13. 肖像画は、二枚で
十六日目の昼、公爵家の王都館の広間は、朝から画布と絵の具の匂いで満ちていた。扉を開けただけで、その濃さが舌にまで残る。
油と樹脂が混じった、甘く重たい匂いである。窓掛けはどれも半分だけ下ろされ、広間へ差す光は北向きの一方向にきっちり揃えられている。絵を描くための光は、散歩の道筋まで決めてやらねばならないらしい。
五つ目の申し合わせは、肖像の儀――互いの姿を描かせ、その絵を交換すること。つまり今日からは、わたしも眺める側ではなく、じっと眺められる側である。
宮廷画家フォルカー・ダールベルク先生は、背が高く、長く細い指をした方であった。挨拶は完璧である。完璧すぎて、頭は下がっても、目だけはわたしではなく顔の輪郭を見ている。
「では、肖像の儀を始めましょう。……ときに、閣下」
先生は画布の前に立ち、細い指を重ねて優雅に手を組んだ。声だけを聞けば、このあと無礼なことを仰る方とは思えない。
「人のお姿の一刻を、朝に頂けますかな? 犬の絵など、後世への申し開きが立ちません」
広間は、しんと静まる。絵の具皿を洗っていた手まで止まり、水音は途中で切れた。
「呪いのお姿を家に残すなど、家門の恥にございましょう。……そちらのご令嬢も、犬の連れのままでは、お困りでしょうしな」
――黒い毛並みの奥から、低い音が床へ落ちる。
唸り声である。腹の底から押し出される、太く長い獣の声。板張りの床が足の裏へ震えを返し、窓の硝子が細かく鳴る。絵の具皿の水面には輪が広がった。先生の顔から見る間に色が引き、指を離れた絵筆が床を打って、ひどく乾いた音を立てる。
わたしは浅く息を吸う。この方の唸り声を聞くのは、これが初めてである。
……この方は、犬の絵は残せぬと言われても、唸らなかった。呪いと呼ばれても、家門の恥とまで言われても、黒い前脚を揃え、じっとお座りになっていたのである。それでも唸った。わたしが「犬の連れ」と呼ばれ、その言葉が広間へ落ちた、すぐあとに。
自分のことでは、この方は唸らない。
耳の奥で、いまの唸りがまだ低く続いている。四年間、わたしのために声を荒げた人は、母のほかにない。婚約者だった方は、わたしが笑われた席では周囲と同じ歩幅で笑い、あとになって「気にしすぎだ」と仰った。その言葉を受け取るたび、笑われたわたしのほうが礼を欠いたように頭を下げたものである。けれど、気にしすぎだ、という言葉は、どうやらこういう場面のためにはない。少なくとも、床は震えない。
膝の上で重ねた指先から、少しずつ熱が引いている。冷たい手をきちんと組み直し、わたしは息をひとつ、静かに整える。
「先生」
わたしは、声の端に揺れが出ないよう、なるべく平らに申し上げる。言葉はまっすぐ歩かせたほうが、こういうときには遠くまで届く。
「二枚、描かせましょう」
「……は?」
「犬のお姿と、人のお姿と。二枚でございます」
「し、しかし、それでは手間が倍に」
「画料も倍をお出しになりますでしょう。公爵家ですので」
先生の喉が、返す言葉を探すように大きく上下した。先ほど落とした絵筆より、こちらのほうが拾いにくそうである。
「そのとおりにございます」
グスタフどのが、いつもの静かな声で、こちらに言葉を添えてくださる。家令どのまで同じ歩幅なら、先生だけが立ち止まるわけにもいかない。
「それに」
わたしは、絨毯の上に座す大きな黒犬へ目を向ける。窓からの細い光が毛並みをなぞり、その目だけが、まっすぐわたしを見返している。
「どちらも、あなたですから」
黒犬は、ぴくりとも動かない。
伏せられていた耳だけが、ゆっくりと前へ戻る。床に置かれた尻尾の先は一度だけ絨毯を払い、毛並みのそばで薄い埃が舞った。ずいぶん静かで、たいそう分かりやすいお返事である。
「……嬢様」
グスタフどのが、たいそう低い声で申された。低いだけで、少しも重たくない声である。
「本日の茶菓子は、わたくしの一存で一皿増やします」
「理由を、伺っても?」
「ございません」
家令どのの一存には、時々、理由がない。理由のない一存ほど、当てになるものはない。
……犬の姿を仮のものだと思ってきたのは、たぶん、この広間で先生ひとりではない。わたしも、人のお姿へ戻られる朝を本当と呼び、黒い毛並みの夜を、そこへ至るまでの雪道のように扱ってはいなかったか。九年の関門勤めのあいだ、この方は、ご自分の何を仮のものと数えて生きてこられたのだろう。次男の勤め。兄の代わりの当主。獣の姿の、今。どれも、この方が同じ歩幅で進んでこられた時間である。そう並べてみれば、二枚と言った自分の声が少し震えたことくらい、責めずにおける。幸い、先生は声を描けない。
