10. 尻尾と三段トレイの大惨事
十三日目の昼は、憎らしいほどの秋晴れであった。
王宮の庭園。名残の薔薇の咲く一角の東屋に、白い布の掛かった円卓が据えられている。上座に王妃陛下。あちら側に黒犬の公爵様と、控えのグスタフどの。こちら側に父と母とわたし。――四つ目の申し合わせ、茶会の儀である。
両家と後見の同席する、最初の正式な席。つまり、逃げ場というものが設計上存在しない席である。
父は今朝、口上の稽古を三度、通しでやってきた。母はいちばん良い扇を持ち、勝負の顔をしている。何と勝負するのかは、あえて聞いていない。
あちら側の身内の席は、叔母君である陛下おひとり――後見席が、そのまま公爵家の身内席である。そのことに気づいたとき、わたしは膝の上で、手を一度だけ握り直した。
席次では、まずひと悶着あった。犬のお姿に椅子は使えない。かといって、公爵を床へ、とは誰にも言えない。王宮側が用意していたのは、脚を短く詰めた特注の卓と、絹の敷物であった。
「叔母上の、差し金ですか?」
「あら。北の甥のためですもの」
陛下は涼しいお顔のまま、犬用、という言葉だけを丁寧に避けられた。宮廷とは、そういう場所である。
茶会は、滑り出しだけは上出来だった。
父の口上は、稽古の三度目より良かった。母は毛並みの手入れについて具体的に過ぎる質問をし、陛下は北の冬を尋ね、公爵様は「私」の一人称で、簡潔に、正確にお答えになる。日向の薔薇の匂い。銀器の触れ合う澄んだ音。……上出来すぎて、わたしは少し、嫌な予感がしていたのである。
給仕たちが、銀の三段トレイを運んできた。焼き菓子、塩気の小さなもの、砂糖漬けの果物。それが、よりにもよって、公爵様の低い卓のすぐ脇の小卓に据えられた。
陛下が、扇を伏せて、仰った。
「ヴィルヘルム。あなた、この縁談に満足していて?」
犬が、一拍おいて答えた。
「……私は。満月の夜会の庭で月を見ていた時分より――朝が、楽しみになりました」
正直は、あの家の家風である。
母が頬に手を当て、陛下が目を細められ、わたしの耳が熱くなり――そして、誰の言葉よりも先に、彼の尻尾が感想を述べた。
ぶん。
――――銀の三段トレイが、宙を舞った。
焼き菓子が薔薇の茂みへ飛び、砂糖漬けが陽の中で弧を描き、クリームの器が芝の上を一回転する。給仕長の顔から色が消え、父が胃のあたりを掴む。時間が、止まった。
わたしは立ち上がり、倒れたトレイと卓の高さを見比べて、申し上げた。
「給仕の手順が、悪うございます。犬の卓の脇に三段は、高すぎます」
静寂、一拍。
王妃陛下が、扇を取り落として噴き出された。
「ふ……ふふ、あはは! そのとおりだわ! 給仕長、犬の卓に三段は高すぎてよ」
陛下が笑えば、庭が笑う。給仕たちが息を吹き返し、グスタフどのはいつの間にか布巾を手にしており、騒ぎは騒ぎのうちに畳まれていく。
当の公爵様は、耳を伏せ、尻尾を床に貼りつけ、この世の終わりのような姿勢で固まっていた。
「……弁償する」
「あら、その台詞、二度目ですわね」
母がするりと席を立った。そして当然の顔で公爵様の傍らに膝を折り、その大きな顎を、自分の膝の上へ導いたのである。
「反省のお顔も、ご立派ですこと。――あなた、ご覧なさいな」
母は父へ、勝ち誇った扇を向けた。
「この方は、反省がお出来になるのよ。四年間お通いだった、どこかの若君は――遅刻のたびに、胸を張っていらしたけれど」
「こ、これ、お前……陛下の御前で……」
「あら。事実ですもの」
陛下が二度目に噴き出され、父は懐から薬の包みを出して、水差しの水で静かに飲んだ。北の胃薬である。よく効くそうである。
犬は助けて欲しそうな目でこちらを見てくるが、この複雑な力学の中でどう動いたらいいか全く分からなかった。
――茶会は、成立した。
散会の間際、陛下が扇を開いて宣言なさる。
「四つ目の申し合わせ、後見として確かに見届けましてよ。残りは、あと二つね」
それから、わたしの耳元で小さく。
「検分は、進んでいて?」
「……対象が、動きますので」
「ふふ。動く対象は、良い対象よ」
散会後、庭園の小径を、犬と二人で歩いた。門までお送りする、というのが口実である。口実、という言葉が自分から出たことについては、後日ゆっくり考える。
芝の上に、午後の影がふたつ。片方は、仔馬の形をしている。
「……今日の手柄は、あなただ」
「いいえ。給仕の手順です」
「俺の尻尾だ」
「では、手柄は尻尾に。あなたさまは、お言葉のほうで及第です」
朝が楽しみになりました、の一言を、わたしは正確に記憶している。記憶したことは、当分、申し上げないでおくが。
四年間、わたしは恥をかかされる側だった。遅刻の言い訳を隣で微笑んで聞く恥。作り笑いの角度を測られる恥。それが今日、銀のトレイが宙を舞った瞬間でさえ――わたしは一度も、恥ずかしくなかった。
この違いに正確な名前を付ける作業が、残っている。名前を付けたいものは、朝ごとに増える一方である。
門の手前で、早馬の使いがグスタフどのに追いつき、書状をひとつ手渡した。
北からの先触れである。
家宰ベルンハルトどの、一行を率いて王都へ出立。用向きは、験の期限の儀について。そして文面の末尾に、こうあった。
「――『場合によっては、候補を並べ直すことも含め、万事、それがしが参着の上にて』……との由にございます」
候補を、並べ直す。
わたしは、並んだ覚えも、並べられた覚えもないのだけれど。
読み上げるグスタフどのの声は常と変わらず、黒犬の耳だけが、ぴんと立ったまま動かない。秋の庭に、季節の変わり目の、最初の冷たい風が吹く。
――今度のは、本物の風である。




