11. 北から、家宰どのが参られた
十四日目の朝は、まだ辻の角も見えないうちから、音も空気もいつもと違っていた。
夜明け前の街道を、蹄の音が近づいてくる。一頭ではない。四つか五つ。荷車の軋み、御者の鋭い掛け声、鎖が触れ合う硬い響きまで連れ立って、夜の色が残る石畳を、北の音が雪玉のように転がってくる。頬に触れる空気まで、いつもより冷たい。
辻の黒犬は、いつもの場所に、いつもの姿勢で座っている。ただ、耳だけが一度、街道の方角へ傾いた。
「北の一行が、昨夜遅くに王都へ入りましてございます」
グスタフどのが、薄明かりの中で深く頭を下げ、恭しく告げる。
「あれは家宰のベルンハルトにございます」
「お出迎えは、よろしいのですか?」
「殿の朝は、散歩でございます。……そう申し上げて参りました」
「本日も、こちらを」
グスタフどのが、革の引き紐を両手で恭しく差し出す。条例は条例である。受け取ると、北の鹿革は、毎朝わたしの手のかたちへほんの少しずつなじんでくる。
黒犬は何も言わずに立ち上がり、いつもの歩幅で歩き出す。
道は、いつもの道である。パン屋の窯で燃え始めた薪の匂い、市場へ急ぐ荷馬車の車輪の響き、まだ灯っている街灯の淡い橙色。それらは変わらずそこにあるのに、今朝は背後の街道から届く音ばかりが耳の奥に残り、わたしの歩幅は、たぶん、ほんの少しだけ速い。
丘の頂で鐘が鳴り、朝の光が薄霧を白く透かす。その光の中で人の姿へ戻った彼が、いつもの静かな動きでベンチへ腰を下ろした。
今朝の決裁箱は、ベンチの脇に二つ並んでいる。
「家宰が、夜のうちに増やしていった」
「移動されていたのでは?」
「あの男は、休まん」
その短い言葉を追うように、休まない男の足音が、荒い息とともに坂を上がってきたのは、それから間もなくである。
息を切らして丘の頂へ現れたのは、白髪頭の小柄な老人である。外套の裾には乾きかけの泥がこびりつき、肩には旅の埃が白く残り、目は寝不足で赤く縁取られている。わたしを認めると一瞬だけ足を止め、息を整えるより先に、深々と腰を折られた。
「北方公爵家家宰、ベルンハルトにございます。……アシュフォードのご息女と、お見受けいたします」
「セシリアと申します」
「殿。ご報告を申し上げます。本日をもって――」
老人は懐から紙を一枚取り出し、朝風に鳴るその端を、震える指で押さえる。
「――あと十六日ですぞ!」
朝日が丘をゆっくり渡っていく。老人の赤い目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ、白い口髭を濡らす。
「北は、待ってくれませんのだ。雪は、暦どおりに降りますゆえ」
……泣き上戸でいらっしゃる。しかも、勢いがよい。
「殿。六つの申し合わせは、後からでよろしいのです。誓いさえ先に頂ければ、験は閉じます」
「後から、ですか?」
わたしは初めて聞いた話に思わず横から口を挟んだ。
「さようでございます。婚約の作法は人の決めごと、験を閉じるのは盟の決めごと。まったく別の道理にございます」
つまり、誓いだけを先に交わしても、王国の法にも盟にも触れない。家宰どのは、眠らずに、その細い道を見つけてこられたのである。
「では、なぜ十六日も要るのです?」
「要りませぬ。ですから、明日にでも」
「ベルンハルト!」
彼の声は低く、わずかな揺れもなかった。
「言っていない条項があるだろう。全部言え」
老人は口をつぐみ、濡れた目を伏せる。しばらくして、もう隠しきれないと悟ったように、続きを語り始める。
「……偽りの誓いは、盟が弾きます。先々代の代に、金子で調えた花嫁候補が弾かれましてございます。そのお家には『盟に嗤われた』という風評だけが残り、二代のあいだ、縁談が途絶えました」
「誓いは、同じ相手について一度きりだ」
