20. 期限が言葉を奪う前に
二十五日目の夜明け前、月は半分をだいぶ過ぎて、日ごとに静かな丸みを増している。
まるく満ちれば、期限である。数えないと決めた数が、今朝は白みはじめた空にそのまま浮かんでいる。目を逸らしても、淡い光が視界の端までついてくる。
辻には、犬が二頭いる。吐く息を白く重ねながら、灰色卿は今朝、行きから付いてくるつもりらしい。
「本日も、条例のぶんを」
「ありがとうございます」
グスタフどのの声は、いつもよりひときわ丁寧である。丁寧すぎる家令どのは、たいてい、何かを察している。
異変は、市場の手前、朝の店支度の音が聞こえはじめたところで起きる。
不意に、手のひらから重さが消えたのである。
落ちた革紐が石畳を打ち、金具は乾いた音を残して、朝の白い靄のなかを転がっていく。慌てて拾い上げると、留め金の輪が根元から割れていた。二十日あまり、毎朝ひらいて閉じられ続けた金具である。細い傷を重ね、とうとう耐えきれなくなったのが、たぶん今朝だったのだろう。
「替えは、館にございます」
グスタフどのが、めずらしく声を落とし、割れた金具を見つめる。
「取りに戻れば、一刻には間に合いません」
そして、こういう朝にかぎって、坂の下には人がいる。待ち構えていた視線が、冷たい風より先にこちらへ届く。
五人ばかり。外套の襟を立て、白い息を吐きながら、寒そうに、しかし目だけは熱心に、こちらを見ている。昨日の賭けの立会人のつもりでいるらしい。
「おい、その犬! 紐が外れてるぞ!」
誰かが、ここぞとばかりに声を張り上げる。
「大型犬には引き手が要るんだ。条例違反だぞ、令嬢さま!」
黒犬の背の毛が、首から肩へかけて、怒りを伝えるようにゆっくりと逆立っていく。
わたしは考えるより先に、その背へ静かに手を置く。
「唸らないでください」
立ち上がりかけた毛が手のひらの下で止まり、硬い緊張だけが毛の根元に残る。
「唸れば、あちらの言い分が正しくなります」
それから、わたしは髪へ手をやる。
毎朝きっちり編んでいる、亜麻色の髪である。指を編み目の終いへ差し入れ、留めている組紐を引き抜く。張りつめていた編みが端からするするとほどけ、髪は肩を滑って背へ落ちていく。
「嬢様」
グスタフどのが、絶句している。
「条例が優先されます」
わたしは黒犬の前にしゃがみ、組紐を首輪の環へ通した。二重に回して、固く結ぶ。革の引き紐より、ずいぶん短い。短い紐でわたしが歩けば、この方の肩に、わたしの肘が触れる距離になる。……これで仔馬ほどの犬を止められるのかと言われれば、止められない。もっとも、革の紐でも止められはしなかった。条例が求めているのは力ではなく、引き手が居ることである。
黒犬は逃げなかった。逆である。少しもためらわず、首をわたしの手の方へ下げてよこす。
「……よろしいのですか?」
「……よい」
砂を噛むような声である。二日前の樫の下より、さらに深いところから、押し出すように響いた。夜明けの鐘は、まだ鳴らない。
結び目を締め終え、指先に残る震えを握り込んで、わたしは立ち上がる。
「参りましょう」
坂を上る。組紐は短く、だから並ぶしかない。わたしと黒犬の足音は、靴二つと足四本のぶんが、同じ歩幅にぴたりと重なる。灰色卿は、いつもどおり十歩ほど後ろである。肘のあたりには毛並みの熱が絶えず触れ、冷えた朝のなかで、そこだけがひどく近く感じられる。
立会人たちの前を、わたしたちは黙って通り抜ける。視線だけが解けた髪を追ってくるが、誰も二度目の声は上げない。
髪が朝の風にさらわれ、細い束になって頬を打つ。編んでいない髪で外を歩くのは、十四の年以来である。人前で髪を解くのは、はしたないと繰り返し躾けられて育った。頬には遅れて熱が集まる。それでも今朝は、恥ずかしさより先に、手のひらが結び目の固さを覚えている。その確かさのほうが、誰かの視線よりも、ずっと大切である。
丘の頂で鐘が鳴る。凍えた空に朝の光がほどけて降り、人も木々も、眠りから覚めるように輪郭を組み直していく。
今朝の決裁箱は、蓋を開けるまでもなく軽い。
「昨日の残りは、どういたしました?」
「家宰どのが、昨夜のうちにお引き取りになりました。舞踏会の夜まで、殿のお手を空けておきたいのだそうでございます」
