2. お預かりするのは、鍵まで
「君の手を取れたことを言った。それだけだ」
馬車で投げた問いへの答えは、そこまで。婚礼の夜、公爵邸の寝室の前でも、その先を尋ねる言葉が喉につかえている。
燭台の火が揺れ、磨かれた廊下に細い光を引く。
私を妻にした理由は、まだ聞けていない。ここを曖昧にしてしまう前に、扉へ伸ばしかけた手を下ろした。
「理由を聞くまで白い結婚でお願いします」
「……。いいだろう、喜んで」
用意した押し問答が、瞬きの間に出番を失う。公爵はごく自然に、廊下を隔てた別の扉を示した。
「私はこちらを使う。君の部屋へ入るときは、必ず君の許しを得るようにしよう」
「え……? 待ってくださるのですか?」
「君の納得のいくまで……期限をつけるつもりはない。触れるときも、先に聞く」
二十八歳の公爵が、寝室の鍵を私の掌に置く。深緑の瞳を見つめても、まっすぐな眉は動かなかった。
花婿を突然替えた私へ、事情を求める言葉さえない。用意した言い訳を飲み込んでいいのか、唇が迷う。
「理由を聞かないのですか」
「聞けば、君は答えなければならなくなる」
「……ずるい方」
「十年、借りを返せずにいた。あと少し待つくらい、何でもない」
私は鍵から顔を上げる。公爵の唇は、説明を続けかけた形で止まっている。
「え? 十年?」
「――口が滑った」
借り。私には心当たりがない。尋ね返す隙もなく、彼は別の寝室の扉を開けた。
扉が、かすかな音で閉まる。鍵をかけたのは私の側だけなのに、閉め出されたのはこちらのようだ。十年、という言葉だけが胸に残る。
◇
一周目の今日、持参金を夫の家へ渡した私は、金庫の鍵まで取り上げられた。母の宝飾を見たいと願うにも、誰かの許しが要る暮らし。
鏡に映る赤茶の編み髪を整え、今朝は手元の鍵を確かめる。番頭への便りは、婚礼の夜のうちに出しておいた。
庭へ出ると、公爵が妹に剣の構えを直されている。霜の降りた芝が足元でさくりと鳴り、冷気が頬に触れた。
「兄上、手首がまた戻ってる! あたしの言ったところで止めて!」
「こうか?」
妹の剣先に自分の剣を押さえられ、公爵は手首ひとつ動かせずにいる。
「そうそう。もう降参なの?」
「いやもう参った、参った。今朝はここまでだ」
跳ねた黒い短髪の少女が私を見つけ、ぱっと笑う。兄と同じ黒い髪でも、林檎のように丸い頬には幼さが残る。
「ハイディだよ、十歳! 義姉上、剣のことなら兄上よりあたしに聞いてね」
「頼もしいです。……。私の座る席はありますか?」
「兄上の隣! そこだけ、朝から椅子を磨かせてたんだよ」
剣を収めかけた公爵の手が、ぴたりと止まる。私は隣の椅子へ近づき、つるりとした背に指を滑らせた。
「ふふ、磨いた甲斐があったと申し上げたいので、座って確かめますね」
「茶を運ばせる。座り心地も……悪くはないはずだ」
「兄上、磨いたのは背もたれだよ。座るところじゃないよ」
公爵が黙って椅子を引くので、私も笑いをこらえて腰を下ろす。座面の冷たさに背筋が伸びた。背もたれだけは、朝日につやつやと光っている。
茶が届く前に、玄関から荷箱の擦れる音がした。
番頭を迎えに行くと、箱の向こうで白い房状の眉だけが動いている。
「お嬢様、ご指定の目録と荷は揃っております。控えの箱はどちらへ置きましょう?」
「箱ごとですか? ふふ、玄関が塞がっていますから、まず横を向けてください」
「横にも控えがございますので、少々お待ちを」
番頭が体をひねると、脇からさらに薄い箱が現れた。家令と私が同時に道を譲り、ようやく荷が通っていく。
