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2-1 喪主は誰だ

「部屋に戻ってください」

アシュトンが言った。戻った者はいなかった。

最初に動いたのは、長靴の老将軍だった。

行進と同じ間隔の足音で階段を下りてくると、老将軍は何も言わずにアシュトンの両肩を掴んだ。顔を見て、外套の上から腕をたどり、手首で止まった。

十秒ほどそうしていた。

老将軍は手を離し、一歩下がった。言葉の代わりに、顎の筋が一度動いた。

ハティは、自分の吐く息の音で、止めていたのを知った。

老将軍はそこで初めて、ハティのほうを向いた。

「今夜から、この男の部屋の前には私が立つ」

「あ、あの、規程では、警備は情報部の警備員が」

「では、警備員の前に私が立つ」

「前とか後ろの問題では……。それに、いつまで立つおつもりですか」

「二十三年、この男の夜を、私は一度も守ってやれなかった」

老将軍は真顔だった。

「二十三年分、立つ」

「計算が合いません!」

ハティの声が裏返った。

「交代制にしてください」

アシュトンが言った。老将軍は少し考え、二直目なら譲ると答えた。


次が商人だった。

商人は、廊下の天井に響く声で笑い出し、急に止まった。

「死亡通知で人を呼びつける男が、どこにいる」

笑っていたときと同じ高さの声で、商人は怒っていた。

「私はな、昨日、商会を捨てたんだ。父の代から五十年の看板と、十九年分の帳簿と、祖父の代から三代かけて買い集めた評議会の議席と、港の倉庫を三つだ。指輪は海に投げた。帰りの船賃も持っていない」

指を一本ずつ折って数え、折る指がなくなると、商人はアシュトンの外套の襟を掴んだ。

「それから、葬儀だ」

「葬儀」

ハティが聞き返した。

「セッテポルティの大聖堂を、来月の第二週で押さえてきた。花は白百合を三百本。楽団は評議会の式典と同じ編成。前金も払った」

白百合三百本。自分の月給の何か月分だろう、とハティは考えかけて、やめた。

「私がやらなくて、誰がこの男を弔う」

商人は襟を掴んだまま、アシュトンを睨んだ。

「全部、お前が死んだと思ったからだぞ」

「前金は、来月の予約なら半分は戻るはずだ」

アシュトンは襟を掴まれたまま答えた。

「そういう話をしているのではない!」


白い衣の魔導師は、走らなかった。

廊下をまっすぐ歩いてきて、商人の手が離れるのを待ち、アシュトンの左の手首を取った。指を二本、脈に当てる。目を閉じた。

「魔法は使っておりません」

誰も聞いていないのに、魔導師はそう言った。

ハティは時計を見た。一分たった。二分たった。

「あの、そろそろ」

「脈が、八年前より少し速うございます」

魔導師は目を閉じたまま答えた。

「八年前の夏至の夜より、四つ。去年の秋より、二つ。お疲れなのですね」

「去年の秋の脈を、覚えてらっしゃるんですか」

「百十四回、全部覚えております」

魔導師は当たり前のことのように言った。

「脈と、お顔の色と、その日に召し上がったものと、お残しになったものを」

ハティは一歩引いた。背中が薬棚に当たり、引き出しが二つ、音を立てて飛び出した。

「お残しになったもの、まで」

「人参を、三十一回」

アシュトンは何も言わなかった。言えば三十二回目が記録される。

三分目に入った。手首は、まだ魔導師の指の下にあった。


青年は、廊下の端に立ったままだった。

そう見えたのは最初だけだった。気がつくと、アシュトンの右腕の、手を伸ばせば届く位置に立っていた。いつ移ったのか、ハティには見えなかった。目は床の木目に落としたまま、顔を上げない。

