9. 空の箱を開ける日
ハイディが言い終えるなり口を押さえ、画の前でぴたりと足を揃えた。兄を見上げたままの少女に、私もつい息を潜める。
「書斎と寝言の話は、私に任せる約束だったな?」
「うん……もう、話してもいいのかと……ごめんね、兄上」
少女は私にも頭を下げた。跳ねた黒い短髪がふわりと揺れ――そのまま足早に出て行った。
扉の閉まる音を聞きながら、公爵へ目を戻した。葬式、という一語が胸の底に残り、灯りの届く部屋にいるのに膝のあたりが冷える。
「……私の葬式の夢のこと、聞かせていただけますか?」
「もちろん話すが――さすがに気軽には話したくない話なので、まとまった時間が取れる時でいいかな?」
膝の上で指を組み、ほどいて、また組む。夢の話を聞くなら、私の一年も話さなければならない。聞いてほしいのに、知られたあとの彼の顔を思い描けなかった。
「私も、心の準備をする時間が欲しいです」
公爵が頷くのを見て、私は机の紙を揃える。端の重なるかすかな音を聞きながら、心を決める。
「実は……私にも、お話ししたい秘密があります」
「喜んで」
◇
二十三日目、一月十三日。フィリベルトとベルナデッテの婚約発表への招待状には、支度の贈り主として私の名があった。文字を指でなぞっても、そんな贈り物をした覚えはない。
元の花婿と義妹が婚約する。やはり、と息が漏れた。けれど、私の名まで勝手に添えていいはずがない。
私は注文の控えを取り寄せ、招待状の横に置いた。注文主は義妹で、請求先だけが私だ。
一周目の今日、義妹の衣装代は私の持参金から出ていった。私に届くのは袖を通せる品ではなく、支払済みの紙だけ。あのとき言えなかった返事なら、今も喉の奥に残っている。
今の目録には金貨五千枚と、評価金貨千枚の母の宝飾。未引渡しの控えを横へ置き、金庫の中とも照らし合わせた。
「注文も支払いも承諾していません。この返答を、店へ届けてください」
「はい、控えも奥様のお手元に残します」
家令が便りを受け取るのを見届けて、私は金庫を閉じる。鍵を自分の手に戻すと、冷たい金属が少しずつ温もっていく。
支度の鏡で赤茶の編み髪を直していると、後ろに公爵が立った。こちらを見ているのが鏡越しでもわかり、髪を押さえる指がいつもより慎重になる。
「ふふっ、兄上ったら、さっきから義姉上が鏡を見るたびに頷いてるよ」
鏡の中で、彼のまっすぐな眉が上がる。髪を押さえたまま振り向くと、目をそらす間もなく視線が合った。
「見ているのは、自分の髪ですわ。まだ、お尋ねしておりませんよ」
「……よく似合っているから、つい先に頷いてしまったな」
「うししし、兄上の負け!」
公爵はそこでようやく頷くのをやめる。ハイディが大きく振る手に見送られ、私は夫の隣へ並ぶ。
「今日はどうか、隣で私が話すのを聞いていてください」
「ああ、君の席へ共に行こう」
昼から燭台の灯る侯爵邸の客間には、甘い香水の匂いが重たくこもっていた。磨かれた床に灯りがにじみ、重なる話し声が天井へ昇っていく。
フィリベルトの母が、祝客へ笑顔を向けている。ヴァルトラウト様は細く長い首筋を傾け、私と父へ席を勧めた。
「姉妹でお祝いできて、お衣装までお姉様からの贈り物なんて、ベルナデッテさんはお幸せですこと」
「ええ、伯爵家から持参する財で揃えるのですから、うちの娘にぴったりでしょう!」
「伯爵家の財、とおっしゃいますと?」
「あら、家族なのだから、細かいお話はお祝いのあとでいいでしょう」
私は招待状を取り出す。継母が笑みを崩さない横で、父は眉を寄せている。
中央には、義妹が仕立屋へ預けていた衣装箱が置かれていた。本人が返送を命じたのだと、客に向かって話している。
