12. この家には、あなたが要る
「いいえ、暇など出していません。仕事も賃金も、その鍵も、今までどおりです」
倉係が握り直した鍵に、玄関の灯りが揺れた。私はその手が緩むのを待ち、公爵家令を呼んで別紙を広げる。
「この別紙は、あなたの用件書をもとにしたそうです。商会へ届いた原本を返送してもらえますか?」
「取り寄せます。私が書いたものか、確かめさせてください」
解雇を命じていないという返事も、義妹へ届けてもらう。倉係は紙から顔を上げ、ためらうように唇を開いた。
「では、次の荷も私が迎えてよいのですか?」
「ええ、もちろんです。困ったら、今日のように私へ聞いてください」
彼の肩が下がり、ようやく息を吐く音がする。私も、胸に詰めていた息をそっと逃がす。黙って去らず、私の返事を待ってくれたのだ。
彼が下がるまで、夫は隣にいる。その気配に背を支えられ、私は別紙を畳んでユスティン様へ向き直った。
「この家の皆さんから、直接お話を聞きたいのです。その席を整えていただけますか?」
「喜んで」
その返事に、まっすぐな眉までふっと緩む。私も、紙を握る指をほどく。
◇
四十四日目、二月三日の朝。薄い日差しの届く帳場の前で、夫から手拭いを受け取った。
荷の照合を手伝うためだ。冷えた指で広げると、角の折り目だけがきっちり揃っている。
「兄上が畳んだんだよ! 角はあたしが直したの!」
ハイディの跳ねた黒い短髪が、手拭いの向こうで揺れた。夫の指が、隠すようにその角をつまむ。
「お前、そこまで言わなくてもいいだろ」
「だって、きれいなのはあたしのところだけだもの!」
「ふふっ、広げるだけで、お二人の仕事が分かりますね」
兄妹が揃って同じ角を見る。私は笑いをこらえて手拭いを畳み直し、帳場の窓硝子に映る赤茶の編み髪を押さえた。
「おかげで使いやすそうです。ありがとうございます」
「えへへ、どういたしまして!」
「奥様、お話の前に……こちらを」
倉係が帳場から顔を出す。ハイディはぱっと口を閉じ、私の横へ道を空けた。
「家令さんを呼んできていただけますか?」
「はーい! あたしが行くぅ!」
私は倉係の机へ進む。返送されてきた用件書を、彼が両手で置いてくれた。紙の擦れる音が耳に残る。
一周目の今日、退く侯爵家の倉係に原本を見せられた。新夫人から暇が出たという義妹の伝言を聞き、夫へ訂正を求めても、私の声は届かない。
今、目の前にいるのは公爵家の倉係だ。私は紙を、彼にも読める向きに開いた。今度は、一緒に確かめられる。
「『荷受けを離れる間』とあります。担当の行を、一緒に読んでいただけますか?」
「はい。冬荷の受渡しを商会の控えと照合するため、帳場へ来るようにと……」
原本のどこにも、解雇の文字はない。彼の指が担当の行をなぞったところで、扉の外が騒がしくなった。
解雇を否定する返事は、すでに義妹へ届いている。それでもベルナデッテは、後任候補の男を連れて現れた。
「お姉様のために選んだ後任よ。今さら帰せないわ!」
「……え? 私は、いつあなたに頼みましたか?」
肩で弾む巻き毛を払い、義妹は候補を前へ押す。彼の手が倉係の腰の鍵へ向かい、私は机の縁に手をついた。
「お姉様のためなのに! フィリベルト様も、この人へ鍵を渡せっておっしゃってるの!」
「私の名を使わないでください。家令の原本は、もうここにあります」
「くっ! この人の前で、わたしの顔を潰すの!?」
義妹は原本へ伸ばしかけた手を握り込む。私は倉係の横へ、用件書を戻した。
「この家の人の声は、私が聞きます。あなたが返事を決めないでください!」
倉係は腰から手を離さず、鍵の輪を押さえている。
戻った家令が、私の横から用件書へ指を置く。
「私が婚礼前に書いたものです。帳場で照合する間だけ、荷受けの補助を商会へ頼みました」
「伯爵家を経たのは、どうしてですか?」
家令が示したのは、添付されていた荷書類だった。伯爵家の取次ぎを通る、封のない束だ。
「奥様の継母様が、妹君を届け役になさいました。伯爵様からの任命ではございません」
商会側の受取りにも、届け役として義妹の名がある。私はその日付と、目の前の別紙を照らし合わせた。
「元の文を読んで、解雇と書き替えたのですね?」
「交代なら、どちらだって同じでしょう!」
家令は義妹を見据え、はっきりと首を横に振る。
「奥様の解雇命令も、後任を雇うお話も、伺っておりません」
荷受けを離れる間の代役を、倉係そのものの後任にすり替えている。
倉係が原本の端を押さえる。鍵の輪は、まだその腰にあった。
「帳場で照合を終えたら、私は倉へ戻る。それでよいのですね?」
「ええ。これからも、あなたにお願いします」
彼は顔を上げ、鍵を腰へ収め直す。今度は両手を机に出し、紙の端を揃えた。もう鍵を押さえる手はない。
「……倉の火の日から、分からないことは奥様に聞けばいいと覚えました」
「覚えていてくださって、嬉しいです! 私も、あなたに聞きます」
「それでは、フィリベルト様の仕入れ代の取次ぎは、どなたへ頼めば?」
後任候補の袖を、義妹がぐいと引いた。けれど、口に出た問いは引っ込まない。鍵と仕事だけを求めて来たのではなかったのだ。
「公爵家で立て替えるお約束はありません」
「妻の名で荷を受けることも、許していない」
夫が私の隣から言い切る。候補は差し出しかけた請求の紙を、自分の手へ戻した。
照合を終えて倉の戸口へ移ると、車輪の音が石畳を近づいてくる。扉が軋み、開いた隙間から冷たい木の匂いが流れ出した。
倉係がこちらへ向き直る。礼を言いかけた口が、仲間の合図で止まる。
「奥様、このたびは……あっ、荷が来ます!」
「私も手を貸します。荷札をこちらへお願いします」
彼がすぐに荷札を寄せてくれる。仲間たちも次々に私のそばへ寄り、札の読み方を尋ねてきた。腕に掛けた手拭いが、札を受け取るたびに揺れる。
「奥様、この札はどちらの棚へ?」
「北の棚へ。重いものは下にお願いします」
退出の礼の途中だった候補だけが、頭を下げた姿のまま残される。彼はそっと、自分の空の手を見た。
私へ向かう荷札はあっても、彼へ向かう鍵はない。
「フィリベルト様には、あなたから説明して! わたしを待たせないで!」
義妹が候補を急かし、先に馬車へ戻っていく。倉係は仲間に次の荷を示してから、私へ笑いかけた。
「また、ここで皆と働けます!」
「はい! お願いします」
夕方、玄関には質屋の使いが待っている。石の床から、足元へ冷えが上がってくる。持参財の目録の写しを、フィリベルトが持ち込んだという。
指定された品の持込み日は、二月十二日。その品名を聞いて、私は足を止めた。
「首飾りを担保にするというお話は、奥様もご承知ですか?」