彼が、家宰どのの言葉を静かに引き取る。
「やり直しは利かん。断られた場合も、弾かれた場合もな」
「……もうひとつ、ございます」
家宰どのの声が、雪に吸われる足音のように、いっそう小さくなる。
「当主が誓いを強いた、あるいは購ったと盟が見なした場合――呪いは、固定されます」
「固定?」
「永久に、獣のまま。……その境目は、どこにも書かれておりませぬ」
風が丘の草を撫でていく。朝露に濡れた葉先が触れ合い、かすかな音を立てる。
朝の光は昨日と同じ角度で王都の屋根を照らし、煙突から上がる煙まで淡く染めている。それなのに、わたしの座るベンチのあたりだけが急に冷え、革の引き紐を握る指先から熱が退いていくようである。
わたしは、この方が毎朝「断ってくれてよい」と仰るのを、優しさだと思っていた。優しさでは、ある。けれど、それだけではない。あの一言は、この方がご自分を永久に獣の姿へ閉じ込める境目から遠ざけ、同時にわたしの歩幅を守るため、そっと置いておられた言葉でもある。つまりわたしは、その言葉をこれまで半分しか聞いていなかった。
急かさない人には、急かせない事情がある。……知ってしまうと、こちらの背筋は勝手に伸びる。ただし、背筋が伸びても、考えまでまとまるわけではない。
わたしの「考えます」を、わたしはこれまでずっと、いつでも取り下げられる仮の言葉だと思っていた。違う。この方が、わたしという相手に誓いを請えるのは一度きり――請うて弾かれれば、二度目はない。わたしが返事を預かっているあいだ、その一歩は踏み出されず、この方は同じ場所で待っておられる。急かさないというのは、わたしの歩幅を乱さぬよう、雪が迫る道でご自分の歩みだけを止めて待つということだ。止まって待つ方が、歩くより楽だとは限らない。
残りの四半刻で、彼が開けたのは、箱ひとつぶんである。羽根ペンは迷いなく走り、まだ乾かないインクが朝日を弾いて、一瞬だけ金色にきらめく。それでも、二つ目の箱の留め具には、とうとう指先さえ届かない。
「明日へ回す」
「よろしいのですか?」
「一刻は、増えん」
増えないものを分け合って生きている人の、静かな一言である。閉じたままの二つ目の箱は、もう明日の四半刻へ足を踏み入れている。
鐘から一刻。光の中で人の輪郭が毛羽立つようにほどけ、艶のある黒い毛並みが全身を覆うと、ベンチの横に黒い犬が戻った。
家宰どのは顔色も変えず、黒犬へ向かって書類の続きを読み上げ始める。たいそう慣れておいでである。少なくとも、主が犬になった程度では、報告の順番は変わらないらしい。
帰りの坂道は、行きより静かである。朝露の光る石垣にも、細い路地の入口にも、灰色の老犬の姿は、今朝はない。
「……騒がしくなる。すまない」
黒犬は前を向いたまま低く言う。耳の先だけが、こちらの言葉を待つように後ろへ傾いている。
「謝罪は不要です」
わたしも前を向いたまま、革の引き紐をそっと握り直して答える。
「散歩の速度は、変えませんので」
尻尾が揺れたかどうかは、見ないでおく。見れば、わたしの口元まで緩みそうである。今朝は互いに前だけを見て歩くのが礼であり、犬の尻尾にも礼儀はあるらしい。
その日の夕刻、王都の屋根から夕日の赤みが消えるころ、グスタフどのが伯爵家へ使いに来た。
玄関の暖かな灯りの下で、家令どのの手袋は新雪のように白く、今日も汚れひとつない。
「明日の昼、家宰が茶会を催します。北の館にて、王都の六家の姫君がたを」
「六家?」
「はい。……名簿の筆頭に、セシリア様のお名前がございます」
わたしは、並んだ覚えも、並べられた覚えもない。どうやら、わたしの名前は本人より足が速い。
「わたしは、招かれているのですか?」
「招かれておいでです。殿は、御存じありません」
――家宰どのは、確かに、寝ない方らしい。




