17. 復縁のお話は、お断りします
その夜の応接間には、燭台が二つ灯り、蜜蝋の匂いを含んだ淡い光が、夜の冷えを押し返すように壁を染めている。
卓の上には、封を切られた文が一通、淡い火を受けて静かに横たわっている。ギルモア侯爵家の当主じきじきの筆である。破棄は若君の一時の激情によるもので、家としては非を認める――そう書いてあるらしい。らしい、というのは、父が読み上げた部分しか聞いていないからである。父の声が途切れるたび、紙の擦れる音だけが妙にはっきり耳に残った。
「向こうの当主が、頭を下げておられる」
父は文の端を指で押さえ、落ち着かないまま、その指を何度も置き直している。蝋燭の火は、そのたびに小さく揺れる。壁に映る父の影も、燭台の揺れに合わせてゆらゆらと大きくなったり縮んだりして、本人よりずいぶん忙しい。まるで言い出しにくい言葉を、影だけが先回りして探しているようである。
「セシリア。……お前の四年は、無駄にならずに済む」
無駄。そのひと言は、たぶん父が懸命に選んだ、いちばん優しい言い方なのだと思う。娘が歩いてきた四年を惜しんでくださっている。その思いに嘘はない。ただ、無駄かどうかを決める権利まで、いつのまにか父の手の中に収まっている。父だけが、それに気づいておられないらしい。
母は暖炉の脇の椅子で、編みかけの毛糸を膝に置いたまま、何も言わない。けれど指先は毛糸の端にそっと触れ、動かずにいる。言わないことで、待ってくださっている。
「お父様」
わたしは背を伸ばす。
「四年のあいだに、三百十二まで数えました」
「何をだ?」
「あの方が、約束の刻限に来られなかった数です」
燭台の火が、息を詰めたように細く伸びる。
「三百十二で、数えるのをやめました。それから先の数は、持っておりません。……数えるのをやめた日に、わたしの婚約は終わっております。今夜のお話は、終わった婚約の、あとの話でございます」
父の口が、半分ほど開いたまま止まる。問い返す言葉も、諭す言葉も見つからないらしい。
「し、しかし、それは、その、若気の至りというもので」
「あなた」
母が毛糸を膝から静かに下ろす。
「この子は今夜、数を答えました。数は、気分では動きませんよ」
父は胃のあたりを押さえ、それきり口を開かない。この家の力関係である。
「……胃の薬は、まだあるか?」
「北から届いたぶんが、たっぷりございます」
母の返事には、たいそう楽しげな響きが混じっている。口もとも、隠す気のない笑みにゆるんでいた。
自分の声が思っていたより平らだったことに、わたしは少し驚いている。胸の底に沈んでいた四年ぶんの重さを、数ひとつ口にしただけで下ろせるとは、考えてもみなかったのである。数える癖は、ずっと自分の情けなさの印だと思ってきた。数えなければ耐えられなかったのだから、数えた分だけ、わたしは弱かったのだと。けれど、どうやら違ったらしい。あれは傷そのものではなく、傷つきながらもわたしが歩いてきた足跡だったのである。あの数字があるから、もう自分の痛みを見失わずに済む。数えるのが得意でよかった、と生まれて初めて思う。そう思えた胸の内に、遅い雪解けのようなぬくもりが、静かに広がっていく。
◇
二十一日目の夜明け前、わたしはいつもどおり辻に立ち、いつもどおり差し出された引き紐を受け取る。空はまだ夜の藍を抱いており、石畳には冷えた露がうっすら光っている。
「本日も、条例のぶんを」
「ありがとうございます」
黒犬は歩き出す前に、一度だけこちらを見上げる。夜明け前の暗がりでも、犬の目はわずかな光をよく拾う。灰青の目には、消え残りの街灯が二つ、小さな星のように映っていた。その静かな視線が、こちらの言葉を急かさずに待っている。
「……何かあったか?」
「散歩を終えてから、申し上げます」
彼はそれきり、何も聞かない。わたしが自分の歩幅で言葉にたどり着くまで、黙って隣を歩いてくれる。
道は、いつもの道である。パン屋の窯からこぼれる香ばしい匂い、荷馬車の車輪が石を踏む乾いた音、夜に取り残されたような消え残りの街灯。話さないと決めた話は、口にしないかぎり重さを持たない。そう思っていれば、坂も普段どおりの歩幅で上れる。四年前のわたしなら、たぶん道の途中で何もかもこぼしていた。誰かに聞かせ、その人の手で軽くしてもらおうとしたはずである。けれど、いまはそうしたくない。抱えたままでも、自分の歩幅で坂を上れると、ようやく知ったからである。この道は、わたしがまっすぐ歩くための道であって、荷を下ろす場所ではない。隣の足音が急かさずにいてくれるからこそ、話す時を自分で選べる。
