3. その日、父は港にいました
「書斎には私物がある。整理が済むまで、待ってほしい」
私は鍵へ伸ばしかけた手を引いた。そこまで言われて、急かす気にはなれない。明日の朝、先に向かう場所はもう決めてある。
――迎えた出立の朝、玄関で彼に声をかける。
「では、先に実家の帳場へ向かいます。港まで、ご一緒していただけますか?」
「馬車は用意してある。荷を積み終えれば出られる」
「兄上、自分の荷なら昨日の夜に積んだよ。義姉上より先だった! ふふっ」
玄関の鏡に、跳ねた黒い短髪が映った。赤茶の編み髪の私をひょいと追い越し、ハイディが馬車を指す。
「急ぐ旅なので、助かります。留守の間は、お屋敷をお願いしますね」
「任せて! 帰ってきたら、兄上がちゃんと役に立ったか教えてね。うししし」
公爵がまっすぐな眉を寄せた。妹はもう、見送りの手を振っている。私は笑みをこらえて馬車へ乗り込んだ。
港までは片道一泊二日。婚礼から数えれば四日目の昼には、商会の帳場へ入れる。
窓から潮の匂いが流れ込む。帆柱の並ぶ港に、海鳥と荷運びの声が重なっていた。父の背を追って歩いた子どもの頃と、同じ響きだ。
一周目の今日、偽の借用書を突きつけられ、私は父の商会を失った。父の控えを差し出しても、自分で作った紙だと退けられるばかり。
今回は、その日付を便りに書き、第三者の記録も先に頼んである。
倉の前を通ると、焦げた納品帳の匂いが記憶からよみがえる。けれど、あの支度荷は数日のうちに公爵邸へ発つ手配だ。港を出てしまえば、あの火の届く場所には残らない。
「お嬢様、旦那様は倉においでです。私めも、こちらでお待ちしておりました」
番頭のボニファーツが、白い房状の眉を上げる。机に開かれた父の控えには、船の荷改めの記録があった。
「船長と、船の原簿の手配はできていますか?」
「はい、桟橋でお待ちです。原簿を船から下ろすところまで、先に頼んでございます」
父の控えの日付は、十一月二十日。正午の文字を、指で押さえた。
「公爵様、船長の送迎をお願いしたいのですが、できれば――」
「喜んで」
私は言いかけの口を開けたまま、彼を見る。公爵はもう御者へ向きかけていた。頼み終えるより早い。
「……まだ、荷物のお願いが残っています。原簿も載せられる馬車でお願いします」
「分かった。それから?」
彼が机へ身を乗り出す。その真顔を見て、番頭まで白い眉を持ち上げた。
「あ、それで全部です。そんなに待たれると、お願いを探してしまいますわ」
「必要なら、増やしていいぞ。ははっ」
「だ、大丈夫です……」
御者が出ると、番頭が私の手元へ湯を置く。器を包んで初めて、紙を押さえていた指が冷えきっていると気づいた。
「お嬢様、婚礼からきちんとお休みになれておりますか? 紙は逃げませんよ」
「ありがとう。父が来るまでは……。調べた理由も聞かずに揃えてくださって、ありがとうございます。いただきます」
湯気の向こうで、父が倉の人を呼んでいる。一周目の終わりには、もう聞けなかった声だ。私は湯を一口飲んだ。喉の奥の熱さは、湯だけのせいではない。
父が倉から戻るのと、侯爵家の馬車が止まるのは、ほとんど同時だった。父へ向かいかけた足を、私は止める。
「商会の件で来てみれば、まさか君までいるとはね」
フィリベルトが艶のある金髪を撫で、父の前に立った。侯爵と使いも机を囲み、開いた控えに影が落ちる。
「商会を渡せば、これ以上は騒がない」
「困ったお方ですね。父の商会を欲しがる理由を、どうぞ父の前でお聞かせください」
「借用書はここにある。伯爵の署名もな!」
「まあ、それが本当なら大変ですわね」
侯爵の置いた紙に目を落とす。日付は、便りに書いた日と同じだった。私は父の控えを、その横へ並べる。
「その日付の日、父は王都におりませんでした。港で、あなたの船の荷を検めておりましたの」
「王都の私の屋敷で手渡したのだ! 借りた金を忘れるような父親を庇うつもりか!?」
「十一月二十日の正午、金貨八千枚ですね? 場所も時刻も、この記載どおりと伺います」
侯爵の頷きを確かめ、使いにも紙を見せた。父が俯けていた顔を上げる。
「その控えは伯爵が書いたものだろう。身内の紙を並べたところで、証明にはならんぞ」
「では、あなたの船の船長にも、原簿を読んでいただきます。帳場の外へお願いします」
「えっ?! 船長まで呼びつけたのか!?」
侯爵が机へ下ろしかけた拳を浮かせる。その下へ、番頭が荷の控え、受取の控えと、順に紙を滑り込ませた。
「必要な分だけでございます。こちらにも続きがございますので、お手元を」
「くっ! ……置く場所を空けろと言っている!」
番頭が紙を持ち上げると、その下にも父の署名。侯爵の拳は、結局、机に置かれなかった。
倉の前では、戻った馬車から、原簿を抱えた船長が降りてくる。海風に頁の端がぱらぱらと鳴った。
「この頁をお願いします。父の立会いの時刻を、皆さまに読んでいただけますか?」
「十一月二十日、正午。伯爵様と荷を検め、終わりに私がここへ署名しました」
船長の指が、自分の署名を示す。父の控えにも、同じ船の荷、同じ立会いが記されていた。
「私の隣で、傷んだ荷を見つけてくださったのを覚えています。この原簿は、ずっと船で保管しているものです」
「父はその正午、こちらにいました。侯爵様の屋敷がある王都までは、一泊二日かかる距離です」
侯爵の唇が開く。声が出るより早く、使いが原簿へ目を落とした。
「……この借用書だけでは、商会を受け取る書面は作れません」
「余計なことを……。お前が黙っていれば済んだのに……」
フィリベルトの声に、荷運びの人たちまで振り返る。差し出したままの彼の手へ、誰も帳簿を渡そうとはしない。
「僕の家の船を動かす金なんだぞ! 君の持参金が入れば払えると、もう話してあるんだ!」
「それは、父が借りた金の話ではありません。あなたが払うと約束した相手に、お話しください」
使いが借用書を引っ込めた。侯爵は船長へ読み直しを命じることもなく、馬車へ向きを変える。
父は涙目で私の手を取った。
「エーリカ、よく気づいてくれた! これで帳場を、皆の働く場所を守れる」
「はい! また、お父様の隣で帳簿を開けますわ」
父が笑う。目尻の皺が、昔よりも深い。明日もこの声で呼んでもらえると思うと、足もとがふっと頼りなくなった。倉の人たちが父へ寄り、止めていた荷の相談を始める。
私は公爵を、父たちの輪へ招く。
「船長様を迎える馬車は、この方のお手配です。おかげで父の言葉を皆に聞いてもらえました」
「娘だけで走り回らずに済んだのですね。ありがとうございます、公爵」
「証明したのは、お二人だ。私は迎えに行かせただけだ」
公爵は静かに微笑んだ。
◇
また一泊二日の帰路を経て、六日目の夕方、公爵邸へ戻った。旅の埃を払う間もなく、玄関に待つ夫人に足が止まる。式で会釈を送ってくれた方だ。
「明日の茶会へ、お越し願えますか? ご本人にお聞きしたいことがあるのです」
招待を届けた夫人の視線が、私の指輪から顔へ戻る。
「ベルナデッテ様が『姉は花婿に捨てられた』と、皆さまに話しておいでです」




