19. 招待状に「誓い」の文字
二十四日目の夜明け前、街の空気が、夜のあいだにすっかり変わっていた。
辻へ向かう道すがら、まだ暗い窓の奥から、こちらをうかがう目がいくつもある。パン屋の主人は赤く燃える窯の前でこねかけの手を止め、荷馬車の御者は手綱をそっと引き、車輪の音までひそめるように速度を落とす。昨日までは、犬を連れた令嬢を見つけると、珍しい見世物に出会ったように笑う顔であった。今朝は、誰も笑わない。声をかける者もなく、ただ何かを待つまなざしだけが、薄青い闇の中でわたしの背を追ってくる。
招待状の末尾に添えられた一行は、写しになって、夜のうちに王都じゅうを駆け巡ったらしい。
「賭けが立っておりますそうで」
グスタフどのが引き紐を差し出しながら、朝の天気でも告げるような、実に事務的な声で申し添える。その目だけが、わずかにこちらを気遣っていた。
「犬が先に言うか、令嬢が先に言うか。……ただいまのところ、令嬢が二倍だそうでございます」
「二倍しか付かないとは、安く見られたものです」
「わたくしめは、賭けておりません」
「賢明でいらっしゃいます」
賭けの札には、わたしの名前が書かれているのだそうである。書いた人たちは、たぶん、わたしの顔を見たこともない。四年前、わたしを愛想のない女と呼んだ人たちも、そういえば同じ顔ぶれであった。人は、知らない相手のことなら、いくらでも軽く数えられるらしい。
市場を抜けるころ、青菜に残った朝露が淡い光を返している。八百屋のおかみさんが荷台の陰から顔をのぞかせ、ほかの客に気づかれないよう、小さく手招きをする。
「嬢ちゃん。大丈夫かい?」
「大丈夫です」
「そうかい。……そんならいいけどね」
おかみさんは、それ以上何も言わず、少し曲がった青菜をまっすぐに並べ直す。その指先だけが、なかなか隣の青菜へ移らない。何も言わないことが心配の形をしているのだと、この頃ようやく分かるようになった。背を向けて歩き出したあとも、その指先のためらいだけが、目の裏に残っている。
人の親切には、静かなものと騒がしいものがある。静かな親切は、雪のようにそっと肩へ触れて、それきり何も求めない。騒がしい親切は、たいてい、こちらの返事を必要としている。どちらも善意なのだろう。それでも、今のわたしには、何も求めず青菜へ戻った手のほうがありがたかった。
丘の頂で鐘が鳴る。澄んだ音が冷たい空を渡るたび、東の空に細い金色がにじみ、夜の青がゆっくり薄れていく。やがて光がほどけ、木々も、石畳も、隣を歩く黒犬も、朝の輪郭に組み直される。
彼がベンチに腰を下ろすより先に、坂の下から石を蹴る音がし、続いて荒い息が駆け上がってきた。
「殿ォ――ッ」
北の家宰、ベルンハルトどのである。外套の裾は朝露を吸って重く垂れ、乱れた白髪が汗で額に貼りついている。夜明けの坂を休まず上ってきたらしく、喉を鳴らすたび、肩が大きく上下している。
ところが、その行く手を塞ぐように、灰色卿がのっそりと立ち上がる。今朝は付いて来たのではない。わたしたちより先に坂の上で眠っており、たまたま道を塞ぐ位置に居ただけである。老犬は大きく口を開けてあくびをすると、道の真ん中で前脚から後ろ脚まで長々と伸ばし、満足そうに息を吐いた。それきり、朝の岩にでもなったように動こうともしない。
「ひっ」
「灰色卿。お通ししてさしあげてください」
灰色卿は片耳だけをこちらへ向け、たいそうゆっくり、半歩だけ横へ寄る。半歩である。空いたというにはあまりに細い道を前に、ベルンハルトどのは涙目のまま体を斜めにし、老犬の脇をどうにかすり抜けた。
「殿。舞踏会の夜に、誓いの儀を。……もう、王都じゅうがそのつもりでおりますぞ」
「俺のつもりは、入っておらんな」
「入れてくださいませ! 北は、待ってくれませんのだ!」
老家宰の目から、また大粒の涙がこぼれ、頬の深いしわを伝っていく。この方は、抱えた忠義があふれると、そのまま涙になって外へ流れる仕組みでできているらしい。笑ってよいものか迷うのに、北を案じる必死さまで見えてしまう。
彼は署名の手を止めず、一枚、また一枚と紙を送っていく。ベンチの端に腰を掛けてはいるものの、背筋は張ったままで、いつでも立てるような座り方である。ペン先が紙を擦る乾いた音だけが、ベルンハルトどのの荒い息の間を細く縫っていた。今朝は、この方が語らいの側へ体を傾ける暇がない。その横顔はいつもと変わらず静かなのに、引き結ばれた口元には、言葉にしない固さが残っている。
