10. あなたも覚えているのですか
私は家令から封書を受け取った。指に触れる紙は硬く、封は閉じたままだ。告げられた差出人の名だけで、指先から温度が引いていく。一周目に義母から受けた仕打ちは、まだあちこちに心の傷として残っている。
「支度金のご相談ですが、急ぎのお返事は要らないと、お使いから伺っています」
用件は、息子たちの支度金だった。封書を握り込む前に、私は公爵へ向き直る。
「約束の夜、私の秘密をお話しした後で、一緒に読んでください。お金の相談も、自分一人ではとても……」
「ああ、君の話を最後まで聞いてから、一緒に開けよう」
私は封を切らず、家令へ預けた。一周目の私なら、その夜のうちに一人で開け、誰にも言わずに胸へしまっただろう。今は、隣で読んでほしい人がいる。
◇
二十六日目、一月十六日の夕方。侯爵夫人の使いが返事を求めて来た。早い夕闇が雪の庭を青く染め、窓辺に冷たい光が残っている。
客間で公爵と並ぶ私へ、使いは母の気遣いから話し始めた。
「お疲れを案じて、お慰めの手紙を、と夫人から伺っております」
「支度金のご用件を、お聞かせください」
使いが背筋を正す。膝の袋は口を開けたまま、こちらへ向けられている。
「フィリベルト様もベルナデッテ様も、奥様が支度金を負担なさるのをお待ちです。ヴァルトラウト様から、家族ですもの、あの子たちを安心させてちょうだい、と」
「私が支払いを承諾した記録は、お持ちですか?」
「いえ……本日、頂いて帰るようにと」
私は仕立屋へ送った返答の控えを出した。紙の擦れる音に、公爵も隣から同じ紙へ目を落とす。
「注文も支払いも承諾していません。支度金は負担いたしませんと、皆さまにお伝えください」
「ですが、どうかご家族へのお気遣いを……」
使いの指が袋の口に掛かる。私は金庫の鍵を出さず、返答を書いた紙だけを差し出した。
「いいえ、気遣いを理由に、ここに書いた私の返事を変えないでください」
使いの視線が、公爵へ移る。彼は私の紙を指し、それが妻の返事だと静かに添えた。
金も承諾も得られず、使いは空の袋を畳む。口をつぐんだまま、返答だけを持って帰った。
約した夜、書斎へ入ると、薪の匂いを含んだ暖気が頬に触れる。ハイディが椅子を整えていた。蝋燭の火が二つ、机の上で小さく揺れ、鏡には私の赤茶の編み髪が映る。
まだ封じたままの手紙を、私は机の端へ置いた。少女が兄の前の鏡を指す。
「うししし、兄上ったら、鏡向いて返事の練習してたよ!」
公爵がまっすぐな眉を寄せる。その手が鏡をさっと伏せた。跳ねた黒い短髪の少女は、今度は兄の秘密を言い足さず、扉へ向かいかける。
「ふふっ、鏡には難しいでしょうから、私がお話ししますわ」
「……練習は、もう要らないな」
「あたしは外で待つから、兄上、頑張って」
扉が閉まり、夫婦だけの部屋に薪のはぜる音が残る。向かいの椅子に腰を下ろし、私は握りしめた手を膝へ置いた。暖炉の熱は頬まで届くのに、指の関節は白いままだ。
「信じていただけないかもしれないと思うと……怖いのですが、最後まで聞いていただけますか?」
「喜んで」
公爵は封書にも扉にも目を向けない。話し始めるのを待つその目に、私は小さく頷いた。
「私は、フィリベルト様と結婚した一年を覚えています」
膝の上の指を、少しずつほどく。
「冬至の夜会で、あの方とベルナデッテに毒を飲まされて……死にました」
彼の指が、椅子の縁でぴたりと止まる。目を伏せそうになるのをこらえ、私はその顔を見つめる。
「その後に見た自分の葬儀では、父もいない席に公爵様だけがいて……それから、結婚式の朝に戻りました」
彼は席を立たない。それでも、話の続きを待つ目が初めて揺れた。
「あなたも覚えているのですか? 私が死んだ、あの一年を」
