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結婚式の朝に戻ったので、花婿を替えます ~夫に殺された私が選んだのは、私の葬儀にただ一人来た人でした~  作者: 月城 友麻


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8/12

8. 帳場で会った青年

 二十日目、一月十日。王都の商会で、私は薬師の帳面から控えたネーレという名を、ボニファーツへ示した。名を書いた紙片が、指先でかすかに鳴る。薬師も、使いが記す名義としか知らず、本人の顔や家は分からないという。


「取引先や、贈答先の控えにはありませんか?」


「どちらにも見当たりません。私めの覚えにもない名でございます」


 白い房状の眉を寄せ、番頭が名の一覧を戻す。隣の公爵も、該当欄を確かめた。空いた欄に、窓の淡い光だけが落ちている。


「そうか、知らない名なんだな」


「はい、でも、帳面に残った名は消えませんから、いつか、きっと持ち主に届きます」


 今日はほかにも、消される前に確かめておきたい紙がある。


 一周目の今日、古い取引の控えを廃棄すると告げられた。私が帳場へ着いたときには、保管棚はもう空。不要な紙を整理しただけだと言う夫の声まで、まだ耳に残っている。


 私は保管目録を開いた。乾いた紙から、懐かしいインクの匂いが立つ。侯爵家との取引の綴りは、目録にある分が棚にも揃っていた。


「この綴りは、届いた紙も商会の控えも、まとめて残してください」


「はい、傷まぬよう、覆いも掛けてございます」


 番頭は胸を張る。座ろうとした私の手にも、なぜか布の端が触れた。


 椅子まで、きっちり包まれている。背もたれの形に布を押さえ、私は番頭を見た。


「ふふっ、今日は座って紙を読みたいのに、私の席まで保管なさるのですか?」


「おお、お嬢様がまだお使いになる椅子まで……少々お待ちを!」


 番頭が慌てて布を取る。公爵が横で声を立てて笑うと、番頭は何もない座面までせっせと払った。


「旦那様、お笑いになりますな」


 番頭は取った布を抱え直す。


「お嬢様の椅子は、私めにとって一番の宝でございます」


「ははっ、では宝の隣に座らせてもらおうか」


「ふふっ、宝が二つに増えましたね」


 私は腰を下ろし、布のなくなった座面の硬さを確かめた。窓に映る赤茶の編み髪の向こうへ、店の者が客を案内してくる。


 来たのは侯爵家の使いだった。差し出された紙には、フィリベルトとベルナデッテの名が並んでいる。


「フィリベルト様とベルナデッテ様のご命令です。侯爵家との古い取引の控えは、すべて捨てていただきます」


「こちらの控えを捨てる権限は、どなたがお二人にお与えになりましたか?」


「侯爵家に関わる紙ですので、こちらで処分を――」


 使いの手が綴りへ伸びる。私は閉じた目録をその前へ置いた。机を打つ硬い音が、帳場に響く。


「そちらが差出人でも、商会で保管している紙を、ご命令のひと言で持ち去れるのですか?」


「すべて持ち帰るようにも仰せですのに、そのようなお返事では困ります!」


 番頭がさっと綴りを持ち上げた。紙の角が使いの指先を離れ、商会の棚へ戻っていく。


「お嬢様から保存のご指示を頂いております」


「妻の質問に、まだ答えてもらっていないな」


 公爵の低い声に、使いの手が引っ込んだ。持って来た紙を折り直す指がもつれ、口元が引きつる。


「私は、そう伺っただけでして……」


「では、紙はここに残しますので、控えの保管は商会が決めるとお伝えください」


 使いが去っても、棚の綴りは減っていない。詰めていた息を吐くと、番頭が見積もりをそっと私の前へ戻した。


 十年前の取引の紙だ。客の家名はノイエンドルフで、青年の個人名はどこにもない。


 数量の脇には、小さな字で訂正が添えてあった。納品の控えから正しい数を写した、幼い私の字。指でなぞると、紙に残る筆圧の凹みがかすかに引っ掛かる。


「ノイエンドルフ家……公爵様のお家にも、この書き損じを直した紙が残っているのですか?」


「ああ、私の書斎にあるよ」