「ベルンハルト。俺が請えば、あれは俺の言葉になる。彼女の言葉ではなくなる」
「では、どなたの言葉をお待ちなのです?」
「彼女のだ」
その短い答えに、ベルンハルトどのは何か言いかけ、唇を震わせた。それでも、やがて深く頭を下げる。朝露に濡れた外套の裾を引きずるように坂を下りていく背を見送りながら、グスタフどのが声を落として申し添える。
「王妃陛下に、悪気はございません。あの方は、殿に晴れの舞台をお作りになりたいのです」
「存じております」
「家宰どのにも、ございません。北の村々のためでございます」
「……存じております」
悪い人がひとりもいないのに、こんなに息の詰まる場ができあがることを、わたしは今朝、初めて知った。
朝日が丘をゆっくり渡り、濡れた草の先で細かな光を揺らしている。わたしはそのまぶしさから目を伏せ、膝の上で重ねた自分の手を見つめる。指先は冷えているのに、手のひらだけが汗ばんでいる。
……もし今ここで、わたしが「はい」と申し上げたら。
それは、いったい誰の言葉になるのだろう。期限に背を押されてこぼれた「はい」は、わたしの口から出たとしても、本当にわたしのものだろうか。四年間、わたしは口を開くたび、言葉の形を見られ続けてきたのである。可愛げが足りない、愛想がないと、他人の声が雪のように降り積もり、いつしか望みのほうがその下に埋もれていた。もう慣れたつもりでいたのである。けれど、暦に言葉を急かされるのは、初めてだ。暦は、こちらの顔色を見ない。迷いに歩幅を合わせてもくれない。ただ明日へ向かって進み、その足音だけで、こちらの言葉を追い立ててくる。
一刻は、今朝も一刻である。けれど、その中身の多くを家宰どのの切実な声にさらわれ、彼と並んでいられた時間は指の間からこぼれてしまった。ベンチに座っていられたのはわずかで、書類の束は半分しか片づかないまま、朝の終わりが近づいてくる。光の中で彼の輪郭が淡くほどけ、隣は黒い犬へ戻った。
復路の坂を下り、朝の人波が行き交う辻へ着く。いつもなら何でもない金具が、今朝は妙に重く指へ食い込む。わたしは冷えた息をのみ込み、引き紐の金具を外す。
黒犬はすぐには立ち去らず、しばらく座ったまま、こちらを見上げていた。朝日を映した黒い瞳は静かで、その奥には、口にしない何かが深く沈んでいる。
「一曲の儀は、断ってくれてもよい」
初めての朝、この丘で仰ったのと、同じ形の言葉である。けれど、あのときより低い声は、わたしを自由にするためというより、ご自分を引き止めるために響く。
「この夜は、あなたに恥をかかせる場になるかもしれん。……断ってくれてよい」
「お返事は――」
わたしはそこで、その先に続くはずだった言葉をのみ込み、代わりの言葉を選んだ。沈黙が長くなるほど、辻を渡る風の冷たさと、黒犬の穏やかな息遣いがはっきりしてくる。それでも、黒犬はただ待っていてくださる。急かす気配というものが、この方には本当に無い。その優しさに救われながら、同じ優しさの前で曖昧な返事しかできないことが、ひどく恥ずかしい。
「明日の朝に、申し上げます」
「ああ」
その夜、寝台に入ってからも、わたしは眠れなかった。目を閉じるたび、黒い瞳と、丘に残してきた言葉の形が浮かんでくる。
暗がりの中で、天井の梁の影を数えては、途中でやめる。窓の隙間を抜ける風がカーテンをかすかに揺らし、影もまた、眠れないわたしに合わせて伸び縮みしていた。どれほど目で追っても減らないものがあることを、この頃ようやく覚えたのである。
断ってくれてもよい、と、あの方はまた仰った。初めての朝と、同じ言葉である。違うのは、あのときのわたしには「考えます」と答える余白があったのに、今夜のわたしは「明日の朝」としか言えなかったことだ。あの方は道を空けてくださったのに、わたしの背後では暦が静かに歩み寄り、その道をゆっくり狭めている。
……言えないのではない。言ってしまえば、それは暦に追われてこぼれた言葉になる。そんなふうに生まれた言葉は、暦が終わったとき、そこへ置き去りにされてしまう気がする。あの方へ届けたいのは、期限の足音に押し出された「はい」ではない。わたしが自分の歩幅であの方の隣まで歩き、自分の心で選び取った、わたしだけの言葉でなければならないのだ。