「あの一手を受け取ってから、三十一時間、眠っていません」

床に向かって、青年は言った。

「推論を、千二百回やり直しました。千二百回とも、あなたは死んでいました」

ハティは飛び出した引き出しを押し戻した。千二百回。この人は頭の中で、千二百回お葬式を出したのだろうか。

「千二百一回目に、扉を使うことにしました」

「峠の馬車でも、眠れませんでした。御者が、曲がり角の手前で、必ず馬を緩めてくれたのに」

「寝なさい」

アシュトンが言った。

青年は頷かなかった。代わりに、聞き取れないほどの声で言った。

「駒を、お持ちですか」

アシュトンは空いている右手を外套の内ポケットに入れ、何かを取り出した。白い、小さなチェスの駒だった。ポーンが一つ。角が擦れて丸くなっている。

青年は駒を見た。手は伸ばさなかった。

「まだ、預かっていてください」

それきり、青年は黙った。手の届く距離に、立ち続けた。

ハティは調書を胸に抱え直した。

二十三年分立つ人。お葬式を予約した人。人参を三十一回数えた人。千二百回、この人を死なせた人。

重い。

口に出すのはやめた。四人が一斉にこちらを見そうだった。


   *


アシュトンは四人を順に見た。脈を取られながら話をするのは、二十五年で初めてになる。

四人が何を確かめに来たのかは、分かっていた。

分かっていて、手紙を書いた。

内ポケットの白い駒は、四年前から同じ場所に入っている。

「私は引退した。それだけだ」

「それだけ、とは」

老将軍の声は低かった。

「あの花は、それだけの意味で送ってきたのか」

「では、あの献立も」

魔導師が目を開けた。

「指せない一手でした」

青年が言った。

「あの行を選んだのも、それだけの意味か」

商人の声が、ようやく一段上がった。

四つの問いに、アシュトンは答えなかった。

訂正はしなかった。四人はここにいる。


   *


沈黙に耐えられなかったのは、ハティだった。

「あの、アシュトンさん。お部屋の用意が」

「ユールだ」

「ラッコルタだ」

「ソルスティスです」

「エキノクスです」

四人が同時に訂正した。

ハティは台帳を見て、四人を見て、アシュトンを見た。アシュトンは脈を取られたまま、訂正に加わる気配もない。

「では、あの、皆さんのことは、どうお呼びすれば」

「名乗る名はない」

「好きに呼べ。ただしラッコルタは駄目だ」

「ソルスティスでなければ、どのようにでも」

「番号で構いません。慣れていますから」

最後の一言に、アシュトンが初めて口を挟んだ。

「番号は、やめよう」

青年は、小さく頷いた。

ハティは調書の呼称欄に、四つの空白を作った。今日はもう、空白ばかり増えている。

四人は、それぞれ口にした名をもう一度聞いた。それから、ゆっくり互いを見た。

今度は、さっきより長く見た。

「連合の商人か」

老将軍が言った。問いの形をしていなかった。

「北の穀物を、三年続けて買い叩いてくれた国の」

「帝国の将官か」

商人が言い返した。

「うちの船に二度、臨検をかけた国の。積荷はただの綿花だったがな」

老将軍は答えず、魔導師に目を移した。帝国と教国は同盟国のはずだが、同盟国の人間を見る目ではなかった。

「聖庁の白だな。同盟国の魔導師が、なぜ王国の運用官の脈を取っている」

「同じことを、帝国の将軍閣下にお伺いしたいと存じます」

魔導師は手首を離さないまま答えた。

ハティは調書を開き直した。亡命者同士が同席した場合は、互いの前職を記録すること。第十二章、第九条。ここだけは規程どおりにできる。

「念のため、皆さんの前職を伺います。記録のために」

「北方軍の、兵站だ」

「海運と、評議会」

「聖庁に、おりました」

三人が、張り合うように即答した。

「コリンズ君。記録は後で、個別に」

アシュトンが言った。一拍、遅かった。

青年はもう、床に向かって答えていた。

「公国の暗号局で、設計官をしていました。七番目の」

老将軍の顔から、表情が抜けた。商人は口を開けたまま止まった。魔導師の指が、初めて脈から浮いた。

三つの国の鍵表は、どれも公国の暗号局から買っている。その隅にいつも小さく記された番号を、三人とも知っていた。

「七」

商人が、かすれた声で言った。

青年は、誰の顔も見なかった。

「はい」

老将軍が半歩、青年とアシュトンのあいだに入った。商人は襟元に手をやり、指輪のない指で、そこにない何かを探した。魔導師の指が、そっと脈の上に戻った。

それきり、廊下で口を開く者はいなくなった。

ハティは調書の前職欄に四行を書き、その下の所見欄に一行を足した。


 所見:同席者間に、何らかの緊張あり。


「夕食にしよう」

脈を取られたまま、アシュトンが言った。

ハティは調書を閉じかけて、手を止めた。さっき、あの人は自分を「コリンズ君」と呼んだ。ハティは一度も名乗っていない。

四人は黙って、彼の後ろについて食堂へ歩きだした。

三歩で、廊下の幅が足りなくなった。青年が黙ってアシュトンの右腕との間合いを一歩詰め、その肩に老将軍が手を置いた。

「そこは二直目だ」

青年が、顔を上げずに言い返した。

「当番表は、まだ承認されていません」

商人が、後ろから割り込んだ。

「それで、葬儀だがな。喪主は私が務める」

「喪主は私だ。二十三年だ」

「喪主は年数ではない。前金だ。払ったのは私だぞ」

「前金で喪主は買えん」

「御身のお清めは、聖庁の作法でいたします」

「弔辞は、千二百通り用意してあります」

やっぱり、とハティは思った。

「生きている」

アシュトンが言った。

四人は一度彼を見て、それから互いを見た。葬儀の話は、そのまま続いた。

最後尾で、ハティは頭の中で規程集の目次をめくった。第十二章、亡命者の受入れ。生きている担当官の葬儀について、という項目はない。

食堂の扉の隙間から、根菜と豆を煮込む匂いがしていた。

手首を取ったまま、魔導師の足が止まった。



――――――――――


所見:フォロー及び☆による評価は、規程上、禁止されていない。(記録:ハリエット・コリンズ)

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