11. その袋は、働いた人へ
「ユスティン様。この手紙を預かってください。これからの返事も、一緒に考えていただけますか?」
「喜んで」
彼は迷わず立ち、書斎の机の奥にある引出しを開けた。鍵のかかる、小さな引出しだ。
私は自筆の手紙と、封を切っていない薬包を別々の包みに収める。紙越しの薬包は軽い。それでも手放す間際、指先だけがためらった。
夫は急かさず、それが収まるのを待っている。かちり、と鍵のかかる音がした。
「鍵は私が持つ。開けるときは、二人でだ」
「はい。……一人で持っていたら、夜ごとに開けてしまいそうです」
私は机に揃えられた便箋へ手を伸ばす。
「父に伝えるのは、お金を求められたことと、贈り物を口にしない用心だけにします」
父にも、まだ私の一年は話せない。頼りたい気持ちのまま打ち明ければ、継母や義妹を通じて、こちらの備えまで先方へ届いてしまう。
「家令には私から話す。侯爵家から届く飲み物と薬は、施錠棚へ分けさせよう」
「受け取ったお礼は送ります。飲んだとは書きません」
呼ばれた公爵家令は、私たちが確かめるまで誰にも出さないと、言葉を区切って復唱した。
「エーリカ。返事を書く間も、ここにいていい」
「はい。父への便りも、ここで書かせてください」
彼の隣に便箋を置く。ペン先はもう震えず、紙をかく音が静かな書斎に溶けていく。
◇
婚礼から三十五日目、一月二十五日の朝。赤茶の編み髪を低くまとめ直し、夫の隣で新しい手紙を読んだ。
ヴァルトラウト様は、疲れている私を休ませたいという。続けて、商会の賃金受取りを息子へ任せるよう、父と番頭へ取り次いでほしいとある。
「私が頼めば、父も認めるとお考えなのでしょうね」
「君は、どう返す?」
彼のまっすぐな眉が、こちらへ向く。答えを待つその顔を見てから、私は返事の便箋を引き寄せた。
「番頭と支払先を確かめます、と。私の署名は、父の承諾にはなりません」
「それでいい。優しい文面ほど、中身をよく読むことだ」
一周目の今日、両替の窓口にあったのは侯爵家宛ての受取控えだ。その脇で、荷運び頭は空の袋を握り、立ち尽くしていた。
私は番頭へ、賃金名簿と預り控えの手配を頼む。働いた人の確認は、荷運び頭にお願いした。
「兄上、義姉上に借りたペン、真ん中に飾ってる!」
扉からハイディが顔を出す。指さす先で、貸したばかりのペンがほかのペンを押しのけ、堂々と立っていた。
「飾ってない。すぐ返すんだよ」
「きゃははは! ほかのペン、みんな端っこに寄ってるのに!」
跳ねた黒い短髪が、扉の向こうへ引っ込んだ。軽い足音と笑い声は、もう玄関へ向かっている。
「では、お見送りをお願いします」
「任せて! ペンはあたしが見張っておくよ!」
「見張らなくていい」
王都倉近くの両替商には、格子越しの朝日が斜めに差し込んでいる。紙の匂いがこもる小さな店で、ボニファーツは紙と袋を天井へ届きそうなほど積み上げていた。
窓口の向こうで、店主がその山を見上げたまま首を傾げる。
「番頭さん、ここにご自分の窓口までお作りになるのですか?」
「袋の予備も揃っております。口紐の予備もこちらに」
白い房状の眉の下で、番頭の目はあくまで真剣だ。私は肩を揺らしながら、傾く袋の山を押さえた。
「ふふっ、今日は皆さんの分だけで足りますわ。残りは荷車へお願いします」
「おお、これでは払う場所がございませんな」
袋が減ると、ようやく名簿を広げる場所ができる。夫も私の隣に立ち、店主の説明に耳を傾ける。
「婚礼前に侯爵家から、息子様がまとめて受け取るという変更届をいただきまして」
「商会にも、確認していただけましたか?」
「……馴染みの届け紙で、つい確認を省いてしまいました」
「その確認を、今日ここで済ませましょう」
