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2-2 人参、完食

賄いの女が、食堂の卓に鍋を運んできた。

魔導師は戸口で足を止めたまま、その鍋を見ていた。

根菜と豆の煮込みだった。塩漬けの豚が一切れ、湯気の下に沈んでいる。酢の匂いはまだしない。仕上げの一さじは、手順の最後にあった。

昼のうちに、献立を賄いの女に渡していた。誰の膳かと聞かれて、弔いの膳だと答えた。王国の下町の料理を、王国で一度だけ食べる。この先のことは、それを済ませてから考えるつもりだった。

献立を書いた男が、卓の端の椅子を引いていた。


「お弔いの膳です」

賄いの女は鍋を置き、卓を見回した。指が、座っている者の数を数えた。

「……どなたの」

答える者はいなかった。アシュトンは腰を下ろし、膝に布巾を広げた。


鍋の脇に、酢の小瓶と匙が添えてあった。

魔導師は小瓶を受け取り、匙に酢を満たした。縁で一度すり切る。聖油を量るときと同じ手つきになった。指先には何も灯さなかった。

一さじを、鍋に落とした。

酢の匂いが立った。

「豆は一晩浸すって書いてありましたけどね」

賄いの女が言った。

「間に合わないんで、湯で戻しましたよ」

魔導師は鍋を見た。手順には、湯で戻してよいとは書いていない。

「下町では、皆そうする」

アシュトンが言った。


商人が一口食べて、匙を置いた。

「酢が余計だ」

誰も意見を求めていなかった。商人は構わず続けた。

「根菜で甘くした。豚の塩で締めた。そこで味は決まっている。酢でもう一度締め直す必要はない。二度、同じところに戻っている」

「あの方が書かれた献立です」

魔導師は言った。

「だから言っている」

商人はアシュトンを見た。

「十九年分だ」

アシュトンは煮込みを口に運んだ。

「下町の料理だ。下手でいい」

商人は何か言い返しかけて、匙を取り直した。二杯目は、黙って食べた。


魔導師は、自分の皿よりアシュトンの皿を見ていた。

同じ速さで減っていく皿が、卓にもう一枚あった。いちばん端の、青年の皿だった。アシュトンが匙を口に運ぶと、青年も運んだ。置くと、置いた。目は皿の縁から上がらなかった。

