5-1 脅迫ではなく、取引
課長は、玄関の戸口の手前で振り返った。
「連合の工房の品だ。仲買人を通して借りた。それが、何か」
「蝶番を替えた者がいます」
アシュトンは、薬棚の前の木箱を見ていた。書記が二人、持ち手に手を掛けたまま課長の顔をうかがった。
「較正を続ける前に、裏板を開けて点検されてはどうでしょう。課長のお立会いで」
課長は戸口から戻り、指で木箱の蓋を二度叩いた。
「開けろ」
書記がねじ回しを出した。裏板の四隅のねじのうち、三本は錆びていた。蝶番の側の一本だけが光っていた。
課長は書記の手からねじ回しを取り、光っている一本から自分で外した。
裏板の内側に、真鍮の円盤が一枚、膠で留めてあった。指の先ほどの大きさで、細い線が渦に刻んである。表の銘板とは、刻みの癖が違った。
魔導師が、調剤台の陰から一歩出た。
「呼び鈴でございます」
「呼び鈴」
課長が聞き返した。
「対になったもう一枚を持つ者に、これの在りかを知らせます。鳴りますのは、置き場所が変わって、一晩据えたときでございます。聖庁では、灯消しが巡礼の荷に縫い込みます」
魔導師はそれ以上、円盤に近づかなかった。
課長は円盤を見下ろしたまま、上着の内側から借用の書付を出した。
「貸主は、河口の港の、ブランディーニ商会」
食堂の戸口で、商人が手帳を閉じた。
「ブランディーニは、去年の秋から、監査院の取立人に借金がある」
閉じた手帳を、上着の内側の、財布のあった場所にしまった。
*
客間の椅子は三脚あった。課長が一脚に座り、ハティが一脚に座った。記録係にハティを、と言ったのはアシュトンだった。アシュトンは勧められても座らず、窓の脇に立った。
ハティは議事録の用紙を一枚出した。
「借金のある貸主は、取立人の主に頼まれれば、断れません」
アシュトンが言った。
「その器械は、今朝、この屋敷に運び込まれました。荷を下ろすところは、向かいの下宿の二階から見えています。昼の、防諜局の方の部屋です」
課長の目が、窓の向こうの下宿へ動いた。膝の上の書付を揃えた。
「一晩据えれば、鳴ります。今夜のうちに、屋敷から出しておくべきです」
「部長に上げるのか」
「部長は、三日後に戻られます」
アシュトンは、窓の外の庭を見ていた。
「点検の記録は、課長のお名前で出されるのがよいと思います。点検の結果、不具合により返却。聴取は、器械の不具合により中断」
「中断で、議会に出す紙が作れるか」
課長の声は低かった。
「春までに、戦果を三件。予算はそれで決まる。決まらなければ、国境の向こうで道具を持たずに働く者が出る。お前も、それは知っているはずだ」
「知っています」
「なら」
「仕掛けを見つけたのは、課長です」
アシュトンは庭から目を戻した。
「連合の監査院が、王国の情報部に追跡の器械を貸し付けた。その件を課長のお名前で防諜局に回されれば、内務省には借りが一つできます。春の議会で、運用課の予算に反対する省が、一つ減ります」
課長は長いこと書付を見ていた。
「昔のお前なら、上に上げて、私を潰していた」
アシュトンは、窓の脇から動かなかった。窓の外で、老将軍が庭の隅の薔薇の株の前にしゃがんでいた。
課長が、ハティのほうを向いた。
「記録しろ。点検の結果、不具合により返却。聴取は中断。仕掛けの件は、課を経て、運用課長より防諜局へ通報。決裁、運用課長」
ハティは書いた。課長は署名欄に自分で名を入れ、席を立った。書付を胸の隠しに収め、扉を開けたまま出ていった。
客間を出て、廊下の薬棚の前で、ハティは議事録を胸に抱え直した。
「あの。今のは、脅迫では」
「取引だ」
アシュトンは、宿直室への階段を上がっていった。
研修の帳面のどこかに、似た言葉を書きつけた覚えがあった。ハティは、その頁を探さなかった。
*
日が傾くころ、王都の貨物駅の窓口は、西線の夕方の荷で混んでいた。
アシュトンは送り状を一枚取り、立ったまま書いた。
品名 精密器械 修理のため返送 到着後、置き場所を変えぬこと
宛先 河口の港 ブランディーニ商会 第九倉庫
