1-2 この花が届いたなら
引退の翌朝、いくつもの国の郵便局で、配達係が仕分け棚の奥から古い封筒を抜き出した。
封筒の裏には、保管期限延長の印が縦に並んでいた。多いものは十を数えた。
*
官舎の管理人は、目録を片手に部屋を三周した。
寝台、机、椅子、衣装棚。どれも官舎の備品で、目録の数と合っている。四周目に入ろうとして、管理人は足を止めた。
「お荷物は」
「これだけです」
アシュトンは鞄を一つ提げていた。もう片方の腕に、素焼きの植木鉢を抱えている。赤いゼラニウムが三つ、花をつけていた。
「荷車は」
「要りません」
管理人は目録を見直し、入居の欄を指でたどった。十九年前の日付があった。日付と部屋を見比べ、私物の欄に「植木鉢一」とだけ書いて、目録を閉じた。
鍵を返した。昨日から、返す鍵が続いている。
鉢を抱えた男が大通りを歩いても、二度見る者はいなかった。見た者も、昼には忘れている。
川沿いの安宿は、一泊の値段が窓の向きで違った。通りに面した部屋は高い。アシュトンは高いほうを取った。
「鉢植えは困るよ。水をこぼしたら床の弁償だからね」
宿の女主人は鉢を顎で指した。
「受け皿を買ってきます」
「なら、いい」
部屋は狭く、窓だけが広かった。アシュトンは鉢を窓辺に置き、右へ寄せた。
右に寄せた鉢は「無事」の合図だった。窓の見える路地に、それを確かめに来る者が何年かに一度はいた。この窓を見上げる者は、もういない。
鉢はそのままにした。
九時を回っていた。早い局なら、配達係がもう最初の角を曲がっている。今朝配達に回った封筒のうち、受け取ってすぐ動ける者が何人いるかも、彼は知っていた。
受け皿を買いに出た。
*
北の要塞では、朝の郵便は点呼の前に届く。
副官が盆に載せてきた封筒の中に、一通だけ古いものがあった。紙が黄ばみ、裏に延長の印が縦に並んでいる。差出人の欄に、帝国の言葉で「冬至」とあった。
老将軍は副官を下がらせた。
封を切ると、乾いた薔薇の押し花が膝に落ちた。
押し花を挟んだ手紙は「無事」の合図だった。冬至の夜には必ずこちらから書き、春までには必ず押し花が返ってきた。二十三年、一度も欠けたことはない。
便箋は一枚で、庭の話が書いてあった。北向きの斜面の株には、霜除けの藁を一枚多くかけること。古い株の根元から出る若枝は、三年目まで蕾を摘むこと。老将軍が十年以上前に話し、話したことさえ忘れていた株のことだった。
最後の一行だけが、庭の話ではなかった。
この花が届いたなら、私はもう、庭にはいない。
老将軍は読み返し、三度目は読まなかった。
押し花を拾い上げた。花びらの縁が一枚欠けている。無事の印を添えて、無事ではないと書いてきた。あの男は合図を取り違える男ではない。取り違えるくらいなら、二十三年前の冬に死んでいる。
兵站の言葉で言えば、補給線の終点が消えた。
扉の話を、一度だけ聞いたことがある。
十年前の冬、ユール(冬至)は報告を求めず、薔薇の話だけをして帰った。帰り際に、国境の森の猟師小屋の話をした。理由は言わなかった。
練兵場で点呼の号令が始まった。
老将軍は押し花を便箋に挟み直し、軍服の胸に手をやった。
*
西の港の帳場は、潮と紙の匂いがする。
商会の当主は、朝の郵便を自分で開ける。十九年続けてきた習慣で、番頭たちは当主の倹約癖だと思っている。
古い封筒が一通あった。差出人は「秋分」。
便箋には、一行だけ書き写してあった。
波は銀貨のごとく打ち寄せ、わが胸もまた帳尻を合わす
商人は椅子から立ち上がった。
「よりによって、これか」
誰もいない帳場で、声に出していた。
「十九年だぞ。十九年付き合って、選んだのがこの行か」
十九年前の秋、収穫市の酒場で読んだ詩の三行目だった。通訳を名乗っていた男は、この行で初めて口を挟んだ。比喩が二度、商売に戻っている。海を銀貨にした時点で、胸まで帳簿にする必要はない。
あれから二百篇近く書いた。ましな行はいくらでもある。それを、いちばん下手だと言われた行を、一字も違えずに書き写してきた。