人参は、鍋の中でいちばん大きく切ってあった。献立にそう書いてあった。

アシュトンは豆を食べ、豚を食べ、ほかの根菜を食べた。人参は皿の隅に寄せてあった。

最後に、それを食べた。

噛む時間が、ほかのものより少し長かった。


その夜、魔導師は料理帳を開いた。

百十四回目の下に、日付を書いた。下町の煮込み。豆は湯で戻す。酢は一さじ。

人参、完食。

番号は、書かなかった。

献立の紙は、もう料理帳に挟んでいない。「検閲済」の朱印ごと、賄いの女が台所の壁に鋲で留めていった。


   *


翌朝六時半にハティが出勤すると、廊下の掲示板の当番表が一枚増えていた。

昨日までの当番表は、情報部の警備員三人による二交代だった。その上に、新しい一枚が鋲で重ねてある。

三交代になっていた。一直、二直、三直。警備員三人の名前に、それぞれ特徴が括弧で添えてある。(鼻に古傷)(左利き)(喫煙、要注意)。

最下段だけ、帝国の書式で枠が引いてあった。


 宿直 ユール 外泊を認めず


欄外に署名があった。承認欄は空いていた。


勝手口では、食料品屋が青い顔をしていた。

納品書の束を、商人が片手でめくっていた。

「卵が一ダースで、この値か」

「へえ、いつもどおりで」

「いつもどおりなのは分かる。いつからいつもどおりなのかを聞いている」

十分後、卵は一割、小麦粉は二割下がっていた。来週からは、その朝の産みたてが届くことになった。

「旦那、そりゃ値切りってもんで」

「是正だ」

食料品屋は、来たときより青い顔で帰っていった。荷車の轍が、門のところで一度乱れた。


警備員の話では、老将軍は朝まで客間の扉の前に立っていたという。扉の向こうは、空だった。退職者が隠れ家に泊まってよいという規程は、ない。

アシュトンが来たのは、七時ちょうどだった。夜のうちに安宿へ戻り、朝の乗合馬車で来たという。

老将軍が、食堂の入口に立っていた。

「外泊は認めていない」

「その当番表は、承認されていない」

アシュトンは言って、席に着いた。卓の端で、青年が床を見たまま小さく頷いた。

パンをちぎりながら、老将軍が言った。

「王国の北では、雪はいつ解ける」

「平原なら、春分の前後だ。年によって十日ずれる」

「そうか」

老将軍はそれきり何も聞かず、茶を注いだ。

帝国の人も、天気の話はするらしい。ハティはそう思って、パンにバターを塗った。


食後、本部から迎えの馬車が来た。部長室への呼び出しで、隠れ家担当の事務官も同行せよとあった。


   *


部長室の窓は、王都の屋根の上に開いていた。

部長は窓を背にして座っていた。六十を過ぎて、髪はとうに白い。課長はその机の脇に立ち、ハティは戸口の脇で調書を胸に抱えていた。

「亡命者は国家の資産です」

課長が言った。

「運用官個人の友人として扱えば、聴取の記録は証拠になりません。四人を分け、それぞれに別の担当者をつけて聴取する。それが規程で、前例です」

正しい理屈だった。アシュトン自身、若い運用官にそう教えたことがある。

「その通りです」

アシュトンは言った。課長が、アシュトンの顔を初めてまともに見た。

部長は二人を順に見た。

「聴取は行う。日取りは私が決める。それまで、四人の世話はアシュトンに任せる。嘱託としてだ」

部長は引き出しから紙を一枚出し、署名した。委嘱状だった。日付の欄だけ、インクの色が違っていた。本文は、昨日のうちに書いてあった。

課長は委嘱状を読み、それから言った。

「承知しました。運用課に机を用意すべきところですが、空きがありません」

ハティが一歩出た。

「あの、退職者を呼び戻す場合の規程は、昨夜全部確認しました。机の貸与は、ありません」

「総務規程、第四章第十七条」

アシュトンが言った。

「嘱託員の執務場所は、所属長がこれを定める」

ハティは規程集の第四章を探し始めた。

課長が、条文を口の中でなぞった。運用課の嘱託の所属長は、運用課長だ。

「では、定める」

課長は言った。

「執務場所は、隠れ家の宿直室とする。本部への出勤は要しない。宿直日誌は、毎朝運用課に上げること」

「承知しました」

アシュトンは頭を下げた。


廊下に出ると、ハティが規程集の第四章を開いていた。第十七条は、四十二頁にあった。嘱託員の執務場所は所属長がこれを定める。その頁には、付箋が一枚も貼っていなかった。

「宿直室って、二階の奥の、北向きの」

「窓がある」

アシュトンはそう言って、荷物を取りに行くと階段を下りた。


   *


夕方、ハティが一人で隠れ家に戻ると、玄関の広間に四人がいた。

老将軍は階段の上。商人と魔導師は広間の両端。青年は、玄関の扉に手が届く位置。賄いの女が、手のつかない昼食の盆を四つ重ねて下がっていくところだった。

「アシュトン嘱託は、荷物を取りに」

四人がそれぞれの名で訂正した。ハティは、話を先に進めることにした。部長が嘱託として呼び戻したこと。本部の運用課には、机の空きがないこと。執務場所は、この屋敷の宿直室に決まったこと。