隣で、サムが送り状を覗き込んだ。
「ブランディーニの倉庫は、第八だ。第九は、隣の漬物屋だぞ」
「修理に出す先だ」
「円盤の写しは取った。うちの局長は現物を欲しがったがな」
サムは送り状とアシュトンの顔を見比べ、受領印の列に並んだ。
アシュトンは外套の内ポケットから、封をした紙を一枚出した。列に並んだサムの手に、それを持たせた。
「国内の旧住所が四つ。見張るだけでいい。踏み込むな」
サムは封を見て、自分の内ポケットに入れた。
木箱は夕方の貨物列車で、西へ発った。
*
隠れ家の庭と隣家の庭のあいだには、低い生垣が一本あるきりだった。
隠れ家の側に、大きな篠懸の木が一本立っている。秋の風は西から吹く。葉は、隣の庭に落ちる。
翌朝、隣家の後家が、竹箒を持って生垣の向こうに立っていた。
「毎朝、これだよ」
後家は足元の落ち葉を箒で示した。
商人の右手が、上着の内側へ動いた。指は手帳の角に触れて、そこで行き場をなくした。
父の代から五十年、揉め事は、額を決めれば終わった。額の決まらない揉め事を、商人は一つも知らない。
「では、相場の話を」
後家は箒を一度、生垣に打ちつけた。
「葉っぱの話をしてるんだよ」
「葉の持ち主は、木の持ち主だ。木はこちらの庭にある。ならば葉は、こちらの」
「じゃあ、持って帰っとくれ」
商人は、生垣の向こうの葉を見た。数えるには多すぎた。どちらの葉かを書く欄は、帳簿にない。
「風が運んだものだ。責めは風にある」
「風に箒を持たせとくれ」
後家は竹箒を、生垣の上から差し出した。
商人は、それを受け取った。持ち手の、どこを持てばいいのかが分からなかった。帳簿の綴じ紐を持つように両手で握り、一度、葉の上を払った。払った葉は、風に拾われて、また生垣を越えていった。
ブランディーニの顔が浮かんだ。河口の港で、樽の目方をごまかすのが上手い男だった。あの男も、金の話でしか人に呼ばれたことがなかった。
後家は箒を取り返し、自分の側の葉を掃き集め、生垣のきわに一列に寄せて、家に入っていった。
昼過ぎに、サムが門を叩いた。紙の束を二つ持っていた。
「課長の判は、貰ってきた。課を経た」
サムは束の一つを、商人の前に置いた。
「監査院の資産凍結の一覧だ。連合の港の取引先から回ってきた写しでな。取引先の照合を頼みたい」
商人が頁を繰った。凍結された口座が、商会ごとに並んでいる。商人の商会の名は、最初の頁にあった。
脇から覗いていたハティの指が、三枚目の途中で止まった。
口座名義 三行目
開設 十九年前 会計年度の第一週
入金 年一回 収穫市の週
払出し なし
備考 名義人不詳 架空名義の疑い
ハティの眉が上がった。
「凍結されてるな。十九年、一度も下ろしてない」
サムが言った。
「凍結ではない。保管だ」
商人は一覧を引き寄せた。アシュトンは、その頁を一度だけ見て、日誌に目を戻した。
商人は、自分の商会の頁を繰った。最後の頁の下のほうに、商会の名の入った一行があった。
融資団の持分 帝国向け
商人の目が、庭の薔薇の株のほうへ動いた。商人は、その頁の角を内側へ折った。
*
サムが、もう一つの束を卓に置いた。
「こっちが本題だ。三日前、公国の公使館が打った電信の写し。うちの暗号係が三人で三日かけて、一字も読めなかった」
細い紙に、数字が五つずつの組で並んでいた。
階段の下から、青年が来ていた。卓から二歩の位置で止まり、紙の上に目を落とした。
「公国の方式です」
青年は、紙から目を上げなかった。
「第七設計の、二年目の版です。わたしが局を出る前に、廃されたはずの版です」
サムが青年を見た。アシュトンのほうも見た。
アシュトンは、日誌の頁をめくった。
青年の指が、一行目の数字の組をたどった。たどりながら、唇がわずかに動いた。
「宛先の符号は、保全部の内勤用です。外では、封蝋と呼ばれています」
指が、二行目の頭で紙から浮いた。
「二行目は」
サムが言った。
青年は、紙から手を離した。紙を、サムのほうへ押し戻した。
「これ以上は、読みたくありません」