「皆さま、わたしの支度をしてくださったお姉様にも、お礼を言ってね!」
「その前に皆さま、支払人はどなたとお聞きでしょう?」
拍手しかけた客の手が、胸の前で止まった。ベルナデッテだけはお辞儀の途中で、顔を伏せたままだ。
「……こんなに立派な箱なんだから、お話は中を見てからでいいでしょう?」
肩で弾む巻き毛を払い、義妹は箱の蓋に手をかけた。蓋は拍子抜けするほど軽く上がる。客へ向けて持ち上げた手が、そのまま止まった。
中にあるのは、未払いの控えだけ。灯りの当たる箱の底まで見えて、衣装の布地は端さえない。祝客の誰かが、息をのむように呟く。
「まあ……空っぽですわ」
「えっ……わたしの衣装は!?」
私は添付の控えを手に取った。支払確認より先に箱の返送を命じられたため、未払いの衣装は店で保管している、とある。
紙を戻すと、義妹が箱の前から私を見た。客の視線もそれを追い、さっきまでの話し声が途切れる。
「お姉様が払ってくれれば済むでしょう? 皆さまの前で、わたしに恥をかかせないで!」
「なぜ、注文していない私が払うのですか? 皆さまの前ですから、理由もはっきり伺います」
義妹の指が、蓋の縁へ食い込む。私は彼女の注文の控えを、客にも見える高さに上げた。
「だって、姉妹なのよ! お父様の家にいたんだから、家のお金で揃えてくれたっていいでしょう!?」
「父の財産と、私の持参金は別です。家族というだけで、支払人を私へ替えることはできません」
「そんな言い方、ひどい! お姉様が止めたせいで、わたしだけ笑われるのよ!」
私は空の箱から義妹へ目を戻す。彼女の名がある注文紙を、その手元へ置いた。今度は私が、返事を待つ番だ。
「私が止めたのは、承諾していない請求です。注文したあなたから、支払元をお答えください」
声は震えなかった。隣の夫は口を挟まずにいてくれて、その静かな気配に、私はもう少し背筋を伸ばす。
ヴァルトラウト様が箱へ歩み寄り、控えを取り上げた。息子の袖を引き、継母と父へ向き直る。
「……別にご用意された持参財が入ると伺っていたのに、衣装代は伯爵様からではないのですか?」
「継娘の婚約を妨げるつもりはありませんが、私が衣装代を出す約束も、娘の財を使うことへの同意もしておりません」
継母は父を見上げた。笑って娘を示していた手が、行き場をなくしている。
「でも、フィリベルト様が、お姉様の持参金で返済を済ませて、残りで揃えるっておっしゃったの!」
フィリベルトが義妹を振り返り、艶のある金髪が乱れた。母の手にある控えへ目を走らせてから、ようやく唇が開く。
「その金は、うちへ入る予定だったんだ! 予定で話しただけだ!」
届くはずの私の持参金を、借金の返済にも義妹の衣装にも当てにしていたのだ。
母の笑顔が消えた。息子へ向けた手には、衣装を返してもらえない理由を記した紙があり、その端がかすかに揺れている。
「では、今この衣装代を払えるお金は、どちらにありますの?」
フィリベルトは母に答えず、私へ向き直った。
「……お前が払えば、済む話だろう!」
「私の持参金は、私の返事でしか動きません」
義妹が蓋を下ろしかけても、母はまだ控えを読み終えない。祝いに用意されていた客の手が、あちこちで膝へ下りていった。
私は公爵へ退出を告げる。隣へ来た彼と歩き出すと、客が私たちのために道を空ける。
「私の返事は、店へ伝えたとおりです。支度のご相談は、注文した方とお願いします」
夕方、公爵邸の玄関には家令が待っていた。私たちが馬車から降りると、預かった便りを手に進み出る。ひと息つきかけた私の前で、紙がかすかに鳴る。
「ヴァルトラウト様から、奥様宛てのお手紙が届いております」




