1. 花婿の欄は、まだ空白
「乾杯しよう、エーリカ。一年、ご苦労だった」
冬至の夜会。夫の差し出した杯は、舌に苦い。向こうで義妹が笑う。
「お姉様、残さず飲んでね。ふふっ」
「……え?」
毒だと気づいたときには、床に倒れていた。燭台の火が遠のき――闇ににじむ。
私の意識は幽霊のように宙を漂い――私の葬儀へと流れていく。雪の降る門の内、父もいない席に、北の公爵だけが立っていたのだった。
◇
私はエーリカ・ロスヴァイン、十九歳。伯爵令嬢で、商会の帳場に立つ娘だ。
鏡の中で、赤茶の編み髪に花嫁の飾りが揺れた。
「え……? 生きてる……の? ここは?」
喉にはまだ、あの杯の苦みが残っている。
「お嬢様、あと一刻で式でございます」
そう、結婚前に戻っていたのだ。
一周目の今日、私は夫になる男の名を疑わずに署名した。あの紙から、奪われる日々が始まる。
覚えているのは、あの一年に私が見聞きしたことだけだ。
私が先に気づけば、誰にも頼まずに済む。
「式の順を確かめたいので、支度をお願いします」
「はい! 今日は、いちばんお綺麗でございますよ!」
支度の帳簿で確かめた順どおりに、祭壇へ進んだ。高い窓から冬の光が落ち、白い裾を青く染める。婚姻の誓約書には、父の同意の署名がある。
その下は、これから誓う本人が書くところ。
花婿の欄は、まだ空白――。
隣のフィリベルト・ローデンシュタインへ目を向ける。艶のある金髪の下で、笑みがわずかに傾いた。
私は彼の手から、指を抜く。
「おい……エーリカ、冗談はやめろ。皆が見ている」
「ええ。皆さまに見ていただきたいの。私が、あなたを選ばないところを」
ざわめきが石の天井へ昇る。私はみんなのざわめきを一身に浴びながら、最後列へと歩いた。父が取引相手への義理で招いた、ユスティン・ノイエンドルフ公爵の前へ。
手袋のまま、私は手を差し出す。
「公爵様。私と結婚してくださいませんか?」
公爵はにっこりとほほ笑み、手を取る。
「喜んで」
立ちあがった公爵は、祭壇へ体を向ける。まっすぐな眉の下、深緑の目はもう進む先を確かめている。
手袋越しの掌が、驚くほど温かい。杯の冷たさを覚えていた指先が、少しずつほどけた。握り返してもいいのか、その加減が分からない。
隣の少女が椅子を引き寄せた。脚が石の床をこすり、私たちの前に道が空く。
「兄上、さっきからはめ直してたその手袋、やっと出番だね!」
公爵の指が、手袋の縁でぴたりと止まった。
「……そうだな、ありがとう」
「うん、あたしも邪魔しないよ。花嫁が通るんだもの!」
跳ねた黒い短髪を揺らし、公爵の妹が大きく脇へ寄る。おかげで、私の裾は椅子に引っかからずに済んだ。
「ありがとうございます」
「えへへ、お礼を言われちゃった!」
祭壇の前では、前世での義妹が肩で弾む巻き毛を押さえている。こちらへ向ける笑みは、あの杯の向こうで見たものとよく似ていた。
「お姉様ったら、そんなことをしたらお父様に叱られるのに」
「父には、私からお話しします。あなたは関係ありません」
立ちかけた父へ、フィリベルトが先に笑いかける。椅子の背に置かれた父の手を、私は目で追った。
「伯爵もお困りだよ。君との結婚には、もう同意をいただいているんだから」
「まあ、でもこちらをご覧になって」
私は父の署名の上を指す。一周目、この一行を読み違えたせいで、私は命を差し出した。今度は、勝手に続きを書かせない。
「『娘の婚姻への同意』ですから、誓う相手については私にお聞きください」
「僕と誓うに決まっているだろう! こちらへ戻って、皆に安心してもらうんだ!」
フィリベルトの手が、私の前へ伸びた。一周目の冬至に、杯を差し出したのと同じ手だ。体が退くより先に、私は顎を上げる。
「私が選んだのは、ユスティン・ノイエンドルフ公爵です。あなたとの誓いは、立てません」
「お姉様、本当に北の冷血公のところへ嫁ぐつもりなの!?」
「公爵! 人の花嫁を横取りして、平気なのですか!?」
公爵は私の隣から動かない。私を背に隠すこともなく、肩を並べて立っている。
