6. 妻は私が口説いた
家令の差し出す呼出しの紙を、私は玄関で開いた。戸口に差す冬の日の中で、薄い紙の端が震えている。訴えの根拠は、父の同意の署名。
「……父が認めていない結婚だと、おっしゃるのですね?」
「はい、署名のある紙も示されたと、こちらにございます」
父は祭壇で私の望みを聞き、新しい花婿へ頷いてくれた。あの瞬間、ようやく息ができた気がしたのだ。紙の切れ端で、あの顔まで消されてたまるものか。
指先は冷えていくのに、胸の奥だけが熱い。一周目の私なら、この紙を夫に預けて黙っていただろう。けれど私は、紙を持つ手を下ろさなかった。
「公爵様、私が選んだ結婚ですから、皆さまの前でも、まず私に説明させてください」
「喜んで」
彼は呼出しの日を確かめ、家令へ顔を向ける。証人と書面を運ぶ馬車の手配が、その場で決まった。
「君の代わりに話すためではなく、君の声が届くよう、席を整えるだけだ」
「……ありがとうございます」
私は紙の端を持ち直し、彼を見上げる。
「隣にいてくだされば、ちゃんと話せます」
私は父と司祭、それに式にも列席した茶会の主催者へ、出席を頼む便りを書いた。司祭には、誓約書の原本もお願いする。便箋を押さえる指は、もう震えていない。
◇
婚礼から十四日目、一月四日の朝。玄関の鏡で、私は赤茶の編み髪を整えた。白い息が鏡をかすめ、足の裏まで床の冷たさが伝わってくる。外套も手袋も揃い、あとは馬車へ乗るだけだ。
「あっ、兄上、外套忘れてるよ! 義姉上のは全部見たのに! きゃははは」
外套掛けの前で、ハイディの跳ねた黒い短髪が揺れた。指差す先には、置き去りの黒い外套。
「……お前は一言多いんだよ」
「ふふっ、あたしが見てなきゃ、そのまま王宮まで行ってたよ!」
私は掛け金から外套を外す。差し出すと、公爵はまっすぐな眉を少し下げた。
「公爵様の支度も、私にさせてくださると助かりますわ」
「ありがとう。では、頼む」
襟を整える間、彼は私の指が届く高さまで身をかがめてくれる。毛織の匂いが近くなり、指の背に襟の下の温かさが伝わる。一周目の一年、夫の襟に触れた覚えは一度もない。折り目を直すだけなのに、指が少しためらった。
「うししし、兄上、支度されてるときは大人しいんだね!」
「……聞こえているぞ」
私が離れると、今度こそ外套を着た夫が扉を開ける。冷気に肩をすぼめ、私はその隣へ並ぶ。
王宮の客間では、王の名代を前に父と司祭、茶会の主催者が席に着いた。高い窓からの光が、向かいのフィリベルトの顔まで白く照らしている。
「公爵夫人、訴えへのお答えは、ご自身でなさるのですね?」
「はい、夫の隣で、私の口からお話しいたします」
艶のある金髪を払った彼が、見覚えのある抜き書きを卓へ置いた。紙がこすれる音に、膝がこわばる。署名の周りだけを写した、あの紙だ。
一周目の今日、この抜き書きを客に示され、父と私は婚姻を押しつけたことにされた。夫は困ったように笑い、客は私の返事より先に父を見る。飲み込んだ言葉まで、喉に戻ってきそうだ。
喉の奥が、あの日と同じ形に詰まる。けれど今日は、司祭が運んだ原本も手の届くところにある。私は名代の促しに応じ、抜き書きの横へ誓約書を広げた。
「君の父上が同意したのは僕との結婚だ。公爵との婚姻は無効だ!」
抜き書きから消えているのは、父の署名が何に同意したかを示す見出しだ。
「『娘の婚姻への同意』。省いたこちらもお読みください。あなたのお名前は、どこにありますか?」
「おい、父親の署名の重みも分からず、お前が勝手に相手を替えていいはずがない!」
私は父の署名を示し、その下の欄へ指を移した。父が同意する欄と、私たちが誓って書く欄は別だ。
