↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
11/29

12. お見合いは、雪より軽く

 十五日目の空に、月はなかった。新月である。あの夜会の満月から少しずつ細くなり、とうとう空から姿を消したことになる。満ちたものが欠けきるまで、空の歩みは律儀だ。


 月のない夜明け前は、星だけが冴えて見え、肝心の道は闇に紛れる。それでも足の裏は石畳の継ぎ目を先に覚えていて、目より迷いなく進む先を選んでいく。贈られた靴は、考えるより早く、足を正しい場所へ運んでくれる。靴にまで歩き方を気遣われると、少々困る。


 手の中の引き紐も、月のない道で迷うことはない。たるんだ革の重みと、歩くたびに返るかすかな揺れが、暗がりの先にある黒い背中の位置を手のひらへ伝え続ける。条例のためにつながれた道具が、いつのまにか、わたしの道しるべになっていた。条例も、ときには役に立つ。


 丘の頂で夜明けの鐘が鳴る。東の空に差した淡い光が、黒い毛並みの輪郭をゆっくり薄め、長い脚と広い肩と人の横顔へ組み直していく。彼は冷えたベンチに腰を下ろすなり、前置きという歩幅を省いて切り出した。


「今日の昼、家宰が茶会を開く」


「六家の姫君を招いたそうだ。……あなたの名も、名簿の筆頭にあると聞いた」


「昨夕、伺いました」


「断ってよい。というより、断ってくれ。あれは、俺の茶会ではない」


「参ります」


 彼の眉が、行き場をなくした言葉のような角度に曲がる。犬のお姿であれば、今ごろ耳が同じように困っていたはずである。人のお姿では、困惑は眉に出るらしい。


「なぜだ?」


「招かれた席へ伺うのは、作法ですので」


 半分は本当である。もう半分は、舌の上まで来ているのに、どうしても言葉の形になろうとしない。名前のない思いは、口から出ていく道も知らないようだ。


 鐘から一刻。最後の一枚に署名を落とすのとほとんど同時に、丘の頂で彼の輪郭がほどけ、朝の光の中で組み直されて、隣には黒い犬が座っている。昨日の箱ごと片づけた手の速さを、わたしは黙って数えていた。それから、引き紐を握り直して坂を下る。姿が変わっても、足音の間だけは同じだ。


 名簿の筆頭。並べ直された候補の、いちばん上。……その言葉だけが、昨夕から喉の奥で歩みを止めている。飲み込もうとすれば戻り、吐き出そうとすれば先へ出る。朝の茶にも粥にも、ずいぶん礼儀なく居座っている。


 その日の昼、北の館の広間には、椅子が六つ、扇の形に並べられていた。高い窓から入る光は白く、磨かれた床に椅子の影を細長く落としている。暖炉の火はあるが、上着を脱げるほど暖かくはない。


 埋まったのは、四つである。うち一つが、わたしの席だ。残りの二つには最後まで人の体温が移らず、空席のままであった。


 名簿の筆頭の椅子は、扇の要にある。わたしは、いちばん端へ腰かけた。並べられた順に座る趣味は、生憎、持ち合わせがない。


 公爵家の王都館――王都の者が「北の館」と呼ぶ屋敷は、この街の邸宅にしては飾りが少ない。壁に掛かるのは絵ではなく、毛並みまで深く刻まれた古い狼の彫りである。暖炉の薪は太く短く、火が小さく鳴っていても、椅子の座面は容赦なく硬い。姫君がたはその縁に浅く腰かけ、扇の陰から、互いの顔に浮かぶ言葉を読もうとしている。衣擦れのたびに甘い香りが混じるのに、誰も上着を脱ごうとはなさらない。長居をしないと決めた方々の座り方である。


 家宰どのは上機嫌である。よく通る声で口上を述べ、茶が冷めぬうちにと勧め、六つの申し合わせは後からでよいという話を、丁寧に、正確に、息を継ぐ場所だけ忘れて説明なさる。誓いさえ先に頂ければ験は閉じますゆえ、と。熱心なお言葉だけが、広間を急ぎ足で歩いている。


 昨日の丘で泣いておられた方が、今日は目元の腫れも隠さず、湯気の立つ茶器を配って回っている。忠義というものは、疲れを知らない代わりに、急ぎ足だけはすぐ覚えるらしい。見ているうちに、わたしの茶は冷めた。


 広間の隅には、黒い毛並みがひとつ、重たげにうずくまっている。彼は伏せたまま、一言も発しない。発しない、と初めから決めておいでなのだろう。沈黙まで毛並みに含めると、かなり場所を取る。


 茶器を運ぶ手を止めもせず、家宰どのがわたしの脇へ小声を落としていく。


「殿はお止めになりました。二度。……三度目に、それがしが申し上げたのです。殿がお止めになれば、集めた娘御は『公爵に断られた』家になりますぞ、と」


 止めれば強いたことになり、止めなければ、こうして並べられる。この方の周りでは、道がいつもそういう形をしている。どちらへ進んでも、雪の吹きだまりが待っているような形である。