店主は唇を引き結び、奥からその紙を取り出した。
「ご婚礼の変更を知って支払いを止め、番頭さんへ問い合わせたのです。息子様にも保留は伝えてあります」
預り控えの払元は、父の商会だ。侯爵家の届けにだけ、違う受取人が書かれていた。
戸口の外には、前掛け姿の荷運びたちが列を作っている。足を踏み替える靴音が、かすかに聞こえた。
そこへフィリベルトが入り、ためらいもなく袋へ手を伸ばす。艶のある金髪の下で、口元だけが笑っていた。
「賃金より先に、僕たちの支度代を払ってもらおう」
「まあ、この袋を誰が受け取るか、ご存じですか?」
「荷運びだろう! 働き手なら、少しくらい待たせておけ!」
胸の奥がかっと熱くなり、袋を押さえた指に力が入る。一周目の空の袋が、戸口の列に重なる。あの軽さを、働いた人の手へ戻したくない。
私は横へ退き、並ぶ人たちへ道を空けた。
「どうぞ、ご本人たちへおっしゃってください」
荷運び頭が黙って見返す。フィリベルトは列から目をそらし、私の方へ身を寄せた。
「……ベルナデッテが、衣装代も残せと言ってるんだ。僕の顔を立てろよ」
急に、小声だ。私は袋から指を離し、彼をまっすぐ見上げた。
「聞こえる声でお願いします! これは、働いた方へ払うお金です!」
「おい、声が大きい……!」
「大きな声で困るお話なら、なさらないでください」
彼は戸口を見て唇を結んだ。荷運びたちは誰も場所を譲らず、受取りの順を待っている。
「番頭さん。変更を認めた記録はありますか?」
「ございません。旦那様にも伺いましたが、承諾なさっておりません」
私は名簿を荷運び頭へ向けた。紙の上を、太い指が仲間の名を一つずつたどっていく。
「皆、ここにいる者です。先に仲間の分を確かめさせてください」
「ええ、読み合わせをお願いします」
呼ばれた人が名乗り、預り控えの賃金と照らし合わせていった。
受取人を替えたのは侯爵家で、払う商会は認めていない。
店主は書類を揃え直し、変更届を払いの紙から抜き取った。
「商会のお預け金は、名簿どおりにお返しします」
「では、私めから皆様へ」
番頭が袋を配っていく。受け取る手が重みに少し沈むたび、列のどこかから小さな声が上がった。
仲間の受取りをすべて見届けて、荷運び頭はようやく自分の袋の口を結ぶ。
「助かります……本当に! 皆、これで帰れます!」
「私こそ、寒い中を待っていてくださって、ありがとうございます」
後ろの仲間が袋を掲げ、笑い声を上げる。荷運び頭も結び目をきゅっと引き、隣の肩を軽く叩いた。
「はは、今度は重いです!」
「ええ、その重さは皆さんが働いた分です」
「僕への支払いまで、なくす気か!」
窓口の台には、フィリベルトの空の手が残っている。
「あなたへ払う分は、この名簿にはありません」
「くっ! 覚えてろよ……」
彼は袋を得られないまま店を出た。扉の鈴が、やけに軽く鳴る。
私は夫へ向き直り、笑い合う荷運びたちを示した。
「ユスティン様。皆さん、ご自分の分を持って帰れます」
「ああ。いい顔をしている」
私は、夫にだけ届く声で続ける。
「一周目では、あの袋は空でした。……今日は、こんなに重いのですね」
「重いのは、君が守ったからだ」
夫はそれだけ言って、私の隣へ半歩寄る。触れそうな袖の近さに、詰めていた息がほどける。冷えていた指先へ温もりが戻り、私もようやく袋の重さを知った気がした。
夕方、公爵邸へ戻ると、玄関の灯りの下で倉係が別紙を差し出す。次の交代は二月三日だと告げられたという。
紙には新夫人の意向とあり、彼の指が端を握り込んでいる。そんな話は聞いていない。くしゃりと紙が鳴り、私は荷受けの文字の下へ目を移した。
「奥様は、私に暇をお出しになったのですか?」