「父の同意を、私の誓いにすり替えないでください!」
私の指は、その境で止まる。
「私が公爵様と誓い、署名したのはその下です」
「公爵という地位が欲しくて、客の前なら逃げられないと結婚を押しつけたんだろう!」
彼の声に、卓の向こうで父が腰を浮かせた。私は父へ頷き、元の花婿へ向き直る。
「私が選びました!」
私は原本から指を離し、まっすぐ相手を見る。
「公爵様もご自分で誓ってくださったのに、私たちの返事をあなたの都合で替えないでください!」
「伯爵、式でご覧になったことをお聞かせください」
名代の声に、父は浮かせた腰を下ろした。私を見てから、ゆっくりと口を開く。
「娘の望みを聞き、公爵との婚姻に頷いたのは、この私です」
父は名代から目をそらさない。
「あの日も今も、娘に違う答えを求めてはいません」
帳場で値を告げるときと同じ、揺れない声だ。膝の上で固めていた拳がほどけ、爪の跡がじんと温かくなる。
「私も双方のご意思を確かめ、お二人がそれぞれ誓って署名された後、皆さまの前で成立を宣言しております」
司祭が持ち上げた原本に、窓の光が重なる。父と私、公爵の署名が、同じ紙の上にくっきりと並んだ。
「私もその場で、公爵様が花嫁の手を取って、ご自分から祭壇へ歩かれるのを拝見しましたよ」
茶会の主催者の声は、フィリベルトにも届く。彼は誰も触れていない抜き書きの角を押さえた。
「くっ……それでも、爵位を狙った女に公爵が付き合わされたことは――」
「妻は私が口説いた」
「……え?」
私は隣の夫を見上げる。彼は原本から目を上げた。私の前へ出ることなく、肩を並べたままで。
「求婚したのは妻だ。だが誓いのあと、一生かけて、ゆっくり決めてくれと願ったのは私だ」
「えっ?! あの言葉で、私を口説いていらしたのですか?」
「ああ、今もその続きのつもりでいる」
開きかけた口から、返事が出てこない。あの言葉が、今さら違う響きで胸に落ちた。名代が小さく笑い、口元へ手を添える。
「ふふ、続きはお帰りの道でどうぞ」
私は慌てて扇を上げた。その縁越しに、父まで口元を緩めているのが見える。頬に触れる扇の骨まで熱くなりそうで、とても顔を出せない。
名代は笑みを収め、フィリベルトへ原本を示す。抜き書きを押さえる彼の指が、紙に深いしわを作る。
「父君の同意と双方の自発的な誓いを確かめましたので、婚姻を無効とする訴えは退けます」
フィリベルトは父を見て、主催者へ視線を移した。どちらからも助ける言葉はなく、客間は静まり返っている。
「ローデンシュタイン様、お返事は?」
名代が待っても、彼の唇は開かない。私たちが立つと、司祭が誓約書を丁寧に包み直した。
「エーリカ、いい声だった」
「お父様が、あの日頷いてくださったからです」
帰りの馬車は夫婦だけ。車輪が石畳を刻む音に包まれ、私は扇を畳んだ。細かな揺れに身を任せ、向かいの公爵へ顔を上げる。
「私を支えてくださって、ありがとうございます」
「証明したのは君だ。私は、私の望みを話しただけだよ」
王宮の門が窓の後ろへ遠ざかる。膝の上で握り直していた扇を、私はようやく脇へ置いた。指の跡だけが、手のひらに残っている。
「それも……嬉しかったです」
窓へ逃がしかけた目を、私は彼へ戻す。
「隣で聞いていてくださると、ちゃんと声が出ます」
「声が震えたのは、最初の一言だけだったな」
「えっ……気づいていらしたのですか?」
「隣にいたからな」
公爵がこちらへ顔を向けた。返事を急かさないその目を、私も見つめる。さっきまで出ていた言葉が、今はうまく見つからない。
「エーリカ。君と家へ帰れるのが、嬉しい」




