18. 相槌は尻尾で結構です
昨夜、グスタフどのが、冷えた夜気をまとって伝言を届けに来られる。
「明朝の散歩は、お休みを賜りたいとのことでございます」
「理由を、伺ってもよろしいですか?」
「……申し上げるな、と」
「承知しました」
承知しました、と申し上げた。お休みになりたいのはあちらのご都合で、わたしの散歩は、わたしの都合である。
二十三日目の夜明け前、辻には、わたしを待つ影ひとつなかった。
黒い山も、家令どのも、革の引き紐もない。手のひらが軽すぎて、腕まで居場所をなくしたように余る。冷えた空気が、いつもより深いところまで入り込む。夜明け前の街というのは、こんなにも音をなくすものだっただろうか。二十日ばかりのあいだに、わたしの耳は、隣で鳴る四本足の音を当てにして、世界の広さを測るようになっていたらしい。
わたしは、ひとりで歩き出した。フロッケと歩いた道である。ひとりで歩くほうが、この道ではずっと長く続いた作法なのである。元へ戻るだけだと言い聞かせれば、足だけは迷わず前を向く。
市場の手前で右へ折れ、坂へ入る。まだ暗く、閉ざされた店々の庇から、夜露が細く落ちている。石畳の継ぎ目は、足の裏が覚えている。それでも、ひとり分だけの靴音は、見慣れた道にまでよそよそしく響く。
坂の途中、古い樫の木の陰に、夜よりも濃い黒い山があった。
道の上ではない。道の外である。木の根の窪みに、あれほど大きな身を小さく畳み、夜の名残へ隠れるようにして座っている。
「お休みと、伺いましたが」
返事を待つより先に、目が別のものを見つけた。黒い前脚のあいだに、見慣れた革の引き紐が置かれている。金具の側だけが夜露を弾き、薄闇の中で鈍く光っていた。その小さな光だけで、休むという言葉の裏側を見せられた気がする。
「……引き紐まで、お持ちでいらっしゃいます」
休むと言った方の足もとに、条例のぶんが置いてある。この方はいつも、口で仰ることより、運ばせた物のほうが正直である。その正直さにほっとしたわたしもまた、口では何も言わない。
黒犬の喉が、言葉を押し出そうとしてかすかに上下する。けれど、声は形にならない。二度目にこぼれたのは、砂を擦るような、乾いてざらつく息だけである。
「……昨日の夕方から、そうでいらしたのですね」
黒い耳が、触れられたくないところを撫でられたように、ぺたりと横へ倒れる。
夜に声が細ったのだ。細ったところを聞かせたくなくて、この方は散歩を休むと言い、休むと言っておきながら、道の外に来てしまっている。嘘は、ひとつも吐かれていない。それでも隠しごとは、ちゃんと成立している。
わたしは、樫の根の隣、黒い身体のぬくもりがかすかに届く場所へ腰を下ろした。
夜露で裾が濡れるが、濡れた裾は乾く。乾かないものだけを、人は困ったことと呼べばよい。土の冷たさは布越しにじわりと伝わり、樹皮は指の腹にざらつく。頭の上では、まだ葉の落ちきらない枝が風のたびに小さく鳴り、その音が、互いの沈黙の隙間をやわらかく埋めていく。
「では、話せないなら、わたしが話します」
黒犬が、思いがけないものを差し出されたように、ゆっくり顔を上げる。濡れた黒い瞳が、確かめるようにこちらを向く。
「相槌は、尻尾で結構です」
それから夜明けまでの間、わたしはずいぶん喋った。胸の奥に積もっていた言葉は、出口を見つけると、雪解け水のように途切れず流れていく。
この坂の石畳は、継ぎ目が百四十二ある。数えたのは十一の年で、以来ひとつも減っていない。母の壺は、割れる前から嫌いだった。柄が多すぎて、どこを見ても目が休まらないのである。仕立屋の待ち針は、母が刺すときだけ音がしない。その静けさだけは、今でも耳の奥に澄んで残っている。
雨の日のフロッケは、藁の匂いがした。濡れた白い犬の匂いは、藁と、少しだけ牛乳に似ている。あの匂いを、わたしは十四の年から一度も嗅いでいない。嗅ぎたくなかったのではない。嗅いでしまえば、次に「また来るね」を思い出し、その約束を置き去りにした自分まで、すぐ隣に蘇るからである。
婚約していた四年のあいだ、笑いかけられたのを二十六回と数えていた。数えていないと、初めから何もなかったように、ゼロになりそうな気がする。覚えておきたいはずなのに、数えるほど、道の先は静かに寒くなる。
