1-1 靴紐を二度結んだ男
北の要塞の官舎で、老将軍が軍服から勲章を外した。四十年分を、授与の古い順に机に並べた。窓の外では、霜の降りた練兵場に朝の号令が響いている。最後の一つを置き終えるまで、副官を呼ぶ鈴には手を伸ばさなかった。
西の港町では、海運商会の当主が指から印章を抜いた。父から継いで十九年、湯浴みのときも外したことがない。桟橋の先まで歩き、潮の引いた海へ投げた。水音は聞かずに背を向けた。
東の聖都では、白衣の魔導師が聖具を祭壇に戻した。祭礼のたびに顔を覆ってきた面紗を畳み、その上に重ねた。一礼もせずに歩み去った。
南の山の国では、暗号局の寮に住む青年が胸の番号札を外した。名前の代わりに呼ばれてきた数字、七と刻まれた面を伏せて机に置き、灯を消した。
四人は互いの顔も名前も知らない。四つの国のあいだには同盟があり、通商の争いがあり、三十年解けない冷戦がある。
四人とも、同じ朝に一通の手紙を受け取っていた。
四人の行き先に地図の上で線を引けば、四本の線は一つの国の真ん中で交わる。
その前日、男は引退した。
*
霜降の朝だった。対外情報部の玄関で、ヒュー・アシュトンは受付に身分証を出した。
「お名前を」
「アシュトン。運用課」
受付の青年は職員名簿を指でたどった。一度その行を通り過ぎ、戻ってきた。顔を上げ、身分証の写真と彼の顔を二度見比べる。
「失礼しました。本日付でご退職の、アシュトンさん」
「そうだ」
青年は三年前からこの席に座っている。アシュトンはその三年間、毎朝この前を通ってきた。
「弁当、今日は角の店じゃないんだな」
机の下の包みの上で、青年の手が止まった。
「……母が持たせてくれまして。どうしてお分かりに」
「結び目が違う」
青年は包みと彼の顔を見比べ、もう一度名簿に目を落とした。名前を確かめ直しているらしかった。
運用課の部屋では、誰も顔を上げなかった。壁の掲示板には、各課の報告書の枚数が月ごとの棒で引いてある。送別会の告知はない。昨日もなかったし、先週もなかった。
自分の机の引き出しを、上から順に開けた。どれも空だった。二十五年、私物をこの建物に置いたことはない。置けば、誰かが読む。
向かいの席の書記官が、引き出しを閉める音で顔を上げた。誰だったか思い出そうとする顔をして、思い出す前に書類へ目を戻した。
課長室の机には、引き継ぎの書類が角を揃えて置いてあった。
「署名を」
課長は椅子から立たなかった。四十を少し過ぎた男で、整えた髪に櫛の跡が残っている。
「協力者網の引き継ぎ資料が三枚。二十五年で三枚だ」
課長は書類の端を指で叩いた。
「議会に出す紙は、これでは一枚も作れない」
アシュトンはペンを取った。引き継ぎ書類の下から、別の綴りがはみ出していた。表紙の題は「刈り取り作戦」。逆さの文字を、署名欄にたどり着くまでに四頁読んだ。
期間は三か月。前任者の協力者網から、取れるものをすべて取る。接触の頻度を三倍に上げ、危険度の高い質問を優先する。露見は前提とし、回収の予定はない。
余白に課長の字で書き込みがある。「春の予算審議まで。戦果三件以上」。
課長にも課長の帳尻がある。春までに紙が要る。紙がなければ予算が削られ、削られれば、課の誰かが国境の向こうで道具を持たずに働くことになる。理屈は通っていた。
第三段の手順には見覚えがあった。十一年前に、彼自身が書いた手順だった。
署名した。対外情報部運用課、運用官、ヒュー・アシュトン。この肩書きを書くのは、これが最後になる。
課長は書類を引き寄せ、署名を確かめた。それから、聞こえるように言った。
「受死日も、終わってみればこんなものか」
受死日。暦注で最悪とされる凶日の名だ。敵にとってのその日を日付まで読み当てた運用官に、言い当てられた側の防諜機関が付けた。
その名と、いま署名を終えた男を結びつけられる者は、部内に二人しか残っていない。一人は目の前にいる。もう一人は最上階の部長室にいる。
アシュトンは異を唱えなかった。唱えれば、課長は作戦を一月早める。署名を終えるまでに、そこまで読んでいた。
「お世話になりました」
課長は返事をせず、刈り取り作戦の綴りを引き出しにしまった。鍵はかけなかった。
運用課の保管庫は地下にある。鍵は夕方までに返す決まりで、まだ彼の手にあった。
奥の棚の私用箱から、木の印章を出した。国際郵便監査官の職印。二十五年使ってきた偽装の身分で、柄の角が手の形に丸くなっている。
