4-2 手袋をしていなかった通訳
辻を抜けると、屋敷の門までは一本道になる。
二十歩後ろに、靴磨きの台を畳んだ少年がいた。その十歩後ろに、塩の跡の外套。
ハティは卵を抱えて、前だけを見ていた。
門の手前で、荷馬車が一台、道の端に寄せてあった。御者台の男が、帽子のつばに指を一本当てた。
荷台から男が二人降りた。一人は少年の台を持ち上げ、もう一人は塩の跡の外套の肘を取った。声は上がらなかった。二人が荷台に乗るまで、通りを歩いていた者は誰も振り返らなかった。
荷馬車の陰から、背広の男が駆けてきた。三十代の半ば。帽子を手で押さえている。
アシュトンは門を開け、ハティと男を内へ入れてから門を閉めた。
男は門柱に手をついて、息を整えた。
「国外担当の年寄りが、俺の管轄に、亡命者を四人も持ち込んだ」
「受入れです! 第十二章の!」
卵の包みを抱えたまま、ハティが言った。
男は、ハティの規程集の付箋の束を見た。それから、アシュトンに向き直った。
「防諜局のブラッドリー。サムでいい」
「アシュトンだ」
「知ってる。向かいの下宿の二階から、一週間見てた」
サムは外套の隠しから、紙を一枚出した。表に、品名と値が並んでいる。裏には鉛筆で、人相が二つと、門に着く時刻。その下に、一行あった。
交代の刻に、灯を消すな
「三人目は、うちのだ。数に入れられてるとは思わなかった。あんな渡され方も、初めてだ」
サムは紙の表を返した。
「裏は助かった。表は何だ」
「卵の値だ」
サムは表を読み直した。
「安くないか、これ」
「是正済みだ」
サムは紙を畳み、自分の隠しに戻した。
「証拠で預かる。もう一人は連合の賞金稼ぎで、銀貨二千枚の首を探してた。少年は帝国の密告網の、下請けの下請けだ。何も知らん。引き渡すか、親元に返すか」
「返せ」
「返せば、向こうの網に今日のことが伝わるぞ」
「それでいい」
サムは、アシュトンの顔を一度見直した。
「報告は、そっちの課長に上げる。嘱託の協力により、と書いとく」
「書かなくていい」
「書く。管轄の礼儀だ。ついでに、礼も言いに行く」
*
ハティは卵の包みを片腕に寄せ、懐中時計の蓋を開けた。
外勤の所要、二時間二十分。
サムが、ハティの手元の時計を覗いた。
「あんたらの道順だと、うちのが、あの二人の顔を正面から三回拝めた。まっすぐ市場に行ってたら、一回も拝めない」
ハティは時計の蓋を閉めた。備考の欄は、まだ白かった。
玄関の扉が開いていた。青年が、敷居の内側に手帳を持って立っていた。開いた頁に、出た時刻と戻った時刻が、秒まで並んでいた。
「事務官の時計は、二十秒遅れています」
青年は手帳を閉じ、階段の下へ戻っていった。
ハティは勤務記録の戻りの時刻に、二十秒を足して書き直した。
研修で、教官が受死日の逸話を一つだけ話したことがある。帝国の密偵が、受死日を三日尾けた。三日目の夜に本国へ戻り、報告書を書いた。
異状なし。
尾行が見抜かれていたと分かったのは、その密偵の名が、王国の台帳に載ってからだった。
受死日は、誰の手も借りなかった。教官は、そう締めくくった。
あの人は、防諜局に紙を一枚渡しただけだ。
ハティは首を振った。腕の中で、卵の包みが鳴った。
*
帝都アイゼンハルトでは、監察総局の長官室の窓に、もう霜が降りていた。
ヴィルマ・クラウゼは、報告書を二通、机に並べた。
一通は、北方軍兵站総監の失踪だった。要塞の官舎に、勲章が四十年分、授与の古い順に並べて残されていた。副官は、朝の点呼のあと、将軍の姿を見ていない。
もう一通は、同盟国の教国から回ってきた照会だった。聖庁の魔導師が一名、所在不明。帝国領内で目撃があれば知らせよ、とある。
ヴィルマは、勲章の並べ方を記した一行に、鉛筆で線を引いた。
「古い順、ね」
書記官が顔を上げた。
「何か」
「几帳面な人だと思って」
