16. 「犬とでも」の男
昨日の午後のことである。
母に連れられ、王都で二番目に古いという仕立屋の控えの間で、順の来るのを待っていた。壁ぎわの長椅子は詰め物が硬く、腰を下ろしただけで背筋まできちんと正される。磨き込まれた床には、古い木と新しい布の匂いが静かに重なっている。月の終わりには王妃陛下の舞踏会があり、そこで六つ目の申し合わせ――一曲の儀を踏むことになっている。踊る当人が犬であっても、令嬢の衣装だけは仕立てねばならないらしい。笑うに笑えず、膝の上の指先だけをそろえた。
仮縫いの布には、まだ粗い糸目が残り、肩を動かすたび、完成までの遠さがかすかに伝わる。色は空色を一段沈めたような灰色で、母が「目立たずに済んで、それでいて埋もれない色」と言って選んだものだ。光を受けると、冬の朝の空のように、冷たくやわらかく見える。針を打つ音、鋏の音、糸切り歯の小さな音が、静かな部屋へ細い雨のように続く。明かり取りの窓は高いところにあり、午後の光が斜めに落ち、絨毯の毛先と宙を漂う細かな埃を白く光らせている。衝立の向こうでは、別のお客が同じように待ち、衣擦れに混じって若い声をひそめている。
「――あの方、もう『犬とでもの男』と呼ばれておりますって」
若い声が三つ、ひとまとまりになって笑う。鈴を指で転がしたような笑いが、こちら側まで軽く弾んでくる。
「ご自分でお言いになった言葉ですものねえ」
「言った先が公爵閣下では、割に合いませんわ」
わたしの口の端が、わたしの意思を追い越し、ほんの少しだけ上がる。
――三秒である。
数えてしまうのは、染みついた癖のせいだ。三秒が過ぎたところで、わたしは口の端をそっと元の位置へ戻す。人の渾名で笑うのは、行儀が悪い。それをした自覚はきちんとあるのに、胸の奥へ差し込む息は、なぜかいつもより軽かった。四年のあいだ、あの方の名前は、わたしの中でずっと重石の形をしている。けれど今日は、その重石がほんの少し浮き、凍りついていた心に細い道ができた気がする。
母は針山から待ち針を一本抜き、布の縁へ淡々と、けれど迷いなく刺していく。手つきに音がない。この方が針を持つと、どういうわけか、布のほうから息をひそめて黙る。
「あなた、いま笑いましたね」
「三秒です」
「短いこと。……わたくしなら、朝までよ。おほほほほ」
母は、そういう人である。
◇
二十日目の夜明け前、薄い霧のたまる辻には、いつもの三つがきちんとそろっていた。黒犬と、家令どのと、革の引き紐である。暗がりの中でも、黒犬の目だけは、わたしを見つけると静かな光を返す。
月は、太る側へ回っている。あの夜会の満月から新月まで痩せて、いままた、半分に近づきつつある。欠けていく月は数えずにいられたのに、満ちていく月は、見上げるつもりがなくてもどうしても目へ入ってしまう。何かがこちらへ近づいてくる、音のない足取りに似ている。夜明け前の空はまだ深い藍を残し、その中で、太りかけの月だけが薄く白い。
「本日も、条例のぶんを」
グスタフどのが引き紐を差し出す。金具を首輪の環へ通すと、慣れた重さと朝露の冷たさが手のひらへ返ってくる。北の鹿革は、毎朝のうちにすっかり、わたしの手のかたちだけでなく、握る力のゆるみまで覚えたようだ。紐は今朝も、たるんだままである。
坂の下の切り株のあたりでは、灰色卿が朝露を背に乗せて寝そべっている。行きは付いてこない。帰りだけ付いてくる。あの方には、あの方の日課があるらしい。その気ままな決まりごとが、なぜか少しうらやましい。
街は、まだ半分眠っている。パン屋の窯には火が入ったばかりで、粉と煙の匂いが冷えた空気の底を這い、荷馬車の輪が石畳を打つ音は遠く、夢の続きのように響く。空の端が薄桃色へほどけはじめ、軒先の影がゆっくり後ろへ退いていく。丘の頂で鐘が鳴ると、朝の光が一気にこぼれ、すぐ隣の黒が人の輪郭へ組み直される。見慣れてよいはずの変化なのに、そのたび、わたしの息はわずかに止まる。
わたしはベンチに腰を下ろした彼へ、昨日のことを順に並べて、できるだけ正確に申し上げる。
「昨日、仕立屋で、ランドルフ様の渾名を伺いました」
