5-2 経費で落ちなかった一瓶
器械が西へ発った翌々日、運用課の部屋で、二年目の運用官は回覧の綴りを開いた。
防諜局から回ってきた報告の写しだった。課長の判が押してある。隠れ家の周辺で、尾行者二名を確保。嘱託の協力により、とあった。協力の中身の欄には、一行だけだった。
対象の道順により、尾行者の顔を正面から三回確認。
二年目は、自分の机のいちばん下の引き出しを開けた。霜降の日に書いた報告の控えが、まだ入っていた。
歩行中、靴紐のほどけること二度。
一度目は、市場の角だった。人の波に押されて、自分が二十歩の定位置から外れたところだった。二度目は、橋の手前だった。自分は角の店の前で、手帳に時刻を書いていた。
二度とも、戻るまで、あの人は屈んでいた。
二年目は、左の靴の踵を床から浮かせた。いつからか、こちらの踵だけが減る。
向かいの席の書記官が、顔を上げた。
「顔色が悪いぞ」
「靴紐の結び方を、習い直そうかと思いまして」
控えは、引き出しに戻した。回覧の綴りに、閲覧の印を押した。押してから、印が逆さだったことに気づいた。
*
その四日後、サムは漬物の瓶を一つ提げて来た。
「河口の港の第九倉庫の前で、監査院の取立人が三人、四日張り込んでる。向こうは、器械の置いてあるところで聴取をやってると踏んでる。器械が港に戻ったなら、首も港に移ったってわけだ。うちの連絡員は、港の王国税関の詰所から見てる。漬物屋は、四日、まともな客がうちの連絡員しか来ないと嘆いてる。連絡員は昼に一瓶ずつ買ってる。四日で、詰所が胡瓜の匂いになった」
サムは瓶を卓に置いた。
「経費で落ちなかった一瓶だ。置いてく」
「利害関係者からの贈答の受領は、規程で禁止です!」
「漬物を押収する局があるなら、見てみたいね」
ハティは規程集の第三章を開きかけて、閉じた。
商人が瓶を持ち上げ、底の値札を見た。
「客が一人の店の値だ」
「知るか。経費で落ちなかった値だ」
商人は瓶を卓に戻した。値札の側を、壁に向けた。
「それと、ブランディーニだ。取立人に詰められて、受け取ってない、の一点張りだそうだ。実際、受け取ってない。取立人も、それ以上は詰めてない」
商人は、壁に向けた値札を見ていた。
*
サムは帽子を取り、椅子に腰を下ろした。内ポケットから、封の切られた紙を一枚出した。
「見張るだけにした。一軒だけ、夜のうちに誰か入った。家は」
「紙でもらう」
アシュトンが手を出した。サムは口を閉じ、紙をアシュトンに渡した。
台所の戸口で、魔導師が前掛けの上から、隠しの干し林檎の袋を押さえた。
老将軍は、膝の上の手袋の指を、一本ずつ伸ばした。
アシュトンは紙を手元で開いた。自分の字で書いた四行の旧住所の余白に、サムの鉛筆が足されていた。
三軒 異状なし
一軒 入られた形跡なし 郵便受けの古い手紙が日付順に揃え直されていた
四軒とも、届けの番地は空き地か空き家
アシュトンは紙を折った。四行目と、その横の鉛筆の行だけを表に出し、その面を青年のほうへ向けて卓に置いた。
四行目に、峠、の一字があった。その横に、同じ字で小さく書き添えてある。転居、去年の春。
峠の御者は、あの夜、青年が酔う曲がり角が来るたびに、その三つ手前で馬を緩めた男だった。
去年の春。
青年は、自分が峠を越えた夜を数え直した。十四日前だった。御者はもう峠に家を持っていなかった。それでも、三つ手前の曲がり角で馬を緩めた。
アシュトンは紙を取り上げ、竈へ持っていく紙の束に入れた。
サムが、帽子を膝の上で回した。
「入った連中は、封蝋ってのか」
「鍵を、守るための人たちです」
サムは帽子をかぶり、青年を見てから、卓の上に電信の写しを一枚残して帰っていった。
青年は、卓の上の写しを取って、日誌の脇まで持っていった。
「二行目を、読みましょうか」
日誌の上で、アシュトンのペンが止まった。
「読まなくていい」
「読めます」
「知っている」
アシュトンは写しを折り、日誌には挟まずに、さっきの紙と同じ束に入れた。
「読まなくていい」
青年の目は、紙の束から、ペンを持つ手まで上がって、そこにとどまった。
*
午後、魔導師が料理帳を持って、階段の下に来た。
「お尋ねしても、よろしゅうございますか」
青年は、膝の上の盤から目を上げた。
「聖都の升で書いた分量を、王国の匙に直したいのでございます」
