7. 薬師の帳面に残る名
「え……公爵様。今、エーリカと呼んでくださいましたね。ふふっ」
公爵の口元がほころんだ。呼ばれた名が耳の奥に残り、揺れる馬車の音まで遠く聞こえる。
父のほかにも、この名をこんなに温かく呼ぶ声がある。一周目の私は、知らないまま死んだ。今はその声の主が、手を伸ばせば届くところにいる。
「それで、次に伺いたい所があるのですが……」
「ああ、御者に伝えよう」
公爵はもう窓へ向きかけている。その袖を目で追い、私は膝の上からそっと手を上げた。
「ふふっ、まだ行先をお話ししていないのに……」
「……では、座って君の用件から聞こう」
公爵が私へ向き直って、腰を落ち着ける。私は膝の上で手を重ね、口にする言葉を選んだ。
「薬師を訪ねることになりそうです」
重ねた指に力を込め、私は顔を上げる。
「怖いので……そのときは、隣にいていただけますか?」
「……。もちろん、喜んで」
今度は、私が言い終えるまで待ってくれた。息をほどき、菓子の照会を待っていることも伝える。
◇
十七日目、一月七日の朝。窓の霜が、暖炉の熱で縁から溶けていく。ボニファーツが公爵邸へ届けてくれたのは、菓子屋の控えと返答だった。
白い房状の眉を寄せた番頭が、薬包の店印を写した紙も広げる。注文主にも受取人にも、ベルナデッテ本人の名があった。
「ご本人が召し上がるためと、持ち込まれた薬を菓子へ混ぜるよう頼まれたそうでございます」
「ご本人用として作らせた品を、私への土産にしたのですね」
「お嬢様……まさか、お口には?」
「いいえ、公爵様が鍵のかかる棚へ預けてくださったので、一口も食べていません」
「おお……それは何より」
番頭は胸へ手を当て、長く息を吐く。
「私め、寿命が縮みましたぞ」
一周目の今日、私は薬を飲むよう迫られ、薬包の束を渡された。包みの店印も、補充に向かう使いへの『北門の脇』という道案内も、忘れていない。
舌の奥に、あの苦さがよみがえる。唇を結び、私は今ここにある紙へ目を戻した。
記憶の中の印と、控えの印が重なる。指の腹で紙の端を押さえ、番頭へ店の場所を確かめる。
「北門脇のお店で間違いありませんか?」
「はい、菓子屋もその薬包にあった印を写して寄越しております」
訪ねる場所が、目の前の品を手がかりに決まった。公爵が馬車を呼ぶと、庭から戻ったハイディが戸口へ顔を出す。
「兄上、あたしとの稽古は急いで終わらせたくせに、義姉上の話はそんなにゆっくり聞くんだね!」
「途中で聞き損ねては困るからな」
「うししし、あたしには早く言えって言うのに!」
跳ねた黒い短髪を揺らし、彼女は兄を見上げた。
「ふふっ、稽古の続きは、また明日お相手してあげてください」
「……ああ、明日は最後まで付き合おう」
私は家令へ、棚の鍵を手渡す。金属の冷たさが、指先に残った。
「ハイディさん、今日はお見送りをお願いします」
私は番頭にも目を向ける。
「番頭さんも、控えの写しを実家へ残しておいてください」
棚の硝子にそっと手を伸ばす――赤茶の編み髪が映る。家令は私の頷きを確かめ、青い包みを閉じたまま運び出した。
◇
北門脇の店へ入ると、乾いた草と蜜蝋の匂いが、冷えた鼻先をくすぐる。
私はざらつく青い紙の包みを卓へ置いた。窓を背にした公爵が隣へ立つと、帳面を出しかけた薬師が、影になった手元へ目を落とす。
「あの、公爵様、そこではお客様の手元が暗くなります」
「……遮ってしまって、すまない」
まっすぐな眉が上がり、公爵は慌てて横へ動いた。けれど、そちらにも品を並べた棚がある。
「ふふっ、並んで座れるこちらの小椅子はいかがですか?」
「ああ、ここなら君の手元も見えるな」
長い脚を畳んで、夫が膝を揃える。薬師の手に光が戻り、私も包みから指を離した。袖が触れそうな近さに、ようやく肩の力が抜ける。
