2-3 論点:暦
議事録の用紙は、五枚用意した。足りるはずだった。
申告は四人分で、一人一行。担当官との接触を始めた時期を聞き、古い順に台帳へ並べる。通達に書いてあるのは、それだけだ。
食堂の卓の端に、アシュトンが座っていた。膝に猫を載せている。嘱託の立会いについては、議事録の書式に欄がない。
「では、申告をお願いします」
「私からだ」
老将軍が言った。
「二十三年前の冬。国境の森で、捕虜交換の夜だった」
ハティは一行目に書いた。二十三年前、冬。
「あの夜、この男は手袋をしていなかった」
ハティは顔を上げた。手袋のことは、老将軍はそれ以上言わなかった。
「帝国の暦では、冬至が年の始まりになる。あの夜は、冬至から四日目だった。年が明けて最初に会ったのが、この男だ」
老将軍は卓に両手を置いた。
「暦の一行目は、私だ」
商人が、茶碗を置いた。
「連合の会計年度は、秋に始まる」
「伺っていません」
「今から伺え。十九年前の秋、収穫市の夜だ。年度の第一週だった」
商人は卓を指で叩いた。
「年度で数えれば、秋は冬より先に来る。十九年度続けて、私がこの男の最初の取引先だ」
「年数では私が四年多い」
老将軍が言った。
「年度で数えろ」
「公国の古い暦では」
卓の端から、声がした。青年が、皿の上のパンを見たまま言った。
「春分が、年の始まりです。四年前の春、春分の三日あとでした」
「それがどうした」
「春分から数えると、冬至は年の終わりのほうにあります」
老将軍が、青年を見た。
青年は、パンを見ていた。
「その暦では、閣下がいちばん新しいです」
「数えたのか」
「数えていません。見えただけです」
「一行目が三つあります!」
ハティが議事録を掲げた。
魔導師は、それまで一度も口を挟んでいなかった。茶を一口飲み、茶碗を受け皿に戻した。
「年でも、暦でもありません」
三人が魔導師を見た。
「回数です。百十四回。煮込みの晩からの分は、勘定に入れておりません」
「私は、数えていない」
老将軍が言った。
「存じております」
魔導師は言った。
二十三年、と一昨日から何度聞いたか。ハティはそれを議事録に書かなかった。
ハティは咳払いをした。
「あの、一回目は、いつでしょう」
「典礼暦で、夏至祭の夜でございます」
老将軍が、ハティの手元を覗き込んだ。
「一行目は、訂正する。記録は帝国の暦で頼む。二十三年前などという数え方はせん」
申告は申告者の言のとおり記すこと。第十二章、第十一条。ハティは一行目に戻り、「二十三年前」に線を引いて、「冬至から四日目」と書き直した。
四行が並んだ。冬至から四日目。会計年度の第一週。春分の三日あと。夏至祭の夜。
ハティは議事録の見出しの下に書いた。
論点:暦
それから、卓の端を見た。
「アシュトンさん。結局、どれがいちばん古いんですか」
四人が同時に口を開き、ハティは手を上げてそれを止めた。訂正は、今朝はもう三回聞いている。
アシュトンは、猫の背を撫でていた。
「換算表は、本部の資料室にある」
二枚目から五枚目までは、張り合いの書き取りで埋まっていた。ハティは五枚目の欄外に書いた。
結論:換算表待ち
アシュトンは議事録の写しを受け取り、一枚目から順に目を通した。年の数字は、どの行にも残っていなかった。
「換算表が届いたら、年で揃えて清書してから課長に上げます」
ハティが言った。
「そのままでいい」
アシュトンは写しを返した。
*
昼過ぎに、本部の伝令が来た。宿直日誌の受領印と、新聞の束を置いていった。連合の相場紙が一部、混じっていた。商人が、相場を見たいと言ってハティに頼んだものだった。
商人は相場欄を開き、二枚めくったところで手を止めた。
告知欄だった。評議会監査院の名で、枠付きの広告が載っている。一行目に、商人の名があった。
右の者の所在につき届け出た者に、銀貨二千枚を支払う。
届出先 監査院出張所(六港)
「二千」
商人は言った。
「二千だと」
新聞を持つ手が、卓の上で一度跳ねた。
「私の船一隻の、帆の代金にもならん。評議員の首だぞ。十九年、評議会の予算の三分の一を出してきた男の首だ」
「帝国なら、将官の首には、桁が一つ上の値がつく」
老将軍が言った。
「聖庁は、値をつけません」
「公国は、広告を出しません」
老将軍が当番表を引き寄せ、三直の欄に一人分の線を足しかけた。
アシュトンは、商人の肩越しに広告を読んだ。届出先は、六つの港の出張所だった。「生死を問わず」の文言はない。
「監査院は、まだ君が王国にいると掴んでいない」
