1-3 空白の担当官
ハリエット・コリンズは、規程集が好きだった。
誰に対しても同じことが書いてあるからだ。対外情報部に入って八か月、隠れ家担当の事務官として、付箋で倍の厚さになった規程集を毎朝机の右端に置く。それで一日がうまく回る。
その朝は、外套を掛ける前に回らなくなった。
「コリンズさん。亡命者です」
電信係が紙を持って立っていた。四枚あった。
「全部、七時台です。北と西と東と南」
「……四人?」
「四人です」
ハティは一枚目を受け取った。北線の国境駐在所から。
亡命希望者一名。貨物の付き添い人として入国。帝国軍人と称す。所定外の合言葉を述べ、保護を求む。「ユール以外とは話さない」。以後、黙秘。
二枚目。大河の河口の駐在所から。
亡命希望者一名。艀の検数係として入国。連合の商人と称す。保護を求む。「ラッコルタ以外とは口をきかない。値段の話もしない」。
値段の話は誰もしていない。ハティは三枚目と四枚目を急いで読んだ。東の巡礼路と、南の峠。どちらも同じことが書いてあった。保護を求む。誰それ以外とは話さない。違うのは言葉づかいと、四枚目の所見の欄だけだった。
所見、終始目を合わせず。待合の床板の枚数を尋ねたところ、即答す。
尋ねたほうもどうかと思う。
「四人とも、指名してますね」
電信係が言った。亡命って指名制なんですか、とハティは言いかけて、やめた。前例があったら恥ずかしい。
規程集の第十二章を開いた。前例はあった。一件ずつなら。
*
台帳の閲覧には課長の印が要る。
課長は書類から顔も上げずに印を押した。
「四人か。豊作だな」
ハティには、褒め言葉に聞こえなかった。
午後、四人は四台の馬車で隠れ家に着いた。郊外の旧薬種商の屋敷で、廊下には引き出しだらけの薬棚が残っている。ハティは規程どおり四人を別々の部屋に入れ、互いの顔が見えないよう、着く時刻を十五分ずつずらした。完璧だった。ここまでは。
台帳の四つの名は、すぐに見つかった。
ユール 帝国 軍/兵站
ラッコルタ 連合 商/海運
ソルスティス 教国 聖庁/魔導
エキノクス 公国 暗号局
担当官の欄は、四つとも空白だった。最高機密の符号は担当官を記さない。それも規程どおりだ。
一つ目の部屋の戸を叩いた。
老将軍は窓際に立っていた。用意しておいた椅子は、いつの間にか扉と窓の両方が見える壁際に移されている。座った跡はない。貨物の付き添い人の上着の下から、軍の長靴がのぞいていた。手持ちで足に合う靴がそれしかなかった、という顔をしていた。
「確認させてください。あなたが、ユールですね」
「違う」
窓の外から目を離さずに、老将軍は言った。
「ユールは、私の運用官だ」
ハティは台帳を見た。ユール、帝国、軍、兵站。目の前にいるのは、帝国の軍人。
「でも、台帳では、あなたがユールで」
「その台帳は間違っている」
台帳を作った部署で働いている身としては、聞き捨てならない。ハティは咳払いを一つして、調書を開いた。
「では、面会を希望される方の、人相と特徴を」
「あれは、私が二十三年見てきた男だ」
待った。続きはなかった。
「……背の高さとか」
「二十三年だ」
人相の欄には何も書けなかった。
部屋を出かけたところで、背中に声がかかった。
「この屋敷の警備の当番表を見せてもらいたい。夜の二直目が薄い」
着いて、まだ二時間だった。
二つ目の部屋の商人は、茶を断った。連合の検数係の上着の襟に、海運商会の紋が縫い取ってある。左手の薬指の付け根だけ、指輪の形に肌が白かった。
「ラッコルタは私ではない。私の、ラッコルタだ」
私の、のところにだけ力が入っていた。
人相を尋ねると、商人は鼻で笑った。
「この世で、私と対等に口をきくただ一人の男だ。顔なら見れば分かる」
見れば分かるなら聞いていない。ハティは調書を閉じた。戸を閉める前に、商人が言った。
「ところで、ここの警備員の日当はいくらだ」
「値段の話はなさらないと、伺っていますが」
「値段ではない。相場だ」
三つ目と四つ目の部屋は、合わせて五分で済んだ。
巡礼の白い衣の魔導師は、襟元にもう一枚、織りの細かい白をのぞかせていた。人相を尋ねると、少し考えてから「わたしが、誰よりもよく存じ上げている方です」と答え、台所の場所を尋ねた。夕食を作る方に、塩の加減をお伝えしたいのですという。
公国の郵便の帽章がついた帽子を膝に載せた青年は、ハティの靴に向かって「約束を違えたことが、一度もない人です」と答えた。それから壁の薬棚に目をやった。
「引き出しは、百四十四あります」
「数えなくていいです!」
「数えていません。見えただけです」
ハティは調書を閉じた。
廊下に出ると、突き当たりの台所の前で、魔導師が賄いの女に折り畳んだ紙を渡していた。紙の隅に、朱色の印がのぞいていた。
廊下に出て、ハティは扉に背中を預けた。