入口の鈴が、鋭く鳴った。振り返ると、ベルナデッテが自分の使いを連れて入ってくる。
逆光の小椅子にいる私たちへ、彼女は目も向けない。薬師だけを見て、靴音を急がせて卓へ来た。
「菓子屋から照会が来たの!」
義妹は卓の前で足を止める。
「あの注文はもう取り消して、帳面の名も消して!」
薬師はすぐには答えず、帳面を開いた。婚礼前の十二月二十日、その頁の買い手の欄には彼女の署名がある。
私は菓子屋の注文控えを、その隣へ置いた。肩で弾む巻き毛を払った義妹の目が、紙の間をせわしなく走る。
紙の端から私の指へ、袖へ、顔へ。視線がたどり着くなり、彼女の頬がぴくりと引きつった。
「ふふっ、わたしがこの店で薬を買ったなんて、お姉様の勘違いでしょう?」
「ご自分で書いた名まで、私の勘違いになさるのですか?」
署名を示す私の爪が、かすかに紙を擦る。
「筆の癖も、菓子屋への注文と同じです」
義妹の笑みが止まる。彼女は署名を覆うように、卓の縁へ手を滑らせた。
「だって、自分のための薬なんだから、お姉様に何も言われることじゃないでしょう!」
「では、茶会であなたが私に手渡したこの菓子に混ぜさせたのも、同じ薬ですね?」
控えを、義妹の目の前へ滑らせる。
「どうぞ、注文の控えをご覧ください」
「取り消すって言ってるんだから、要らない注文の記録だって要らないでしょう!?」
私は控えの角を押さえた。義妹の指が届く前に、薬師の帳面との間を空ける。
「いいえ、これからの注文を取り消しても、買った記録は消えません!」
私は顔を上げ、義妹をまっすぐ見る。
「私に渡した品まで、消せるお話ではありませんわ」
あの杯の向こうでも、この子は同じ目をしていた。けれど今は、その目から目をそらさない。
「公爵様も何か言って、お姉様をお止めになって!」
「君は妻の問いに、まだ答えていない」
薬師が帳面を自分の側へ戻した。義妹は使いを振り返り、受け取って、と唇だけをせわしなく動かす。
「あの、私は帳面を預かるようにと……」
「お渡しできません!」
薬師は帳面の上へ手を広げる。
「帳面を消せとは、困ります!」
私は青い紙の角を開く。薬師は中の菓子に顔を寄せ、苦い匂いを確かめた。
「これは、眠れない方へお売りするうちの眠り薬ですが、別の方へ飲ませる相談は受けていません」
「買い手の名は、いつもご本人に記していただくのですか?」
「はい、取り違えを防ぐため、この頁もそちらのお客様がご自分でお書きになりました」
これで確かめられたのは、ベルナデッテが、あの菓子に混ぜた薬を買ったことだけだ。
私は青い包みを閉じた。夫も買い手の欄から私へ目を戻し、視線が重なる。
「知らずに売ったとはいえ……心配でなりません」
「でも、売った記録を守ってくださったのは、あなたです」
卓越しに、私は薬師へ頭を下げる。
「帳面は、このまま保管していただけますか?」
「ええ、確かめに来てくださって、よかった」
薬師は私へ頷き、帳面の上に手を置く。使いは手を下ろし、ベルナデッテの顔をうかがった。
義妹の顔から、笑みが一枚ずつ剥がれていく。唇だけが、取り残されたように笑いの形を保っていた。
「お姉様なんて……くっ! 帰るわ!」
帳面も控えも、卓に残っている。義妹は使いと空手で店を出ていった。
「……怖くはなかったか?」
「ええ、怖かったですけれど……隣に座っていてくださったので、手は震えませんでした」
薬師が別の頁を重ねかける。ちらりと見えた同じ薬の名に、今朝思い出した薬包の束が引っ掛かる。
「あ……すみません、その頁も見せてください」
戻してもらった頁には、十一月十六日と十二月十六日の購入が並んでいた。どちらも同じ眠り薬で、買い手の名も同じだ。
ネーレ。
取引先としても、贈り物の送り主としても、私には覚えのない名だ。指先だけが、紙の上で冷えていく。
「同じ薬を買い続けている、この方はどなたですか?」