欲しいものを言うのが、わたしは下手だ。言って、守れなかったら嘘になる。だから、欲しがらない癖がついた。癖は便利で、便利なものは、たいてい人を狭くする。狭いところは風も入らず、居心地がよい。居心地のよさは、たいてい人を長く留める。それでも今朝は、その狭い場所から、言葉だけが外へ歩いていく。
尻尾が、時々、草を打つ。湿った葉がさらりと鳴り、夜露の粒が暗がりの中でかすかに跳ねる。
打つ間隔が、話の中身によって少しずつ違う。フロッケの話のときは長く、母の壺のときは短い。相槌としては、そこらの殿方よりよほど正確である。人は相槌を打ちながら別のことを考えられるが、尻尾には、たぶんそれができない。
自分の声が、暗がりに吸われることなく、ずいぶん遠くまで届いていくのが分かる。これほど喋ったのは、フロッケがいた頃以来である。あのときのわたしは、返事の来ないことを寂しいと思わなかった。今も、思わない。ただ、返事の来ない相手に話すのと、返事の来られない相手に話すのとでは、こんなにも喉のあたたまり方が違う。隣にある沈黙が拒絶ではないと知るだけで、わたしの言葉まで、こんなに楽に息をつけるらしい。
空の端が白みはじめたころ、坂の下から、夜明けを踏むような足音が近づいてきた。
決裁箱を担いだグスタフどのである。肩の革帯が、坂の勾配のぶんだけ深く食い込み、吐く息は白く、歩くたび背後へほどけている。
「箱は、休みませんので」
「グスタフどの。殿をこの木の下までお連れになったのは?」
「わたくしめでございます。館からここまでの引き手を務め、紐を置いて、一度引き上げましてございます」
「お戻りになれと、仰せでしたか?」
「はい。……ただ、朝の箱までお休みとは、承っておりませんでしたので」
この家令どのは、たぶん最初から全部ご存じである。ご存じのうえで、言われたとおりに一度は引き上げ、言われていないぶんだけを担いで上がっていらした。その忠義は、まっすぐ従う道だけでなく、主の心へ回り込む小道まで心得ているらしい。
わたしは、前脚のあいだの引き紐を取り上げ、金具を首輪の環へ通す。夜露に冷えた金具は指先へ鋭く触れ、環と重なる音が朝の静けさに小さく響いた。
「ここからは、わたしが引き手です。……殿は、お休みではございませんでしたね」
黒犬の耳が、少しだけ前へ戻る。
丘の頂で鐘が鳴った。澄んだ音が薄明の街を渡るあいだに、光がほどけ、人の輪郭が組み直され、彼はベンチへ静かに腰を下ろす。
「……全部、覚えた」
それが、この朝の最初の言葉である。夜のあいだの沈黙をそのまま抱えたような、静かな声だ。
「百四十二だな。継ぎ目は」
「はい」
「藁と、牛乳」
「……はい」
彼は膝の上で手を組み、しばらく丘の下を見ていた。朝の光を受けた横顔には、聞いてしまった重さと、聞けた安堵が、どちらも静かに残っているように見える。
朝日が屋根の列を端から起こし、煙突の煙を淡い金色に染めていく。王都は今朝も、この二人が坂の途中で夜を明かしたことを知らないまま、いつもの歩幅で目を覚ましつつある。
「近頃は喉が獣に寄る。締めが近い証だ。……聞かせたくなかった」
「隠しごとは、嘘ではないとお思いですか?」
「……思わん」
「では、次からは、お休みの理由まで仰ってください」
「ああ」
わたしは膝の上で、手を重ねた。指先には、まだ夜露の冷たさが残っている。けれど、その冷たさを包む手のひらは、来たときよりもあたたかい。
「わたしは、理由があれば休みます。理由がなければ、歩きます」
彼が短く笑い、決裁箱の留め具を外す。
鐘から一刻。最後の一枚に署名が落ちるのと同時に、朝の光の中で彼の輪郭がほどけ、人の影が大きく揺らぐ。組んでいた手も、声を取り戻した喉も黒い毛並みへ溶け、隣は黒い犬へ戻った。
◇
その日の午後、王家の使いが、張りつめた気配とともに参る。
王妃陛下の舞踏会の、正式な招待状である。銀の封蝋に、百合の紋。午後の光を、ひやりと冷たく返している。文面は型どおりで、末尾に一行だけ、型ではない文字が添えられている。その一行だけが、まっさらな雪についた足跡のように、目から離れない。
――当夜、験の誓いを待つ。
招待状というものは、来てくれるかどうかを訊く紙である。待つ、と書いてある紙は、もう訊いていない。こちらの返事を待つふりさえせず、来るものとして道を塞いでいる。
「招待状に書く言葉ではございません」
グスタフどのの声が、いつもより低かった。封蝋の銀が窓の光を弾き、部屋には、雪の降り出す前のような静けさが広がる。