老将軍が、階段を下りてきた。

「机がない、とは」

「規程上は、所属長が場所を決められるので」

「紙を」

老将軍は薬種商の古い調剤台に紙を置き、立ったまま書いた。帝国軍の書式だった。


 宛 王国対外情報部長殿

 件 将校の執務環境の不備について

 一、机 なし

 二、椅子 なし

 三、窓 北向き

 右、至急改善を要す


将校ではありません、という言葉は飲み込んだ。宿直室の窓の向きまで、もう調べてある。


商人が、老将軍の紙の裏を借りた。

「王都で机一台の相場が、このくらい」

数字を一つ書いた。

「損料を年に一割。二十五年。複利で回す」

ペンが紙の上を走り、行を追うごとに桁が一つずつ増えた。

「それから、不当な評価による信用の毀損。これには相場がないので、私がつける」

最後の行で、桁がまた三つ増えた。商人はその下に線を二本引いた。

「王国はこの男に、これだけ借りている」

ハティは最後の数字を見た。この屋敷が三つ買えた。


「百十四回のうち、あの方が椅子にお掛けになったのは、十一回です」

魔導師が言った。商人がペンを置いた。

「あとの百三回は、窓の脇に立っておいででした。わたしの座る席が、通りから見えないように」

魔導師は、老将軍の紙に目を落とした。椅子、なし。

「この国でも、まだお立ちになるのですか」


青年はハティの手元を見ていた。正確には、規程集から少しはみ出した課長の決定書の写しを。

ハティが差し出すと、青年は規程集の第十七条と決定書を並べ、二枚を見比べた。

「誤りがありません」

「はい。規程どおりですから」

「ただ、一つだけ違います」

青年は、決定書に引かれた条文を指でなぞった。

「規程集にない読点が、一つあります。開いて写せば、こうはなりません。誰かが言ったのを、聞いて書いています」

青年は写しをハティに返した。


玄関の扉が開いた。

アシュトンが、鞄を一つ提げて立っていた。もう片方の腕に、素焼きの植木鉢を抱えている。

調剤台の上の紙を取り上げた。表が抗議文で、裏が損害の計算になっている。両面を読み終えると、二つに折って外套の内ポケットにしまった。青年の目が、その内ポケットを追った。

「宿直室は、二階の奥だ」

アシュトンは言った。

「窓は北向きだが、通りが見える」

紙のあった場所に、老将軍の手が残った。

「ここに、住むのか」

「宿直の嘱託だ。執務場所はここになる」

老将軍は掲示板から当番表を外し、承認欄に、自分で署名した。商人は手帳を出し、家賃の欄を作った。支払人の欄には、自分の名を書いた。青年は玄関の扉の前を離れ、階段の下に立った。


アシュトンの後ろで、灰色の猫が敷居を跨いだ。

痩せた雌猫だった。馬車から玄関まで、三歩後ろをついてきていた。猫は広間の真ん中で止まり、四人を順に見上げた。

老将軍と商人が同時に手を伸ばし、手の甲がぶつかった。猫が先に、二人の手の下をくぐった。商人は手帳の家賃の欄の下に、餌代の欄を足した。

青年は、広間の窓と薬棚と階段を順に見た。

「日当たりと隙間風からすると、この家でいちばん暖かいのは、薬棚の前です」

アシュトンは鉢を抱えたまま、先に階段を上がっていった。

猫は四人のあいだを抜けた。薬棚の前も素通りして、階段を上がった。

ハティは後を追った。四人も追った。

宿直室には、椅子がなかった。アシュトンが寝台の端に腰を下ろし、鉢を北向きの窓辺に置いた。左に寄せた。

猫が、その膝に上がった。一度回って、丸くなった。

戸口に、四人が並んでいた。

「訂正します」

青年が、膝を見たまま言った。

「いちばん暖かいのは、膝の上です」

「猫と張り合わないでください!」

ハティの声が、廊下に響いた。


本部からの伝令が来たのは、その少し後だった。

課長の通達が一枚。ハティは廊下で、四人の前で読み上げた。


 亡命者台帳の整理のため、明朝、各人に担当官との接触開始の時期を申告させること。台帳の記載は、古い順とする。記録、コリンズ。


宿直室の中から、アシュトンの声がした。

「写しは、何部出ている」

「え。課長と、わたしと、保管用に一部です」

返事はなかった。部長室の分は、なかった。

「では、私が一行目だ」

老将軍が言った。

「二十三年だ」

商人が手を上げた。

「待て。古い順というのは、どの暦で数える」

宿直室の中で、猫が膝の上で寝返りを打った。

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