「覚えていない。だが、君の婚約が決まった夜から、君の葬儀に行く夢を見た」
婚約が決まったのは、式の三か月前。私だけが知っているはずの景色が、彼の夜にもあった。
「えっ……そんな夢を見ながら、私にはずっと黙っていらしたのですか?」
「ただの夢の話など、口に出せば狂人と思われるだろう?」
言葉が、そこでいったん切れる。彼は椅子の縁から手を離し、開いた掌に目を落とした。
「夢で分かるのは君の葬儀へ行くことだけで、日付も、死んだ理由も、関わった者も見えない」
膝の上で、その大きな手が固い拳に変わる。しばらくは、暖炉の音だけが部屋に響いた。
「……目が覚めるたびに、君がもういない気がして……怖かった」
「怖かったのは……私だけではなかったのですね」
公爵が顔を上げる。その目の赤さを見て、私は息を詰めた。
「では、今……夢のためではなく、公爵様ご自身は、私とどうなりたかったのですか?」
「二年前、再会した君に恋をした。帳簿を読むその目に、心を動かされたんだ。恩を返すだけでなく、君と生きたいと思った」
私が十七歳、彼が二十六歳の再会だ。彼はあの日の帳簿の置き場所まで、ゆっくり話してくれる。
「運賃の水増しを見抜いて働き手の取り分を守る……そんな君の声を、もっと聞きたくなったんだ」
私には、ただの帳場の仕事だ。彼の目には、それをする私が映っていたのだ。
「でも、話すのが怖くて礼に隠したまま、君のいない席では、何も伝えられなかったよ」
私の葬儀に立っていた人が、今は向かいで、私に話しかけている。胸の奥で固く結ばれていたものが、言葉を受け取るたびにほどけていった。
「理由を聞いたら……白い結婚の約束まで、変わってしまうのでしょうか?」
「安心していい。君が変えたいと言うまで、そのままだ」
彼は椅子を寄せることなく、言葉を続ける。
「部屋も別のままだし、触れるときも先に聞く」
私は、ゆっくり頷いた。向かいの席は、私が自分で返事を選べる距離にある。その距離を、遠いとは思わなかった。
「ユスティン様。私のために悲しんでくださって、ありがとうございます」
夫の唇が動き、そのまま止まる。返事を待っているのに、彼は何かを確かめるように私を見つめていた。
「ふふっ、あなたを呼んだのですから、お返事をいただけますか?」
「ああ、聞こえて……ちゃんと、聞こえているよ」
彼が照れた顔で頷く。蝋燭の明かりの中でも、耳の先まで赤いのが分かった。
「もう一度、呼んでくれるか?」
「手紙を読み終えたら、何度でも」
私は笑みを返し、机の端の封書を取る。封を切る音が、静かな書斎に響く。
日付は一月十三日、署名はヴァルトラウトだった。私を気遣い、食後に添え薬を飲むよう勧める、自筆の便りだ。
薬包の右角は、内へ折ってあった。茶会で見た指の動きと同じ折り方だが、私の目は手紙の文字へ引き戻される。
一周目の今日、慰めだと渡された薬包にも、食後と指図が書かれていた。書いた人も知らず、ただの服用の言いつけだと思い込む自分まで、はっきり浮かぶ。
「慰めの包み、補充の包み、最後の杯の前――薬だと説明された三度とも、この字の指図を読みました」
私は添え薬を閉じたまま、手紙の字を指す。『食』の終筆を丸く返し、『後』の終筆を右上へ短く跳ねる癖。
「最後は、夫の手元の包みに、食後、妻に冬至の杯を残さず飲ませること、とありました」
紙を指す指先が、その場から動かない。
「あの方からは口頭か使いで聞くばかりで、自筆を見るのは、これが初めてです」
手紙の文字は、あの杯を飲み切らせるよう命じた薬包と、同じ癖で跳ねている。
喉の奥に、冬至の杯の苦みがよみがえる。私は顔を上げた。この確信を聞いてくれる人が、今、目の前にいる。
「私を毒で殺すよう命じたのは、ヴァルトラウト様だったのですね」




