14. 会えない朝
十八日目の夜明け前、空がまだ青みを帯びた灰色に沈むころ、わたしはいつもどおり、辻に立っていた。
誰も来ないことは、辻へ出る前から知っている。
王への召見は、夜明けの鐘が鳴る刻限に定められた。人の姿でなければ署名も礼もできない以上、あの一刻だけは今朝、王宮のものである。丘には立てない。散歩は、欠ける。
だから、これは待っているのではない。足が勝手に辻まで運んだ、ただの習慣である。習慣は、誰が来なくても欠けない。それが習慣の、いちばん都合のよいところである。
空いた隣へ目をやらず、わたしはひとりで歩き出した。
街は、いつもどおりに目を覚ましつつある。パン屋の窯には火が入り、焼ける小麦の匂いが冷たい空気へにじむ。荷馬車は石畳を硬く鳴らし、八百屋のおかみさんが朝露の残る天幕を勢いよく上げている。
「あれ、嬢ちゃん。でっかいのは?」
「本日は、御用でございます」
「そりゃ寂しいねえ」
寂しい、と他人の口から言われて、わたしは初めてその言葉を自分の胸へ置いてみる。……困ったことに、収まりがよい。
道が、妙に長い。
同じ道である。歩幅も、靴も、折り返しの丘も昨日までと同じで、変わったものは何ひとつない。なのに隣が空いているだけで、坂はやたらと先へ逃げる。石畳の継ぎ目の数まで増えた気がして、数えて確かめかけたが、途中でやめた。今朝の石畳は、少々しつこい。
丘の頂へ着き、鐘の音が屋根の上を渡っても、朝の光は薄雲の中でほどけず、露を含んだベンチの木目は白く冷えている。わたしは座らなかった。腰を下ろせば、待っていることになりそうだったのである。
――四年間、わたしは待たされ続けていた。今朝は、ただ会えないだけである。
この二つが、こんなに違うとは知らなかった。待たされる朝には、腹の底へ雪の粒が一つ積もる。会えない朝には、そこにあったはずの温度が、ひとつぶん足りない。雪なら数えられるが、足りない温度は数えられない。
数えられないものを胸に入れたまま坂を下るのは、生まれて初めてである。自分の歩幅なのに、どうにも合わせづらい。
フロッケと歩いた道である。この道をひとりで歩くのは、十四の年からの当たり前だったはずなのに、たった十七日で身についた歩幅が、道をこんなに広くしてしまう。
昼過ぎ、グスタフどのが伯爵家へお寄りになり、召見の首尾を伝えてくださる。きちんと整った襟元には王宮の朝の冷気がまだ残り、口元だけが、何かをこらえるようにわずかに緩んでいた。
「滞りなく。……ただ、殿が一度、王の御前で言い間違えを」
「何と仰ったのですか?」
「『犬のうちに、と申しますか、その』と」
「……それは、どういう意味でしょう?」
「わたくしにも分かりかねます。陛下は、たいそうお笑いになったとか」
言い間違えの中身よりも、この方が言い間違えたという事実のほうが、よほど重大である。言葉を一歩も踏み外さない、あの正確な方が。よりにもよって、王の御前で。
……もしや、上の空でいらしたのだろうか。召見より先に、何か別のことへお心が向いていたのかもしれない。
その仮定を胸の中で一度だけ歩かせ、わたしは慌てて道の端に止めた。仮定は、証拠が揃うまで先へ進ませない。それが、わたしの流儀である。道の端で足踏みをしている気配は、しないでもないけれど。
夕刻。庭の楓が傾いた西日を透かし、葉先まで赤く染まりはじめた頃、窓の外に、黒い毛並みがそびえていた。
夕日の中の黒犬は、朝の黒犬より輪郭が濃い。足もとから伸びた影は庭を長く横切り、逆光に縁取られた毛並みだけが、細い金色にほどけている。
口に、何かをくわえている。見慣れた革の引き紐である。金具が西日を返し、鼻先で小さく揺れている。
「……散歩の、埋め合わせに来た」
「埋め合わせ、ですか?」
「約束は、雪より重い。……今朝は、こちらの都合で欠けた」
「グスタフどのは、ご一緒ではないのですか?」
「使いに出した。伯爵家の門までは家の者に持たせて、あとは俺が咥えてきた」
王都でただ一人、自分の引き紐を自分で運んでくる公爵である。わたしは受け取り、金具を首輪の環へ通す。金具が小さく鳴ると、朝からずれていた歩幅が、ようやく元へ戻った。紐は、今日もたるむ。
というわけで、わたしは生まれて初めて、夕方の散歩に出る。太陽の位置が違っても、隣の毛並みは同じである。
夕方の道は、朝とはまるで違っていた。家々の窓からは煮込みや焼いた肉の、夕餉の匂いが流れ、遊び足りない子供の声が壁の間を跳ねる。仕事帰りの人の流れは朝と逆で、犬を連れた令嬢を見つけるたび、みな二度見をしてから笑う。西日は石畳をやわらかな橙に染め、黒い毛並みの縁を、朝とは反対の側から細く照らしている。
「朝と、違いますね」
「ああ。……朝の方が、静かでいい」
「わたしもです」
嘘ではない。静かな方がよいのは本当である。ただ、今朝のあの静けさだけは、二度と要らない。あれは静けさではなく、来ない足音だけをいつまでも拾う時間で、耳にうるさすぎる。
丘の頂で、二人で王都を見下ろした。夕方の王都は朝より屋根の色が深く、煙突の煙が、風のない空へまっすぐ立ち上がっている。遠い窓には早くも灯りがにじむ。鐘は鳴らない。彼は犬のままである。
人にならない彼の隣に立っているのに、朝より落ち着かない。すぐそばの毛並みが温かいぶん、今朝ここに彼の足音がなかったことを、体の方がはっきり思い出してしまうのである。
「王の御前で、何かお間違えになったとか」
「…………誰が言った?」
「家令どのから、伺いました」
「あの男は、いずれ首だ」
首にはならない。この家の力関係は、もう覚えた。
わたしは黒い頭の隣にしゃがみ、耳の後ろへそっと手を置く。掌の下で、毛並みが温かく沈む。冬の雪を寄せつけないほど深く、指を入れると、彼がここにいるという温度がゆっくり戻ってくる。夕方の毛並みには日向の匂いが残り、朝より少しだけ埃っぽい。
「明日は、いらっしゃいますか?」
「無論だ」
「では、明日は道が短いと思います」
彼は、その意味を聞き返さなかった。問い詰めず、こちらの言葉が自分で歩き出すまで待ってくださる。それが、この方の礼である。
――明日の道は、たぶん、本当に短い。そうなる理由には、もう名前がある。その言葉も、そろそろ喉の奥から歩かせたほうがよいのかもしれない。ただ、行き先を決めていない言葉を放すのは礼に欠けるので、今日のところは、また預かっておく。
帰り道、空の色が橙から薄紫へ移るころ、辻の手前で、わたしたちの足音に別の足音が重なった。
振り返ると、灰色の老犬である。夕闇の中で、白くなった鼻先だけがぼんやり浮いている。
つかず離れず、十歩ほど後ろを歩いてくる。角を曲がっても、まだ十歩。老犬の足音は急ぎも迷いもせず、同じ歩幅のままついてくる。今日は、路地へ帰らない。