丘の頂で鐘が鳴り、朝の光がほどける。その光の中で黒い毛並みが人の輪郭へ移り変わり、彼はベンチに腰を下ろす。今朝の決裁は、北の街道の雪かきの割り当てだという。
「峠の三里ぶんの受け持ちを、村ごとに割り振る」
「雪は、まだ降りませんでしょう?」
「降ってから決めるのでは遅い。北では、割り当ての遅れた年に人が死ぬ」
彼はそう言うと、ためらいもなく次の一枚へ署名を落とす。ペン先のかすかな音には、雪より先に冬へ備える意志がこもっている。
約束は雪より重い、という家訓の出どころが、今朝はじめて指先に触れたようにわかる。この方の言う重さには、いつも誰かの命の数が含まれている。わずかな遅れが、雪の向こうで帰りを待つ人の心まで凍らせることを知っているのだ。だから、この方は言葉を安く使わない。そういう人の口から出た「断ってくれてよい」が、どれほどの覚悟をまとっていたのかを、わたしはこの頃、少しずつ知りはじめている。
鐘から一刻。最後の一枚が箱へ収まり、差し込む朝の光の中で彼の輪郭がほどける。人の肩も長い指も黒い毛並みへ溶け、隣は黒い犬へ戻った。
復路の坂を下り、朝の声が満ちはじめた市場を抜け、辻へ着く。焼きたてのパンの湯気と、店先を整える人々の声が、眠っていた街をゆっくり起こしていく。ここが、いつもの終いである。
わたしは引き紐の金具を外し、掌に残ったぬくもりごとグスタフどのへお返しする。それから息を整え、黒犬に向き直る。
「散歩が終わりましたので、申し上げます」
「ああ」
「ギルモア侯爵家から、復縁のお話がございました」
黒犬の耳が、ぴたりと止まる。石畳を行き交う朝の音だけが、その沈黙のまわりを通り過ぎていく。
「断りました」
「…………そうか」
「以上です」
黒犬は動かない。灰青の目だけがわずかに見開かれ、そのまま尻尾だけが、ゆっくりと大きく回りはじめる。左右へ、それから円を描くように、遠慮というものをまるごと忘れた振り方である。朝の光を受けた黒い毛は、回るたびに縁だけ銀色にきらめく。見てはいけないほど正直なものを見せられた気がして、わたしまで落ち着かなくなる。
「――風ですか?」
わたしは、なるべく平らな声で伺う。
黒犬は、しばらく尻尾を回し続けている。やがて耳をわずかに伏せ、それでも尻尾だけは止められないまま、観念したように、たいそう小さな声で言う。
「……無風だ」
朝の光が、辻の石畳を白く照らしている。街がすっかり目を覚ます前の澄んだ空気に、その短い言葉だけが、妙にあたたかく残る。
わたしは会釈をひとつ置いて、家の方角へ歩き出す。これ以上ここにいれば、平らな顔まで尻尾に負けてしまいそうである。
耳が熱いのは、坂を下ってきたせいということにしておく。坂は問い返してこないので、たいそう便利である。それにしても、この方は、風のせいにするのがずいぶんお上手である。上手な人が、今朝は一度も逃げなかった。
◇
その日の夕刻、昼の名残が西の空に薄く残るころ、グスタフどのが伯爵家の門へ参られる。
包みの中身は、北の胃薬である。包み越しにも、乾いた薬草の匂いがほのかに漂う。父のぶんは、ちょうど切れかけている。
「殿が、御父上へと」
門の外には、黒犬が座っている。日の落ちかけた石畳には、その影が細長く伸びる。西の空はまだ橙を残しているのに、黒い毛並みのほうはもう、夜の色へ半分沈んでいた。朝にはあれほど落ち着かなかった尻尾も、いまは前脚のそばで行儀よく動きを止めている。
「お心遣い、ありがとうございます」
「……ああ」
その二文字は、乾いた砂を含んだようにざらついている。
朝の丘で聞いた声とは、出どころが違う。喉の奥の、もっと深いところで、押し込めた何かがざらついている。何かを押し戻しているようにも聞こえるが、それが何かは分からない。
「お風邪でしょうか?」
「……喉が、渇いただけだ」
わたしは急いで水を汲んで戻る。けれど、黒犬は器へ鼻先を寄せることさえせず、口をつけなかった。水面には夕空の橙が揺れ、その向こうで灰青の目だけが、言えない言葉を抱えるように伏せられている。
黒犬はそのまま立ち上がり、来た道を帰っていく。夕闇へ沈みはじめた背中は、いつもより歩幅が狭い。振り返らないのは、たぶん、振り返れば声を出すことになるからである。そう思うと、呼び止めたい気持ちが喉までせり上がる。それなのに、どんな言葉ならあの背を傷つけずに済むのかわからない。門の閂に手を掛けたまま、わたしは黙ってその背中を見送った。掌の下の鉄は、夕暮れのぶんだけ冷えている。
空には、半分にあと少し足りない月が出ている。満ちきれない白い光は、それでも帰っていく黒い背を細く照らしていた。届かなかった言葉の代わりに、その光だけが、彼の足もとへ静かについていく。