「持参金は金貨五千枚、宝飾は評価で金貨千枚。こちらが、お父様からのお預かりの控えでございます」
「ありがとうございます。侯爵家へ渡していないことも、この場で確かめます」
目録に記された飾りの形を、箱の中の品と照らし合わせる。受領先の欄は、まだ空白だ。その余白まで、私は念入りに確かめた。
蓋を開けると、母の首飾りが朝の光を拾う。一周目では、二度と触れられなかった石だ。指を伸ばしかけ、私は目録の端を押さえた。紙の手触りを頼りに、震えそうな指を落ち着かせる。
「港の毛布と灯油も、公爵邸へ送る手配をいたしました。お嬢様の支度荷として、別便でございます」
「ええ、港には留めず、こちらへお願いします」
港の倉から出してしまえば、あの荷は守れるはずだ。二周目はちゃんと守らねば――宛先が公爵邸であることを確かめ、目録を家令へ向けた。
公爵が空けてくれた金庫へ荷が収まり、家令が鍵を差し出す。私はその下へ、掌を開いた。
「開けるのも、預け先を替えるのも、君が決めていい。私は場所を用意しただけだ」
「では、こちらに預けます。鍵は、私が持ちますね」
掌の真ん中へ、鍵の重みが沈む。一周目に奪われたものを、今度は自分で選んで受け取った。指を閉じても、取り上げる手は伸びてこない。
「ちょっと待ったー!」
金庫を閉じるところへ、家令が元の花婿たちを通してくる。侯爵家の使いも書面の束を抱え、後ろに付いていた。
「持参金はこちらへ戻してもらうよ」
フィリベルトは艶のある金髪を整え、当然のように手を差し出す。隣では義妹のベルナデッテが、肩で弾む巻き毛を指に絡めている。
「お姉様、皆を困らせないで! 行き先は、もう決まってたでしょう?」
「私の財産ですから、私が守ります。行き先も、私が選びました」
「でも、わたしまで持参金が届くのを待っていたのに、お姉様だけで決めるなんて、ひどい!」
彼女の手が目録へ伸びた。私は紙をずらし、受領の欄に指を置く。
「戻せとおっしゃるなら、そちらで受け取った方のお名前と、その記録をお示しください」
「だから、式の後には僕の家へ来る金だったんだよ! 予定どおりにすれば、誰も困らない」
「こちらが父の預かりの控え、こちらが今の受領です。あなたの家が受け取った欄はありません。戻すも何も侯爵家は関係ありません」
使いの視線が、番頭の紙と家令の紙を行き来する。書面の擦れる音だけが、妙にはっきり聞こえた。
「……こちらからは、受領した控えをお出しできません」
差し出されたままだったフィリベルトの手が下がる。公爵へ向け直した顔にも、笑みは戻らなかった。
「公爵からも言ってやってください、金を動かす話ですよ!」
「妻に聞け。答えは、今聞いたとおりだ」
「公爵様まで、お姉様の味方なの!?」
「妻の味方以外の席は、あいにく空いていない」
家令が目録を私へ返す。荷を運ぶつもりで来た使いも、箱に触れずに廊下へ下がった。
「お姉様、まだ話は済んでいないの!」
「保管の用件は済みました。お帰りはあちらです。家令さん、ありがとうございます」
閉じた扉の向こうへ、空手の二人の足音が遠ざかる。最後の音が消えると、家令の口元がようやく緩んだ。
「奥様のお役に立てました」
「はい、大切なものを守れたのが……嬉しいです」
廊下で鍵を確かめる。金庫も寝室も、私の手にある。握り直した鍵は、もう冷たくなかった。廊下の端に、客を見送った公爵が立っている。
書斎の鍵だけ――彼の手に残っていた。
「書斎の鍵だけ、いただけないのですか?」