商人は便箋を机に叩きつけ、それからまた拾い上げた。
この行を覚えている者は、世界に二人しかいない。書いた本人は、いま読むまで半分忘れていた。
三行目の下に、もう一文あった。
この行が届いたなら、私はもう、酒場の隅の席にはいない。
評議会の鐘が九つ鳴った。商人は鳴り終えるまで動かなかった。
番頭が戸を叩き、今日の入港の目録を持ってきたと言った。
「置いておけ」
声はいつもどおりに出た。
番頭は青い顔で下がった。戸の外で、十九年という言葉だけを聞いていたらしい。昼までに帳場では、当主が十九年分の大損を出したことになっていた。
商人は左手の指輪を見た。それから、詩の束をしまってある引き出しの鍵を開けた。
*
東の聖都では、聖庁の魔導師に宛てた私信は、すべて検閲を通る。
朝の祈りのあと、侍祭が紙を一枚持ってきた。封はすでに切られ、隅に「検閲済」の朱印がある。献立だった。差出人は「夏至」。
魔導師は紙を受け取り、侍祭が下がるまで目を落とさなかった。
王国の下町の煮込みだった。根菜と豆を煮て、塩漬けの豚を一切れ入れる。仕上げに酢を一さじ。
ずっと前の晩に、話したことがある。聖庁の食事は帳簿で決まっていて、外の料理を食べたことがない。いつか一度、ふつうの人が食べるものを食べてみたい。あの人はそのとき、何も答えなかった。
魔導師は献立を、典礼書を読むときと同じ速さで、頭から読み直した。朱印の横に手順が続いている。豆は前の晩から水に浸すこと。煮込むあいだ、火を強くしないこと。
最後の手順だけが、料理ではなかった。
この献立が届いたなら、私はもう、食卓にはいない。
検閲官は、献立の結びの言葉として読んだのだろう。
魔導師は料理帳を開いた。会った日付と、その日に聞いた好物が、八年分並んでいる。最後の行は百十四回目だった。その一つ上の行に、人参、お残し、とある。
ペンを取り、百十五と書きかけて、やめた。手紙は会ったうちに入らない。
扉の場所は知らない。知っているのは、扉があるということだけだった。指先に灯をともせば一瞬で済む道のりを、この先は一度も魔法なしで歩くことになる。
魔導師は献立を四つに畳み、料理帳の最後の頁に挟んだ。
*
推論は三つに分かれた。
捕らえられた。死んだ。自分の意思で手を引いた。
三つ目なら、あの人は駒を返してくる。駒は入っていなかった。残る二つは、どちらも同じところへ戻ってくる。
第七設計官は、机の上の封筒をもう一度見た。
南の山の国の暗号局では、設計官に届く郵便を、保全部が開封してから寮へ回す。封筒には再封の印があった。中身は棋譜が一手。升目の名が二つ、矢印で結んであるだけだった。保全部は朝のうちに暗号表と三度照合し、何も出なかったので通したらしい。再封の糊は、三度分の苛立ちで少しはみ出していた。寮の出入口には、見慣れない門番が一人増えていた。差出人は「春分」。
青年は携帯用のチェス盤を開いた。白のポーンが一つ欠けている。
棋譜の一手は、その欠けたポーンの初手だった。四年前の春、外交会議の控室で、最初に指された手。
駒がなければ、この手は指せない。駒は、あの人が持っている。
便箋を灯にかざした。インクの沈み方と紙の焼け具合からすると、書かれたのは四年前の春。筆圧が強い。三年前の冬から、あの人の字は右手をかばって軽くなった。この字には、まだその癖がない。
初めて会った週に、もうこれを書いていた。
最後の一行を、青年は読み終える前に指で隠した。
青年は四年分の手紙を、頭の中で日付順に並べた。約束の日を外した手紙は一通もない。約束の額を違えた月も一度もない。その男が、指せない一手を送ってきた。
推論をもう一度やり直した。何度やっても、同じところに戻ってきた。
青年は胸の番号札に指をかけた。
*
その日の正午までに、四人は別々の国で、同じところに行き着いていた。
あの人の身に、何かあった。
それ以上の推論は、誰もしなかった。
勲章は机に並べられた。指輪は海に沈んだ。聖具は祭壇に戻った。番号札は伏せて置かれた。
その夜、四つの国境で、扉が開いた。