料理帳の後ろの綴じが開いていた。分量の欄に、聖都の単位が並んでいる。青年は頁を受け取り、目でたどった。升、合、聖油の匙。どれも換算の比が一つに決まっていた。一行ごとに、王国の匙の数が頭の中で並んだ。
前のほうに戻った朝の頁で、目が止まった。
塩、ひとつまみの半分。
「これは」
「コリンズ様に、教わりました」
青年は、その行を読み返した。ひとつまみには、決まった目方がない。半分にしても、決まらない。
「換算できません」
「では」
「指を、見せていただけますか」
魔導師は、塩壺に指を入れるときの形を、空の手でしてみせた。親指と人差し指が、ある高さで閉じた。青年はその高さを見ていた。
魔導師は料理帳に戻り、その行の横に小さく書き足した。
換算せず。指の高さのまま。
その晩の食卓に、胡瓜の漬物が一皿出た。
商人は、皿を見なかった。
「私は、あの値の胡瓜は食わん」
魔導師は、皿の残りを数えてから、料理帳を開いた。
胡瓜の漬物。連合の。あの方、一切れ。
連合の方、手つかず。
夕食のあと、商人は瓶を持って庭に出た。
生垣の向こうの窓に、灯があった。商人は生垣の前で咳払いをした。窓が開き、後家が顔を出した。
「何だい。葉っぱなら、明日の朝だよ」
商人は瓶を、生垣の上から差し出した。
「何だい、これ」
「胡瓜だ。連合の」
後家は瓶を受け取り、窓の灯にかざした。
「いくらだい」
商人は、口を開いた。値は、瓶の底に書いてある。
「値は、つけない」
後家は瓶と商人の顔を見比べた。
「葉っぱの分にしちゃ、多いね」
窓が閉まった。
台所の窓から、魔導師がそれを見ていた。料理帳のさっきの行の下に、一行足した。
瓶ごと、お隣へ。
寝る前に、アシュトンは裏門まで下りた。
掛け金には、薄く埃がのっている。真ん中だけが一筋、開け閉めで擦れて光っていた。
アシュトンは自分の髪を一本抜き、掛け金の左の鋲から渡した。端を、指一本ぶん垂らした。
二階では、青年が盤を畳む前に、白の欠けた升目を一度だけ指でなぞった。
*
四年前の春、公国の首都で、電信条約の技術部会が開かれていた。
会期の三日目の控室は、がらんとしていた。十八の歳の設計官は、隅の卓で携帯用の盤を開き、一人で駒を並べていた。暗号局の外の人間と、同じ部屋で一時間を過ごすのは初めてだった。
向かいの椅子が引かれた。
王国の郵便の監査官だと、首から下げた札にあった。男は何も言わずに、黒の側に座った。
青年は白の初手を指した。男が応じた。
一局は、一時間と少しかかった。控室の外で、各国の随員が廊下を行き来する足音がしていた。男の守りは、青年の読みより一手ずつ遅く、一手ずつ堅かった。
終局の礼のあと、男は白のポーンを一つ、盤から取り上げた。
「次に会うまで、預かる」
青年は、取り返す手を伸ばさなかった。伸ばせば、次はない。
次の会期は、秋だった。それまでのあいだに、手紙が何通か来た。秋の控室で、男は外套の内ポケットから白のポーンを出し、盤に置いた。駒の角が、少し擦れていた。帰り際に、また預かった。
四年のあいだ、青年の盤は、白のポーンが一つ欠けたまま畳まれた。
*
翌朝、まだ暗いうちに、アシュトンは角灯の火を細くして、裏門まで下りた。
掛け金に、昨夜渡した髪の毛が一本かかっていた。
アシュトンは角灯を掛け金に近づけた。
髪の毛の端は、掛け金の左の鋲から、指一本ぶん離れて垂れている。昨夜、垂らしたとおりの長さだった。
門柱は、夜露で濡れていた。髪の毛に指の腹で触れた。乾いていた。
元の位置に、ありすぎる。
掛け金は濡れていた。その上の埃だけが、乾いていた。昨夜光っていた真ん中の一筋は、埃の下に埋まっていた。
髪の毛は、そのままにした。
角灯を上げて、裏門の外の土を照らした。足跡はなかった。草も、倒れていなかった。
向かいの下宿の二階を見上げた。窓掛けの隙間が、少し開いていた。
勝手口の鍵穴を見た。玄関の閂を見た。階段の三段目を、跨がずに一度踏んだ。三段目は、いつもの音で鳴った。
二階の廊下を、端から端まで歩いた。青年の部屋の戸の前で、猫が丸くなっていた。戸に耳を寄せると、寝息が一つ聞こえた。
宿直室に戻り、日誌を開いた。
裏門 痕跡なし
――――――――――
エキノクス「白のポーンは、まだ預けたままです。☆も、三つ、預けていただけますか」