「渾名?」
「『犬とでもの男』だそうです」
彼はしばらく黙り込み、眉のあたりに寄った線が、ほどける先を見つけられずにいる。侮辱された顔でもなく、同情している顔でもない。強いて言えば、知らぬ間に自分まで渾名の中へ連れ込まれていたと知り、怒るべきか笑うべきか、心の置き場を探している顔である。
「……それは、俺の側の渾名でもあるな」
「そうなりますね」
「笑ったか?」
「笑いませんでした」
わたしはそこで、一度だけ息を置く。喉まで出た言葉を、飲み込みやすい形に整えたくなる。けれど、嘘はつかないと決めている。小さな恥を隠すために、その決め事を曲げたくはない。
「正確には、三秒だけ笑いました」
彼の喉の奥から、短い音がこぼれた。笑ったのだと気づくまで、少しかかる。それは、笑い方を忘れている人が、そこへ戻る道を思い出しかけた音である。雪の下で、見えない水が動きはじめたようでもあった。
「三秒か」
「行儀が悪うございました」
「行儀の話ではない」
彼は、明けていく王都の屋根を見たまま、静かに言う。朝日はまだ低く、屋根の一枚一枚は、東の側から縁だけを金色に染められていく。その光は彼の横顔にも触れているのに、灰色の目だけは、もっと遠いところを見ている。
「あの男の話をするとき、あなたの歩幅は乱れない」
……この方は、そういうところをご覧になっている。わたし自身さえ目をそらしていた心の小さな乱れを、言葉より先に見つけてしまう。
四年ぶんの名前を、わたしは長いこと口に出せずにいた。口にすれば、その響きの中に、置いてきたはずの自分がまだ立っている気がしたのである。腹を立てるにしても、悲しむにしても、そこへ戻るには、心の歩幅を過去に合わせねばならない。そうするうちは、わたしの片足はまだ、あの四年の雪の中に埋まったままだ。けれど今朝は、渾名まで口にしても、坂の途中で足がもつれることはない。
過去というものは、たぶん、こうやって静かに軽くなる。名前を呼べるようになった日ではなく、呼んでも何も起きなかった日に、終わるのだと思う。
「歩幅が乱れるのは」
わたしは膝の上で手を重ね、逃げ出しそうな指先を、もう片方の手でそっと包む。
「別の話のときです」
言葉が口を離れてから、これは言い過ぎであったと気づく。彼の手が署名の途中で止まり、ペン先は紙の上で一度だけ行き先を失う。落ちたインクの玉が紙の目へ少しだけ滲み、わたしたちのあいだの沈黙まで、そこに留めているように見える。
「……どの話だ?」
「決裁の途中でございます。お手を、お動かしください」
グスタフどのが、何も聞かなかったことにするように咳払いをし、朝日がゆっくり丘を渡っていく。夜露を含んだ草はしっとりと重く、光の触れたところから順に、白い湯気のような色を立ちのぼらせる。冷たい朝の中で、頬だけがひどく熱い。坂を上ってきたせいだと、心にも言い聞かせておく。
鐘から一刻。最後の一枚が箱へ収まるのと同時に、隣にあった人の輪郭が朝の光へほどけ、黒い犬へ戻る。つい先ほどまで言葉を交わしていた声は消えたのに、そのぬくもりだけが、ベンチのそばにまだ残っている。
帰り道、坂の中腹から灰色卿が当然の顔で加わる。やわらかな朝日に伸ばされた影が石畳へ三つ並び、そのうち二つは四本足である。ひどく妙な取り合わせなのに、連れ立つ歩幅は、いつの間にか同じになっていた。
◇
同じ日の昼、薄い日差しの入るハルダー男爵家の客間で、当主は茶器にも目を落とさず、こう言ったという。
――公爵家の見合いは、いまだ調わぬそうだ。
――ギルモアのご嫡男の話は、しばらく置いておこう。急ぐ話ではない。
フィオナ様は、いつもの角度で微笑まれた。
――お父様。今日のお茶は、薔薇の香りがいたしますわ。
その日の夕刻、廊下を夕日が赤く染めるころ、父が青い顔で書斎から出てくる。手には、封を切ったばかりの文が一通ある。その文を握る指先の震えが、白い紙の端にまで伝わっている。
ギルモア侯爵家から、使いが参ったという。その名が落ちたとたん、夕日の残る廊下まで、急に冬へ戻ったように冷えた。
「……復縁の、お話だ」




