8. 帳場で会った青年
二十日目、一月十日。王都の商会で、私は薬師の帳面から控えたネーレという名を、ボニファーツへ示した。名を書いた紙片が、指先でかすかに鳴る。薬師も、使いが記す名義としか知らず、本人の顔や家は分からないという。
「取引先や、贈答先の控えにはありませんか?」
「どちらにも見当たりません。私めの覚えにもない名でございます」
白い房状の眉を寄せ、番頭が名の一覧を戻す。隣の公爵も、該当欄を確かめた。空いた欄に、窓の淡い光だけが落ちている。
「そうか、知らない名なんだな」
「はい、でも、帳面に残った名は消えませんから、いつか、きっと持ち主に届きます」
今日はほかにも、消される前に確かめておきたい紙がある。
一周目の今日、古い取引の控えを廃棄すると告げられた。私が帳場へ着いたときには、保管棚はもう空。不要な紙を整理しただけだと言う夫の声まで、まだ耳に残っている。
私は保管目録を開いた。乾いた紙から、懐かしいインクの匂いが立つ。侯爵家との取引の綴りは、目録にある分が棚にも揃っていた。
「この綴りは、届いた紙も商会の控えも、まとめて残してください」
「はい、傷まぬよう、覆いも掛けてございます」
番頭は胸を張る。座ろうとした私の手にも、なぜか布の端が触れた。
椅子まで、きっちり包まれている。背もたれの形に布を押さえ、私は番頭を見た。
「ふふっ、今日は座って紙を読みたいのに、私の席まで保管なさるのですか?」
「おお、お嬢様がまだお使いになる椅子まで……少々お待ちを!」
番頭が慌てて布を取る。公爵が横で声を立てて笑うと、番頭は何もない座面までせっせと払った。
「旦那様、お笑いになりますな」
番頭は取った布を抱え直す。
「お嬢様の椅子は、私めにとって一番の宝でございます」
「ははっ、では宝の隣に座らせてもらおうか」
「ふふっ、宝が二つに増えましたね」
私は腰を下ろし、布のなくなった座面の硬さを確かめた。窓に映る赤茶の編み髪の向こうへ、店の者が客を案内してくる。
来たのは侯爵家の使いだった。差し出された紙には、フィリベルトとベルナデッテの名が並んでいる。
「フィリベルト様とベルナデッテ様のご命令です。侯爵家との古い取引の控えは、すべて捨てていただきます」
「こちらの控えを捨てる権限は、どなたがお二人にお与えになりましたか?」
「侯爵家に関わる紙ですので、こちらで処分を――」
使いの手が綴りへ伸びる。私は閉じた目録をその前へ置いた。机を打つ硬い音が、帳場に響く。
「そちらが差出人でも、商会で保管している紙を、ご命令のひと言で持ち去れるのですか?」
「すべて持ち帰るようにも仰せですのに、そのようなお返事では困ります!」
番頭がさっと綴りを持ち上げた。紙の角が使いの指先を離れ、商会の棚へ戻っていく。
「お嬢様から保存のご指示を頂いております」
「妻の質問に、まだ答えてもらっていないな」
公爵の低い声に、使いの手が引っ込んだ。持って来た紙を折り直す指がもつれ、口元が引きつる。
「私は、そう伺っただけでして……」
「では、紙はここに残しますので、控えの保管は商会が決めるとお伝えください」
使いが去っても、棚の綴りは減っていない。詰めていた息を吐くと、番頭が見積もりをそっと私の前へ戻した。
十年前の取引の紙だ。客の家名はノイエンドルフで、青年の個人名はどこにもない。
数量の脇には、小さな字で訂正が添えてあった。納品の控えから正しい数を写した、幼い私の字。指でなぞると、紙に残る筆圧の凹みがかすかに引っ掛かる。
「ノイエンドルフ家……公爵様のお家にも、この書き損じを直した紙が残っているのですか?」
「ああ、私の書斎にあるよ」
顔を上げると、公爵は見積もりへ目を落としている。まっすぐな眉の下で、視線が訂正跡をゆっくりたどった。