 やがて、末席の姫君が扇の陰から、言葉だけを雪の上へ置くように、小さく滑らせた。


「……先々代の、花嫁候補のお話は、まことですの?」


 茶器が受け皿の上で、かすかに鳴る。広間の温度が、一度下がる。上着を脱がなかったご判断だけは、皆さま正しかったのである。


「金子で調えた誓いが弾かれて、あちらのお家は二代、縁が途絶えたと伺いましたわ」


「盟に嗤われた、と申しますのでしょう?」


「わたくしの家は、二代も待てませんの。ごめんあそばせ」


 その話がどこから歩いてきたのか、わたしには分からない。ただ、風評というものは、ひとたび家名に降ると雪より長く残る。口にする方はいないのに、その雪の下に埋もれた家の名を、この三人は今朝までに全員、正確に思い出していた。悪評だけは、道に迷わない。


 扇がぱたりと閉じる。続いて絹の擦れる音と、椅子の脚が床を引く音が重なり、半刻のうちに、姫君がたの椅子は三つとも空になる。退席の足並みだけは、申し合わせたようによく揃う。


 残ったのは、候補として並んだ覚えもない、名簿の筆頭ひとりである。席を立つ理由も、座り続ける理由も、まだうまく言葉にならない。したがって、わたしは座っていた。


 ベルンハルトどのは、扇の形に並んだ椅子と、その端にひとつだけ残った人影をしばらく見比べ、やがて大きな肩を落として泣き始める。こらえようとなさるほど、涙だけが遠慮なく頬を伝った。太い泣き方である。北の人は、泣くときまで身も蓋もない。


「北は、待ってくれませんのです……」


「存じております」


「なにゆえ……、あなた様は残っておいでなのです?」


「散歩の、途中ですので」


 厳密には昼である。散歩の途中というには、鐘も日差しも進みすぎている。分かっていて、言葉をわずかに横へずらした。まっすぐ答えれば、声の平らさまで保てそうになかったのである。作法としては、たいへん小さい反抗だ。


 庭へ出ると、薄い日差しの下で、名残の薔薇が花びらの縁から色を失いかけている。その下へ、黒い毛並みのかたまりが移動していた。


 昼の光で見る毛並みは、朝よりも重たい色をしている。彼は薔薇の茂みが落とす影へ体を半分だけ入れ、耳をわずかに伏せて、こちらをご覧になっていた。目だけが、近づいてよいかと尋ねている。叱られる前の犬の座り方である。まだ、わたしは叱っていない。


「……見苦しいものを見せた」


「見合いは、あなたの自由です」


 わたしは、自分でも思いがけないほど平らな声で答える。丁寧な言葉を選ぶほど、口の中だけが冷えていく。敬語は便利である。乱れた歩幅まで、きちんとした言葉の中へ隠せる。


「わたしはまだ、お返事を保留している身ですので」


 会釈をひとつ、その場へ置き、わたしは門へ向かって歩き出す。背後で芝が低く鳴り、黒犬が身を起こした。すぐに芝を横切って、いつもの位置――わたしの左隣へ並ぶ。小径の砂利が、靴二つと足四本のぶん、硬い音を重ねていく。顔を見なくても、毛並みの近さでそこにいると分かる。


 十歩ほど行ったところで、隣の砂利の音が途切れ、彼の足が止まった。


「……では、なぜ怒っている?」


「怒っておりません」


「歩幅が乱れている」


 この方は、そういうところをご覧になっている。表情でも声でもなく、足の運びをご覧になる。四年間、誰の目にも留まらなかった半歩の乱れを、この方だけは、隣を歩きながら見落とさない。見つけてほしかったのか、隠し通したかったのか、わたしにもまだ分からない。困るのは、見つけられたあとも足が止まらないことだ。


「……歩幅が乱れただけです」


「そうか」


 彼は、それ以上お聞きにならなかった。ただ、帰り道はずっと、わたしの半歩後ろを歩いている。こちらへ急げと促さず、遅いとも言わず、砂利を踏む音だけを一定に保っておられる。合わせているのではない。わたしが乱した歩幅を、隣で静かに合わせ直しているのである。


 石畳に、二つの影が長く並ぶ。ひとつは仔馬の形をして、わたしの影より少しだけ遅れて付いてくる。触れてはいないのに、曲がり角では重なりそうになる。影の歩幅は、ずいぶん正直である。


 嫌だったのは、名簿の筆頭という位置ではない。候補として並べられたことでもない。


 ――他に五つ、名前があったことが、嫌だったのである。


 認めるまでに、坂をひとつぶん掛かった。四年のあいだ、わたしは自分の感情へ名前を付けずに歩いてきたのである。嬉しいも寂しいも、言葉にしなければ、置いていかれても振り返らずに済む。名前さえなければ、失ったときにも数えずに済む。欲しがらない癖もまた、同じ家で覚えた、たいへん行儀のよい作法であった。ただし、その作法は足元まで整えてくれない。


 ……今朝から喉の奥で歩みを止めていたものには、もう名前がある。声に出せば、あまりに短く、あまりに分かりやすい言葉になる。恥ずかしいので、当分はそこに立たせておく。喉は少々つかえるが、お返事よりはましである。


 辻の別れ際、グスタフどのが、いつもと同じ隙のない会釈とともに、次の日取りを告げた。


「明日より、肖像の儀にございます。宮廷画家のダールベルク先生が、王都館へ」


「五つ目ですね」


「はい。……先生は、少々お癖の強い方と伺っております」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。