 顔を上げると、公爵は見積もりへ目を落としている。まっすぐな眉の下で、視線が訂正跡をゆっくりたどった。


「えっ、では、見せていただけるのですか?」


「ああ、整理を待ってもらったが、今日は君を招きたい」


 彼は棚の綴りへ目をやる。


「その一枚は、番頭に断って借りていこうか」


 私が頷くと、彼は先に席を立った。待っていた扉を、今日は本人のほうから開けてくれる。借りた紙を抱える腕に、つい力が入る。


       ◇


 午後、公爵は自分の鍵で書斎を開け、私と、廊下で待っていたハイディを中へ入れた。


 冷えた紙と革の匂いが、部屋の奥から流れてくる。仕事机の脇には紙を重ねた棚と、画の枠。扉の内側で足を止め、私は公爵へ向き直る。


「初めてお話しくださった借りのことを、今日は公爵様のお口から聞かせてください」


「喜んで」


 扉が閉まり、鍵は彼の手に戻った。ハイディが跳ねた黒い短髪を揺らし、画の前へ進む。


「義姉上、兄上が誰にも見せないこの画、商会の帳場だよ!」


 机と見積もりを囲む人々の中に、少女がいる――。


「あれ……?」


 そう、それは幼い私だった。青年の顔を見ようとした途端、公爵が紙でそこを隠しかけた。


「これが兄上だよ!」


「はぁ、余計なことを……」


「あははっ、兄上、耳まで赤い!」


 私は画の横へ回り、今の夫の顔と並べて見る。隠そうとした手がゆっくり机へ下りた。


 彼が別に保管していた訂正見積もりを出す。商会の控えと並べると、数量を直した箇所が同じ位置にあった。直して出し直した数字の横棒は、どれも終わりが小さく上を向いている。誓約書で見た夫の署名と、同じ払いだ。


 あの帳場に立っていた青年が、目の前の夫だった。


 画の枠へ目を戻す。九歳の私の向かいで書類を握る青年の顔に、今ようやく名前が重なる。


「えっ、あのときお名前も伺わずにいた方が、若き公爵様だったのですか?」


「家の代理を務める初仕事で、売る荷の数を多く書けば代金を増やせると考えたんだ」


 言葉が切れ、紙を押さえる指先に力がこもる。


「……恥ずかしい話だよ」


 公爵は訂正の横へ指を置いた。画の顔を隠しかけたときとは違う、苦い笑みが口元に浮かぶ。


「私が直してお返しした、この見積もりを……なぜ、ずっと残しておかれたのですか?」


「私の水増しを書き損じにして、直す機会をくれた。商会に損をさせず、皆の前で嘘つきにもならずに済んだ。あのとき守られた面目が、君への借りなんだ」


 彼の指が、私の小さな訂正の手前で止まった。


「九つの私は、ただ数が合わないのが気持ち悪かっただけなのに、こんなに大事に……」


「数が合わないのが嫌だったという、その一言に救われたんだ」


 彼は紙から目を上げ、まっすぐに私を見る。


「君が覚えていなくても、私は覚えているよ」


 私の字の脇には、彼が直して出し直した跡。見比べているうちに、紙を挟んだ距離が少し縮まった。彼自身の手で正した紙も、商会の控えも、今ここにある。


「お話しくださって、嬉しいですわ……」


 私は画へ視線を移した。


「では、この画も、ご自分でお求めになったのですか?」


「十八歳のあの年に頼んだ、帳場改装の記念画の写しだよ」


 彼は画と机を交互に見る。


「机の脇に置けば、次に嘘を書こうとしたとき、自分の顔が見える」


 胸の奥に、じわりと温かさが広がる。忘れていた九つの日の一行を、この人は自分の間違いを忘れないために、机の脇に置いていたのだ。


 公爵が画の青年を指す。隠しかけた顔を自分で示し、今度は口元をほころばせた。


「ははっ、ようやく、守ってくれてありがとうと言えるよ」


「はい、今のお言葉、ちゃんと受け取りました」


 私は見積もりを彼の側へ揃える。伏せる紙のなくなった画を、ハイディが兄の脇から覗いた。


「ここまで話したら、あれも言っていいんだね!」


 私は少女へ顔を向ける。兄の口が動くより早く、彼女の声が静かな書斎に響いた。


「兄上、義姉上の葬式の夢を毎晩見てたんだよ」



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