この身分は、部の書類のどこにも載っていない。籍を取ったのも、毎年の更新の届けを出してきたのも、彼自身だった。割れたときに、部の名が出ないようにするためだ。抹消の届けを出せるのも、彼しかいない。届けは、出さなかった。
国境の向こうのいくつもの郵便局に、彼の手紙が眠っている。十年前の冬、そのとき運用していた協力者の分を一通ずつ書いて局留めにした。それからは、協力者を一人得るたびに一通を書き足し、毎年自分の手で保管期限を延ばしてきた。期限を延ばせなくなった局も、いくつかある。
今日、残っている手紙を、すべて配達に回す。指示書は宛先の欄が尽きて、二枚目の用紙に継いだ。
警告は書かなかった。警告なら、受け取った者は残る。職務を理由に、あるいは彼のために残る。そういう相手ばかりだと知っていたから、どう読まれるかを先に決めて書いた。
朱肉に印章をつけたところで、一度だけ手が止まった。
押した。
指示書は、郵便業務の定型電信で今夜のうちに各国へ流れる。毎晩何百行と流れる配達指示の一行で、読む者はいない。配達は、どの局も同じ朝に揃えてある。一人目の知らせが部に届いてからでは、残りは刈り取られる。網は、今夜のうちに空にする。
鍵を返した。係は受領簿に印を押し、次の書類に手を伸ばした。
十七時二分に退庁した。
「お疲れさまでした、ええと」
受付の青年が言いかけた。アシュトンは会釈して、回転扉を押した。
回転扉の硝子に、廊下の柱の陰で帽子をかぶり直す若い男が映った。運用課の二年目だ。アシュトンは彼の名前も、左の靴の踵だけが減っていることも知っている。向こうは手帳を開き、挟んだ写真と彼の背中を見比べていた。
課長が念のために付けたのだろう。引退した男が最後の日に何をするか、見ておく。手順としては正しい。
アシュトンは尾けやすいように歩いた。大通りの右側を、同じ速さで。辻馬車は拾わず、乗合の停留所も素通りした。
市場の角で人の波が厚くなり、背後の足音が乱れた。アシュトンは立ち止まって、靴紐を結び直した。ほどけてはいなかった。若い男が人混みを抜けて、二十歩後ろの定位置に戻ってくるのを待ってから、また歩き出した。
角の店で黒パンを一斤と、干し魚を一枚買った。釣り銭を数え直した。飾り窓の前では足を止めず、振り返りもしなかった。橋の手前で、もう一度靴紐を結び直した。
官舎に着いたのは十七時五十一分。二階の部屋に上がり、窓辺のランプに火を入れた。油は朝のうちに、四時間分だけ足してある。植木鉢の影がカーテンに映った。通りから見上げれば、男が一人、部屋にいる。
外套は脱がなかった。台所の窓から、裏の物干し場へ出た。
物干し竿の下に、灰色の猫がいた。痩せた雌で、いつからか官舎の物干し場に住みついている。管理人は追い払い、住人は気づかない。猫のほうも、住人の誰にも寄っていかない。
アシュトンの足音で、猫は顔を上げた。
干し魚を竿の下に置いた。猫は匂いを嗅ぎ、それから彼を見上げた。出かけるのか、という顔だった。
「すぐ戻る」
隣の官舎の洗濯場を抜け、路地へ降りた。
中央郵便局の夜間窓口は、二十時を過ぎても灯が残る。待合の長椅子から、硝子越しに電信室が見えた。今夜の定型電信が三束、打鍵手の脇の板に掛かっている。
彼は外套の襟を立て、二つ目の束が打たれるのを待った。四十分かかった。打鍵手の指の運びで、自分の行が過ぎたのが分かった。打ち終えた打鍵手は束を板から外し、済みの籠に落とした。
官舎へは裏から戻った。物干し竿の下に、猫はまだいた。魚はきれいになくなっていた。礼はなかった。
表の通りでは、若い男が街灯の下で足踏みをしていた。夜は冷え始めていた。窓のランプは、二十一時五十二分に油が尽きて消えた。
*
翌朝、課長の机に報告書が一枚届いた。
対象:運用課 H・アシュトン(本日付退職)
十七時〇二分、退庁。
十七時三十八分、商店にて黒パン一斤、干し魚一枚を購入。不審な接触なし。
十七時五十一分、官舎に帰着。以後、外出なし。
二十一時五十二分、消灯。
所見:対象は尾行に気づいた様子なし。周囲への注意は著しく散漫。歩行中、靴紐のほどけること二度。釣り銭を二度数える。吝嗇の傾向あり。真っすぐ帰宅し、就寝したものと認む。
課長は所見を末行まで読み、受領印を押した。
「受死日も、靴紐か」
報告書は処理済みの箱に入った。
その夜の外出を知っているのは、官舎の物干し場の猫だけだった。