ヴィルマは二通を、別々の綴りに戻した。綴りの背に、それぞれの日付を書き入れた。
*
客間の窓辺で、将軍は膝の上の手袋の、指先を揃え直した。
二十三年前、冬至から四日目の夜だった。
国境の森の猟師小屋で、捕虜の交換があった。帝国から六人、王国から六人。小屋の卓で双方の参謀が名簿を読み合わせ、通訳が言葉を移した。
王国側の通訳は、若い男だった。手袋をしていなかった。
帝国に返される捕虜の最後の一人は、十七の歩兵だった。霜にやられた指に、王国の官給の手袋がはまっていた。指先が余っていた。
読み合わせのあいだ、通訳は赤くなった指でペンを持ち、名簿の綴りを一字ずつ直した。帝国の名を帝国の綴りで書く王国の人間を、参謀中佐は初めて見た。
署名の前に、中佐の手帳が卓から落ちた。開いた頁に、薔薇の押し花が挟まっていた。拾ったのは通訳だった。
通訳は押し花を見て、品種の名を言った。北の斜面でしか色の出ない、古い品種だった。
「手袋は、どうした」
中佐は聞いた。
「帝国の手袋は、指が薄い」
通訳はそれだけ答えて、手帳を返した。
署名が済み、捕虜が雪の上を歩いて入れ替わった。小屋を出る前に、中佐は自分の庭の、その株の名を口にした。妻にも話したことのない名だった。
通訳は頷いて、ペンを置いた。
八日前の夜、国境の森で、猟師がその株の名を言った。
猟師は将軍を小屋へ連れていき、夜明けまでここで待てと言った。
卓は、あの夜の卓だった。端に、角灯の焦げ跡が輪になって残っていた。
戸口の脇の釘に、手袋が一組掛かっていた。王国の官給品で、新しかった。はめると、指先まで合った。
「あんたの分だと、言われてる」
いつ言われたのかを、将軍は聞かなかった。
*
客間の扉が開いた。
課長が出てきた。帳面を抱えた書記が、そのあとに続いた。
広間では、鼻に古傷の警備員が懐中時計を見て、計画書の別紙の三に書き込んでいた。
本日 嘱託 散歩 二時間二十分
サムが帽子を取った。
「運用課長殿。防諜局のブラッドリーです。お宅の嘱託の協力で、二名を確保しました。礼を言いに伺いました」
課長は、サムには答えなかった。規程集を開き、迷わず一枚、付箋を貼った。
「第三章第四条。他局との連絡は、課を経る」
課長の目は、アシュトンにあった。
「承知しています」
「コリンズ君。今日の外勤の備考に、書いておけ」
課長はサムのほうへ向き直った。
「この屋敷は、明日まで較正の場だ。第十二章第十五条は、局の外の者にも及ぶ」
「承知しました。退散します」
サムは帽子をかぶり直した。戸口へ向かう途中で、食堂から出てきた商人とすれ違った。商人の目が、サムの隠しからはみ出した紙の端に落ちた。
「それは、私の値だ」
「今は、証拠だ」
「証拠にも、値はある」
サムは隠しを押さえて、門を出ていった。商人は手帳から一枚破り取り、値を書き直した。今度は、アシュトンに渡した。裏は白いままだった。アシュトンは紙を裏返さずに、宿直日誌に挟んだ。
老将軍が客間から出てきた。手袋をはめ直してから、魔導師の差し出した茶碗を受け取った。
魔導師は、アシュトンの椅子の前の茶碗を新しいものと替えた。下げた受け皿に、乾いた茶の輪が四つ重なっていた。
課長が書記を呼んだ。
「較正は、明日も続ける。出力を上げる」
書記が二人で、木箱を客間から運び出してきた。薬棚の前で一度下ろし、一人が蓋を開けて、ずれた筒を据え直した。蓋の内側が、こちらを向いていた。
真鍮の銘板が打ってあった。刻んであるのは、連合の工房の名だった。
蝶番だけが、新しかった。
書記が蓋を閉め、留め金を掛けた。
アシュトンは、課長の背中に声をかけた。
「課長。その器械は、どこで借りましたか」
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ラッコルタ「卵の値は、証拠で持っていかれた。☆の値は、三つだ」