「彼女の選択を受け取った。君が決め直すことではない」
「目を覚ませよ! 君は疲れているんだ!」
「いいえ。こんなに目の覚めた朝は、生まれて初めてです」
父が立ち上がった。フィリベルトは、ほら、と笑い直す。
けれど、父が頷いた先は新しい花婿の顔だった。彼の笑顔だけが、行き場をなくす。
「取引では譲らぬ方だが、娘の言葉は聞いてくださるらしい。エーリカ、お前の望みでよいのだな?」
「はい、お父様。帳場で値を決めるときと同じくらい、よく考えて、この方を選びました」
「では、その手を取っていなさい」
私はそっと指を重ねた。父の目尻に、帳場で褒めてくれた日の皺が寄る。その顔を見て、詰めていた息がようやく抜けた。司祭が祭壇のこちら側へ誓約書を置く。
「これより、お二人の意思を伺います。エーリカ殿、隣の方を夫とすることを誓われますか?」
「はい。この方を夫とすることを誓います」
「ユスティン殿、隣の方を妻とすることを誓われますか?」
「ここにいる彼女を、私の妻とすることを誓う」
差し出されたペンを受け取り、私は花嫁の欄へ名を書いた。公爵がその隣に名を記す間も、ペン先のこする音が耳から離れない。
父の同意の署名、その下に私とユスティンの署名。花婿の欄まで埋まった誓約書を、司祭が満座に掲げる。
「皆さまを証人として、ここに婚姻の成立を宣言します」
侍女が扉のそばで両手を合わせた。笑顔のまま目元を拭い、私と目が合うと、また両手をぎゅっと合わせる。
「お嬢様……おめでとうございます! あんなに堂々とした花嫁様、初めて見ました!」
「ありがとうございます。いちばん近くで見ていてくださって……嬉しいです」
「僕を捨てて、あの冷血漢を選ぶのか!」
「冷血かどうかは、妻が決める」
妻、と呼ばれ、返事の息が喉に引っかかった。自分で望んだはずの呼び名が、胸の中にうまく収まらない。
「……では、決めるのは私ですね?」
「ああ、一生かけて、ゆっくり決めてくれ」
義妹の笑みは、いつの間にか消えていた。
「……お姉様なんて、すぐに後悔するんだから」
フィリベルトの母が、細く長い首筋を傾けて招待客を促す。
「どうぞ、お座りになって。足元が狭いですもの」
客は席へ戻り、ある夫人は私たちへ会釈を送る。元の花婿の隣だけが、誰にも埋められずに残っていた。
式の礼に、公爵が私の前で膝を折る。
「手の甲へ、礼をしてもいいか?」
「……はい、お願いします」
手袋越しに唇が寄せられた。触れたかどうかも分からない軽さなのに、耳まで熱い。立ち上がった彼は私の手を引かず、出口へ向けて腕を差し出す。
「歩けるか? 急ぐ必要はない」
「歩けます。私が向かいたい馬車も、もう決まっていますから」
「……そうか。では、あの黒い馬車だ」
外には婚礼の馬車が並んでいた。頬をなでる冬の朝の空気が、熱を少しさらっていく。馬の鼻先で白い息が揺れ、金具が澄んだ音を立てた。父に見送られて公爵家の車へ向かう私たちに、客の祝辞が降りそそぐ。
「義姉上、明日の朝は兄上の稽古を見に来てね! あたしが直すところ、見せてあげる」
「朝の稽古ですか? 楽しみです!」
父が私の背に、そっと手を当てた。布越しの掌が、行きかけた私の足をとめる。
「エーリカ。帳場の机は、お前の席のまま空けておく」
「はい、お父様。近いうちに、また帳簿を開きに参ります」
「娘を頼みます、公爵」
「彼女が頼めるように、隣にいる」
頼める。その一語が、胸の奥の固い結び目に触れた。誰にも頼らずに済ませるつもりで、ここまで来たのに。つないだ手を離す気には、なれない。
フィリベルトの馬車の踏み段は、まだ下りていた。私を待っていたその前で、彼は御者に「出せ」とも言わずにいる。
「おい! 今ならまだ許してやるぞ! 聞こえているんだろう!」
背中に追いすがる声に、私は振り向かない。
公爵が先に扉を開け、私へ手を差し出した。今度は私も、ためらわずにその手を取る。
「……今度は、間に合った」
「え……? 『今度』とは……? あなたも覚えているのですか?」




