書簡として綴じるときの印だった。

老将軍は、くすんだ赤の一輪に指を置いた。

「この株の名は、誰にも話していない。あの男のほかには」

老将軍は束を、商人の帳簿の上に置いた。

卓の端で、アシュトンがパンをちぎった。

「押し花なら、郵便料金が変わらない」

「料金の話はしていない」

老将軍は束を揃え直した。

「束の厚さは、二十三年分ある」

「年数は、換算表待ちです」

ハティは議事録から目を上げずに言った。


青年は、何も持っていなかった。

「お持ちのものは」

「ありません。一通ずつ、読んでから焼きました。そう言われていましたので」

青年は卓の木目に目を落とした。

「四年前の春から、手紙は四十七通でした。一通目は、晴れ、の一字から始まります」

それから、一通目を始めた。日付、天気、本文。三行ほどで終わる短い手紙だった。二通目。三通目。ハティは議事録に書きかけて、残りの余白を見た。今朝は、一枚しか出していなかった。

十一通目で、商人が口を挟んだ。

「全部、覚えているのか」

「覚えてはいません。一度、読みました」

四十七通目の最後の一行を言い終えて、青年は水を一口飲んだ。

「三年前の冬から、筆圧が軽くなっていました。右手の、人差し指の側だけ。横画の入りが浅い。去年の秋の手紙で、戻っています」

三人の顔が、卓の端に向いた。

アシュトンは、パンを皿に置いた。

「字は、読めたはずだ」

「読めました。だから、分かりました」

ハティは、自分の議事録をそっと裏返した。


ハティは議事録を表に返し、最後に一行足した。


 所見:提出資料は、いずれも疎明の程度を著しく超える。


書いてから、青年の前を見た。水の入った杯が、一つあるきりだった。

アシュトンが外套を取った。

「市場へ行ってくる。卵の値を見てくる」

「是正済みだ」

商人が言った。アシュトンは、そのまま出ていった。



   *


扉が閉まると、猫が玄関の敷居に座った。

商人が帳簿を引き寄せた。

「あいつも昔は、遠慮がなかった」

商人は頁を前へ前へと繰った。将軍の席からも、摘要の欄が読めた。問合せ。帝国向け、樽数。羊毛、目方。問合せ。

帝国向け、の行を、将軍は読まなかったことにした。

「聞かれれば答えた。答えるのが、面白かった」

魔導師が、料理帳の表紙に手を置いた。

「わたしは、何かを尋ねられたことが、一度もございません」

「一度もか」

「一度も」

自分は、聞かれた。息子を失った冬から、兵站の話は自分から始めた。あの男はそれを受け取り、足りないところを尋ねた。補給線の継ぎ目。冬営地の数。二年のあいだ、尋ねられるたびに答えた。

ある冬から、尋ねられなくなった。

将軍は帝国の暦で数え直した。年が明けて、いくらも経たない頃だった。

商人の指が、帳簿の一枚を押さえた。摘要の欄が、そこで変わっていた。問合せ、の三文字が消え、別の行が並びはじめる。


 詩、一篇。


その頁のいちばん下にも、帝国向けの行があった。樽数。今度は、将軍はそれを読んだ。数は、将軍があの冬に最後に答えた数と、端数まで同じだった。

将軍は、その冬の晩を覚えている。押し花の束を、懐に戻した。

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