「えっ、では、見せていただけるのですか?」
「ああ、整理を待ってもらったが、今日は君を招きたい」
彼は棚の綴りへ目をやる。
「その一枚は、番頭に断って借りていこうか」
私が頷くと、彼は先に席を立った。待っていた扉を、今日は本人のほうから開けてくれる。借りた紙を抱える腕に、つい力が入る。
◇
午後、公爵は自分の鍵で書斎を開け、私と、廊下で待っていたハイディを中へ入れた。
冷えた紙と革の匂いが、部屋の奥から流れてくる。仕事机の脇には紙を重ねた棚と、画の枠。扉の内側で足を止め、私は公爵へ向き直る。
「初めてお話しくださった借りのことを、今日は公爵様のお口から聞かせてください」
「喜んで」
扉が閉まり、鍵は彼の手に戻った。ハイディが跳ねた黒い短髪を揺らし、画の前へ進む。
「義姉上、兄上が誰にも見せないこの画、商会の帳場だよ!」
机と見積もりを囲む人々の中に、少女がいる――。
「あれ……?」
そう、それは幼い私だった。青年の顔を見ようとした途端、公爵が紙でそこを隠しかけた。
「これが兄上だよ!」
「はぁ、余計なことを……」
「あははっ、兄上、耳まで赤い!」
私は画の横へ回り、今の夫の顔と並べて見る。隠そうとした手がゆっくり机へ下りた。
彼が別に保管していた訂正見積もりを出す。商会の控えと並べると、数量を直した箇所が同じ位置にあった。直して出し直した数字の横棒は、どれも終わりが小さく上を向いている。誓約書で見た夫の署名と、同じ払いだ。
あの帳場に立っていた青年が、目の前の夫だった。
画の枠へ目を戻す。九歳の私の向かいで書類を握る青年の顔に、今ようやく名前が重なる。
「えっ、あのときお名前も伺わずにいた方が、若き公爵様だったのですか?」
「家の代理を務める初仕事で、売る荷の数を多く書けば代金を増やせると考えたんだ」
言葉が切れ、紙を押さえる指先に力がこもる。
「……恥ずかしい話だよ」
公爵は訂正の横へ指を置いた。画の顔を隠しかけたときとは違う、苦い笑みが口元に浮かぶ。
「私が直してお返しした、この見積もりを……なぜ、ずっと残しておかれたのですか?」
「私の水増しを書き損じにして、直す機会をくれた。商会に損をさせず、皆の前で嘘つきにもならずに済んだ。あのとき守られた面目が、君への借りなんだ」
彼の指が、私の小さな訂正の手前で止まった。
「九つの私は、ただ数が合わないのが気持ち悪かっただけなのに、こんなに大事に……」
「数が合わないのが嫌だったという、その一言に救われたんだ」
彼は紙から目を上げ、まっすぐに私を見る。
「君が覚えていなくても、私は覚えているよ」
私の字の脇には、彼が直して出し直した跡。見比べているうちに、紙を挟んだ距離が少し縮まった。彼自身の手で正した紙も、商会の控えも、今ここにある。
「お話しくださって、嬉しいですわ……」
私は画へ視線を移した。
「では、この画も、ご自分でお求めになったのですか?」
「十八歳のあの年に頼んだ、帳場改装の記念画の写しだよ」
彼は画と机を交互に見る。
「机の脇に置けば、次に嘘を書こうとしたとき、自分の顔が見える」
胸の奥に、じわりと温かさが広がる。忘れていた九つの日の一行を、この人は自分の間違いを忘れないために、机の脇に置いていたのだ。
公爵が画の青年を指す。隠しかけた顔を自分で示し、今度は口元をほころばせた。
「ははっ、ようやく、守ってくれてありがとうと言えるよ」
「はい、今のお言葉、ちゃんと受け取りました」
私は見積もりを彼の側へ揃える。伏せる紙のなくなった画を、ハイディが兄の脇から覗いた。
「ここまで話したら、あれも言っていいんだね!」
私は少女へ顔を向ける。兄の口が動くより早く、彼女の声が静かな書斎に響いた。
「兄上、義姉上の葬式の夢を毎晩見てたんだよ」