アシュトンは言った。
商人が振り向いた。
「なぜ分かる」
「連合の港は七つある。届出先は六つだ。河口の港が抜けている。連合の港で王国の船が着くのは、あそこだけだ」
「河口を空けて、誘っているのかもしれん」
「罠なら、額を上げる」
アシュトンは、広告の額を指で押さえた。
「それに、この額では、海を渡って探しに来る者は少ない。来るとすれば、噂を拾った小物だ」
老将軍のペンが、三直の欄から離れた。線は、足されなかった。
「額が低いのは、評議会が事を大きくしたくないからだ」
商人は、それには答えなかった。新聞を二つに畳み、それからもう一度畳んだ。
畳んだ新聞を卓に置いて、商人はアシュトンを見た。
「王国は、お前の首にいくらつけた」
「つけていない」
商人は手帳を開いた。家賃の欄、餌代の欄の下に、新しい欄を一つ作った。見出しは空けておいた。
魔導師が料理帳を開き、何も書かずに閉じた。
*
十九年前の秋、港町の収穫市の夜だった。
商人は酒場の隅の席で、詩を読んでいた。父の跡を継いで三月目だった。商会では、誰も詩を読む当主を見たことがない。聞かせられる相手もいない。だから、誰も聞いていない場所で読んだ。
一篇目で、隣の卓の船乗りが席を立った。二篇目で、給仕が皿を下げに来なくなった。
三篇目を読み始めたとき、向かいの席に男が一人座った。王国の訛りがあり、通訳だと名乗った。どの商会の通訳かは言わなかった。こちらがどの商会の当主かも、聞かなかった。
男は最後まで聞いた。四篇目も、五篇目も聞いた。
読み終えて、商人は待った。商会の当主の詩を褒める言葉なら、それまでに何度も聞いている。番頭からも、取引先からも、縁談の相手の父親からも。
「三篇目の、三行目」
男は言った。
「波は銀貨のごとく、の行か」
「比喩が二度、商売に戻っている。海を銀貨にした時点で、胸まで帳簿にする必要はない」
商人は、男の顔を見た。顔を覚えようとして、三行目の指摘のほうを覚えた。
「では、どう直せばいい」
男は答えずに立ち上がり、給仕を呼んだ。自分の杯の分だけを払った。
「来年の収穫市でも、読むか」
男が言った。
「来年は、ましな行を書く」
「三行目は、そのままでいい」
男はそれだけ言って、酒場を出ていった。
商人は、三行目を直さなかった。十九年、一字も直さなかった。
*
夜、ハティは広間の調剤台で、換算表の請求書を書いていた。終業の鐘は、とうに鳴っている。書き終えてから、台帳を開いた。
四人の符号名の欄は、まだ並べられないままだった。並べられないなら、せめて正しく書いておく。
ユール
ラッコルタ
ソルスティス
エキノクス
書き終えたところで、背後に人の気配がした。青年が、水差しを持って立っていた。警備員の日誌によれば、夜中に水を飲みに下りてくるのは、昨夜から三度目だ。三度とも、宿直の見回りが広間を通る少し前だった。
青年は、インクの乾ききらない四行を見た。
「冬至。秋分。夏至。春分」
青年は言った。
「それぞれの国の言葉で、そういう意味です。暦の四隅です」
ハティは台帳の四行を見直した。帝国の言葉で冬至。連合の言葉で秋分。教国と公国の言葉で、夏至と春分。
暦、という言葉で、ペンが止まった。
研修の三日目だった。教官が、黒板に三文字を書いた。受死日。その名で呼ばれた運用官は、十年前に、ふっつりと消えた。
教官は、次の項目に移った。
台帳の四行を、もう一度見た。
ハティは首を振った。受死日なら、四つの暦を換算表なしで並べてみせたはずだ。あの人は今朝、換算表は本部にある、と言った。
廊下の奥で、床板が鳴った。
アシュトンが、宿直の見回りから戻ってきたところだった。手に角灯を提げている。足元に猫がついていた。
青年の目が、アシュトンの靴から上がった。膝の高さまで来て、また靴に戻った。
「四隅があるなら、あいだにも節があります」
アシュトンは立ち止まった。
「ほかの季節の名は、誰が持っているのですか」
アシュトンは答えなかった。
調剤台の端に宿直日誌を開き、ペンを取った。一行だけ書いて、閉じた。角灯の火を細くし、猫を連れて階段を上がっていった。
ハティは、閉じられた日誌の表紙を見た。明朝、本部に上げる日誌だった。
開いてはならない規程は、ない。
ハティは日誌を開いた。
異状なし。
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ラッコルタ「私の首は、銀貨二千枚だそうだ。フォローは無料だ。値がつけられないからだ。☆は三つ。値切るな」