十七日目の朝、丘へ上る道には、画家先生と画板を胸に抱えた助手が加わった。朝露に濡れた石道を、引き紐を握るわたし、黒犬、家令どの、そのうしろに絵の一行が、長い歩幅と短い歩幅を混ぜて進む。市場のおかみさんは籠を下ろす手を止め、わたしたちを指で数えていた。途中からは、わたしも何の行列か分からない。
その丘は、画家先生にとって、眺めのよさを喜ぶ暇もない画室である。夜明けの鐘とともに黒い毛並みが光の中でほどけ、人の輪郭が組み直された瞬間から、先生の手はもう追いつかない。人の姿の一刻は短く、描ける時間は語らいと決裁の合間しかない。先生は炭を握り、短い朝に置いていかれまいと手を走らせ、グスタフどのが風にあおられる画板を支え、朝日は誰の事情にも構わず角度を変えていく。
「世界で一番、眺めのいい画室でございます」
グスタフどのは、今日も揺るぎなく誇らしげである。となりの画家先生は、返事の代わりに炭を削っている。
草の青い匂いに、炭の乾いた粉の匂いが混じる。丘を渡る風が画板の紙を鳴らし、そのたびに先生の喉から悲鳴に近い声が漏れた。朝露を吸った靴の先は冷え、裾にも細かな草の雫が光っている。その冷たさの中で、彼の雪焼けした横顔だけが、新しい雪のように少しずつ光を集めていく。目元の厳しい線も、黙って結ばれた唇も、犬の姿と同じ方のものだった。
やがて、炭が画板をこする音の中で、彼がこちらを見ないまま低く尋ねる。
「……あなたは、俺の何を見て、二枚と言った?」
「両方とも、同じ目でこちらをご覧になりますので」
画板の上で、炭の音がぴたりと止まる。風だけが、置き去りになった言葉の先を歩いていく。
「昨日の広間で、あなたは唸られました。ご自分が何と言われても、お座りのままでいらしたのに」
「……あれは」
彼は、そこで言葉を切り、丘の向こうへ目を逃がす。朝の光の中で、結ばれた唇の線だけが、先ほどより深くなった。
言い訳に使える言葉が、雪の下へすっかり隠れた人の横顔である。この方は、ご自分のことについて嘘をつくのが、たいそう下手でいらっしゃる。人のお姿には尻尾がないのに、かえって分かりやすい。
「お答えは、結構です」
わたしは彼の横顔から目を戻し、膝の上で、冷えの残る手をそっと重ね直す。指先にはまだ細かな震えがあるが、次の言葉なら、まっすぐ歩かせられそうである。
「唸ってくださったことは、こちらで数えておきますので」
炭が画板を走る音が、ためらいがちにまた始まる。朝日は彼の雪焼けした横顔を、耳の縁から頬へ、ゆっくり順に照らしていく。固く結ばれていた唇の力だけが、わずかにゆるんだ。先生の炭は、そこを逃さない。
その沈黙は、どんな言葉よりもゆっくり、わたしの内側を歩いていく。生涯忘れないだろう、とは申し上げず、これもこちらで数えておく。
一刻が尽き、光の中で彼は犬のお姿へ戻られた。肩から背へ黒い毛並みが広がり、最後に耳が立つまで、ダールベルク先生は炭を宙に止めたまま見つめている。やがて先生は二枚目の画板へ向き直り、今度は促される前に、自分から口を開く。
「……閣下。犬のお姿は、右からがよろしいかと。毛並みが、光を受けます」
商売人である。けれど、悪い目ではない。
昼を回ってから、広間へ戻り――今度は、わたしの下絵が取られた。椅子に浅く腰かけ、手は膝の上、目は窓の方へ。半分下ろされた窓掛けの向こうで、昼の光は薄い雪のように白く、動かずにいる肩へ静かに積もってくる。先生は「もう少し、口の端を」と何度も仰ったが、そこだけは丁重にお断り申し上げた。おかしくないときに笑うと、絵の中のわたしまで嘘をつく。壁に残すなら、せめて嘘をつかないわたしがよい。
交換は、絵が仕上がってからである。彼の二枚のうち一枚と、わたしの一枚。獣の姿の絵は、北の本邸へ送るのだそうである。人のお姿の代わりではなく、獣のお姿のまま、家の壁に掛かる。北の本邸の壁は広いので、場所には困らない。
壁には、下絵が三枚並ぶ。人の姿と、獣の姿と、わたし。炭の線はまだ荒く、肩や袖、前脚の線は途中で途切れているのに、三枚とも目だけは先に描き込まれていた。どの目も、同じ静けさでまっすぐこちらを向いている。少し離れて眺めれば、誰が誰を見守っているのか、分からなくなる。
仕上がりまでは、ひと月かかるという。ひと月。……その言葉は、わたしと先生のあいだをゆっくり歩き、雪のような冷たさだけを残す。わたしも先生も、あえて数え直さなかった。絵の具は、急かしても乾かない。
その日の午後、王家の使いが参る。扉が開くと、広間に残る絵の具の匂いへ、外の冷たい風と馬の汗の匂いが流れ込んだ。黒犬が音もなく顔を上げ、わたしも膝の上の手をほどく。銀の封蝋に、百合の紋。
召見の刻限は、明日の夜明けの鐘。黒い毛並みがほどける、その瞬間に始まる。――一刻の、まるごとである。