二十三年見てきた男。対等に口をきくただ一人の男。誰よりもよく存じ上げている方。約束を一度も違えなかった人。
顔を聞いたのに、四人とも、顔以外の全部を答えた。
調書を四枚並べる。人相の欄は、四枚とも白紙だった。その代わりに余白が埋まっている。全部、ハティが自分で書き写した。書き写してから、少し後悔した。
規程集をめくった。亡命者が担当官を指名した場合。黙秘した場合。虚偽を述べた場合。自分の符号名を他人の名として要求した場合、という条文はなかった。
規程集を閉じた。誰に対しても同じことが書いてある本に、この四人のことは書いていない。
*
夕方、川沿いの安宿の窓に、灰色の猫が雨樋を伝って入ってきた。官舎からどうやって来たのかは分からない。猫は鉢の隣で丸くなった。
間もなく、部長室付きの書記が階段を上ってきた。
アシュトンは外套を着て、窓辺の椅子に座っていた。鞄は足元にある。
書記が戸口で口を開くより先に、アシュトンは立ち上がっていた。
「部長がお呼びです。郊外へ。馬車を下に」
アシュトンは黙って頷いた。
四つの名が一人の男を指すと知っているのは、部内では部長だけになる。退職の翌々日に、その部長が人を寄越す。来るなら今日の夕方だと読んで、彼は昼前から外套を着ていた。
鉢の土を指で押した。湿っている。猫が片目を開けた。
鉢は窓辺の右に寄せたまま、動かさなかった。
階段の下で、帳場の女主人に声をかけた。
「鉢と猫を、戻るまで預かってください」
「鉢はともかく、猫はあんたのじゃないんだろう」
女主人は返事の代わりに、帳面に何か書き足した。受け皿の分の下に、もう一行。
*
馬車の窓には、覆いが下りていた。向かいの座席に、部長がいた。
書記が御者台に上がると、扉が外から閉められた。車輪が石畳を噛んだ。
「刈り取りの綴りは、読んだか」
「署名のあいだに、四頁」
「あと十一頁ある。三か月分だ」
「第三段から先は、読まなくても分かります。私が書いた手順です」
部長は、膝の上の紙を四枚、扇に開いた。今朝、国境の四つの駐在所から届いた電信の写しだった。
「一昨日の晩の定型電信に、国際郵便監査官の印で、配達の指示が一行入っていた」
「監査官の仕事です」
「その監査官は、一昨日付で引退したはずだ」
部長は四枚を重ねた。
「刈り取りが始まる前に、網を空にしたな」
アシュトンは、覆いの隙間を過ぎていく街灯を数えていた。三つ目で答えた。
「訂正は、しません」
「四人とも、君以外とは話さないと言っている。引退した男に、することはないはずだが」
「扉は、くぐらせて終わりではありません。向こう側に、暮らしが要ります」
部長は、しばらく覆いの隙間を見ていた。
「明日、部長室に来い。課長も呼んでおく」
郊外の道に入ると、車輪の音が軽くなった。
*
日が落ちてから、門の前に馬車が止まった。
ハティは玄関の脇で、台帳と調書を胸に抱えて待っていた。部長室から、担当官を一人寄越すと電信があったのだ。
あの四人が、あそこまで言う相手。どんな人だろう、と昼から考えていた。二十三年見てきて、対等で、誰よりも知られていて、約束を違えない人。背が高くて、目つきが鋭くて、声が低くて。
馬車から降りてきたのは、鞄を一つ提げた中年の男だった。
外套の肩が少し落ちている。顔は、どこかで見た気がする。どこで見たのかは思い出せない。人相の欄に書いても一行で終わりそうな顔だった。
配達の人かしら、とハティは思った。
「あの、お届け物でしたら、裏の勝手口に」
「運用課の、アシュトンです。一昨日まで」
「一昨日まで」
思い出した。運用課の窓際の席。報告書の枚数が部でいちばん少なくて、一昨日付で退職した人。書類の書式を最後まで覚えなかった、と課の先輩たちが笑っていた。
この人が。
この人が、担当官。
ハティが言葉を探しているうちに、アシュトンは玄関の扉を閉めた。古い蝶番が鳴った。
二階で一つ、一階で三つ、戸が同時に開いた。
長靴の老将軍が階段の上に。紋の上着の商人と、白い衣の魔導師と、帽子を握った青年が廊下に。ハティが十五分ずつずらして入れた四人が、一秒もずれずに出てきた。
四人とも、玄関の男だけを見ていた。
声が重なった。
「ユール」
「ラッコルタ」
「ソルスティス」
「エキノクス」
低い声と、大きな声と、澄んだ声と、ほとんど聞こえない声だった。帝国と、連合と、教国と、公国の言葉だった。
声がやんだ。
四人が、互いの呼んだ名を聞いた。それから初めて、互いを見た。
老将軍の目が、白い衣の襟元に止まり、商会の紋へ移り、公国の帽章で止まった。商人の目は、軍の長靴から動かなかった。魔導師は老将軍の手の位置を見ていた。青年は、誰とも目を合わせなかった。合わせないまま、青ざめていた。
誰も動かなかった。
ハティは胸に抱えた台帳を見下ろした。四つの名の、四つの空白の担当官欄。
その空白が、一人で、玄関で外套を脱いでいた。




