15. 灰色卿と、腸詰めパン
十九日目の朝、夜の冷えが石畳に薄く残る辻には、犬が二頭いた。
黒犬と、灰色の老犬である。老犬は昨夜からずっとそこにいたような顔で、朝露に濡れた街灯の下へ行儀よく座っている。
「おはようございます。昨日は、途中までご一緒でしたね」
老犬は目尻の毛を寄せるように、ゆっくり目を細める。どうやら、返事の代わりらしい。
「お名前を、伺ってもよろしいですか?」
当然ながら、老犬から返事はない。代わりに黒犬が横から、喉の奥で低く言う。
「野良に名はない」
「では、こちらで付けても構いませんね?」
傍らで成り行きを見ていたグスタフどのが、いつもの引き紐を差し出しながら、小声で申し添える。
「本日も、条例のぶんは携行しております。……お連れが増えました場合の、もう一頭ぶんは、ございませんが」
「そちらの方は、たぶん、条例の外でいらっしゃいます」
わたしは老犬の前へ膝を折り、目の高さをそろえて、正面から申し上げる。
「どなたか存じませんが、風格がおありです。今日から、灰色卿とお呼びします」
朝の風が、灰色の毛並みを一度だけ撫でてゆく。灰色卿はわたしの言葉を確かめるようにたいそうゆっくり立ち上がり、当然の顔で先に立って歩き出す。
そのすぐ後ろで、黒犬の耳が、ぺたりと横へ倒れる。
市場は、荷車のきしむ音と焼いたパンの匂いが重なる、いつもの朝である。月は日ごとに丸みを増しつつあり、あと十一日という数を、わたしは今日も口には出さない。数えないと決めた数は、数えないほうが、今日の道を小さな歩幅で進める。
「よお、傘の嬢ちゃん。今日は二頭かい?」
八百屋のおかみさんが、朝露のついた青菜を積んだ荷台の陰から、腸詰めのはさまったパンをひょいと掲げる。
「昨日の売れ残りだけどね。でっかいのと、そっちの爺さんと」
「頂きます。三等分にいたします」
「あんた、自分の分も数えるのかい?」
「もちろんです。並んでください。順番です」
灰色卿が先。次に黒犬。最後がわたし。足もとにできた小さな列の順番は、あの雨の軒下と同じである。
三等分するわたしの手つきを、市場の何人かが足を止め、口もとを緩めながら眺めていく。犬に傘を差す令嬢は、いつのまにか、犬にパンを分ける令嬢にもなったらしい。噂の足は、朝の散歩より速い。追いついて抗議することは、もう諦めている。
灰色卿は目を閉じ、固くなったパンを奥歯でゆっくり噛んでいる。黒犬は自分の番を待つあいだ、前脚の先まで微動だにしない。じっと、灰色の背中だけを見ている。
……見ているというより、睨んでいる。獣の目のまま、たいそう子供っぽい睨み方である。
やがて黒犬の尻尾が、目に見えるほどゆっくり下がっていく。だらり、と地面につくほど低く垂れたままである。
「殿は、面白くないと仰せです」
グスタフどのは、まったく表情を変えないまま、声だけで通訳する。
「わたくしめの拝見しますところ、順番のことではございません。パンの大きさでもございません。……嬢様が、灰色卿へ先に膝をお折りになった件かと」
「グスタフ」
「はい」
「黙れ」
「かしこまりました」
黒犬の耳が、またぺたりと倒れる。灰色卿は何も知らぬ顔で、朝空を映す水たまりを正確に避けながら歩いている。
丘の頂で鐘が鳴り、朝の光が黒い毛並みの上を走る。犬の輪郭は淡くなり、そこに人の姿となった彼が現れる。彼はベンチに座るなり、明後日の方を向いて言う。
「……犬に嫉妬はせん」
「どなたも、そのようなことは申しておりません」
「言っていない」
「はい。仰っていません」
朝日が二人のあいだを細く照らし、ベンチの木目を明るく浮かび上がらせる。彼は膝の上で手を組み、重ねた指へ視線を落としたまま、しばらく黙る。やがて、わたしにようやく届くほどの小声で付け足す。
「……ただ、あの老犬は、あなたに名を貰った」
わたしは、返事の置き場所に困る。「名を貰った」という短い言葉が、わたしのすぐそばまで歩いてきて、そこから動かない。
困ったときは、正確に申し上げるに限る。
「公爵様には、お名前がございます。ヴィルヘルム・ノルトヴァルト様と、初めての朝に伺いました」
「……そうだったな」
「わたしがお付けする必要が、ありませんでしたので」
風が丘を渡り、草の先を同じ向きへ伏せていく。彼はそれきり黙って、決裁の書類にひたすら署名を続ける。ペン先は途切れずに走り、その速さだけが、いつもより少し増している。
ペンの速さに名前を付けるのは、わたしの係ではない。係ではないが、頬のあたりが少し温かいのは、朝日のせいということにしておく。朝日は問い返してこないので、たいそう便利である。
名前を付けずに済ませてきた四年ぶんの癖が、この頃、朝ごとに薄い雪のように消えていく。雪の下から現れたものへ触れようとすると、指先より先に言葉が引っ込む。
坂の中腹では、灰色卿が朝露の残る切り株の脇に寝そべり、こちらを見上げている。長い散歩をいくつも知っているような、古い目である。見張られているというより、見守られているようで、わたしの歩幅がわずかにゆるむ。たぶん、わたしに都合のよい読み違いであろう。
やがて、鐘から一刻。書類の束が箱へ収まり、留め具が鳴るのを合図のようにして、朝の光の中で輪郭が薄れ、隣は黒い犬へ戻る。
帰り道の辻で、わたしは足を止め、老犬に向き直る。
「灰色卿。また明日」
灰色の尾が、ゆっくりと、一度だけ左右へ動く。挨拶を返されたと思ってよい、控えめで立派な振り方である。
初めてである。
黒犬は前脚まで固まり、グスタフどのは何も見なかった顔で、そっと咳払いをする。灰色卿は用は済んだという顔で、朝の路地へ悠々と帰っていく。灰色の毛並みが角の向こうへ消えるまで、歩幅は少しも乱れない。あの背中の去り方を見るかぎり、名は間違っていなかったらしい。
「……本日の通訳は、辞退いたします」
◇
同じ頃、ハルダー男爵家の朝の食卓では、銀の食器が触れ合う小さな音の合間に、当主が声をひそめてこう言ったという。
――公爵家の見合いが、ひとつ残らず流れたそうだ。北の家宰どのは、まだ候補をお探しでいらっしゃるらしい。
――娘には、微笑む稽古など要らない。あれは生まれつき上手い。
フィオナ様は微笑んだまま、砂糖の壺へ白い指を伸ばす。銀の匙が壺の縁へ触れ、かすかな音だけが食卓に残る。
その朝、ギルモア侯爵家へ発つはずだった返書は、書き上がったまま卓に置かれ、窓からの光だけがその上を移っていく。夕方には、誰の手にも渡らぬまま引き出しへ移された。
――急ぐお話ではありませんでしょう。まだ、どちらとも決まっておりませんもの。
完璧な微笑みは、二軒ぶんの家の都合へ、少しも違わぬ角度で向けられている。砂糖は、いつもどおり甘い。