「三枚だけか?」
「北から夜通しで参った、急ぎのぶんだけにございます」
グスタフどのが箱の蓋を開けたまま、安心とも困惑ともつかない、たいそう複雑な顔をする。舞踏会の支度に走り回る人が、決裁の紙まで抱えて走っているのである。皆がこの方に時間を残そうとしている。残した時間の行き先だけは、誰も口にしない。
三枚である。署名は、紙を擦る音をわずかに残しただけで、あっけないほどすぐに終わる。
……一刻が、余る。
余る、という言葉は、期限のある人には眩しすぎる。二人とも、余った時間の使い道を知らない。彼は署名の終わったペンをまだ持っていて、わたしは膝の上で手を重ねたまま、丘の下の王都を見ている。
やがて、長い沈黙のなかへ静かに足を踏み出すように、彼が言う。
「あなたに、請わない理由を、まだ言っていなかった」
「伺います」
「請えば、あなたの言葉が、あなたのものでなくなる」
朝の光が、ベンチの木目をゆっくり明るくしていく。
「衆目の中で請われて、断れる人間はおらん。断れない場所で出た『はい』は、あなたの意思の形をしているだけの、俺の都合だ。……それだけは、選ばない」
「位を失っても、ですか?」
「位は道具だ。前にも言った」
彼はそこで、初めてわたしの方を向く。逃げ道をひとつも残していない、まっすぐな目である。
「道具のために、あなたの口を借りたくない」
――胸の底で、長いあいだ置き場のなかった何かが、ようやく正しい形に嵌まる音がした。
同時に、その音のすぐ隣で、ずっと待っていた別の言葉が立ち上がる。
隣にいてください。
声にはならない。喉の手前で、熱を持ったまま形になっただけである。けれど確かに、生まれて初めて、その言葉は誰かに渡すための文の形をしていた。
四年ぶん、いや、十四の年からずっと、名前を付けずに済ませてきたものが、今朝ようやく主語と述語を持ったのである。言えば、たぶん、この方は救われる。験は閉じ、位は残り、北の雪は暦どおりに片づく。思い描くだけで、凍えていた未来に春の色が差す。
――だからこそ、いま言えば。
それは、期限に急かされてこぼれた言葉になる。この方が命がけで守ってくださっているものを、わたしが自分の手で曇らせることになる。わたしの「隣にいてください」は、残りの日数のうちに言えば、残りの日数のための言葉として数えられてしまう。本当はこんなにもこの方だけを見ているのに、期限へ向けた言葉だと思われることが、何より悲しい。
二人とも、暦に言葉を人質に取られている。彼は請えず、わたしは言えない。同じ檻の、別々の壁である。壁の向こうに相手がいることは、二人とも分かっている。分かっているのに、手を伸ばせば、それは檻のほうの手柄になってしまう。
わたしは、膝の上で固く重ねていた手をゆっくり開く。掌には、押しつけていた指の跡が白く残っている。
それでも、ひとつだけなら。期限に急かされていない願いを、ひとつだけなら、ここへ置いていける気がする。約束にできなくても、わたしの心が向かう先だけは、伝えられる。
「昨日のお返事を、申し上げます」
「ああ」
「舞踏会には、参ります」
彼の肩が、わずかに動く。息を止めた気配が、朝の静けさのなかにはっきりと伝わる。
「踊りたいので」
言ってから、わたしは付け足した。
「約束ではありません。希望です」
守れる分しか言葉にしない女が、生まれて初めて、守れるかどうかの分からないものを口にする。希望というのは、たぶん、そういう形の言葉なのである。喉の奥が、まだ少し震えている。
彼は、しばらく黙っている。伏せた目元に朝の光が差し、その静かな横顔だけが、言葉を受け取った重さを物語る。
「……承った」
それだけである。それだけの返事なのに、張りつめていた丘の風が、ひとつぶん軽くなる。
鐘から一刻。三枚の書類はとうに箱の中へ戻り、余った時間だけが二人のあいだに、淡いぬくもりのように残っている。やがて光の中で彼の輪郭がほどけ、隣にいた男は黒い犬へ戻った。
朝日に長く引かれた影が、復路の坂を連れ立って下りていく。そのうち二つは四本足で、片方は老いていて、片方は若く、大きい。
辻で結び目を解こうとすると、黒犬が先に首を振る。ほどけた組紐をそっと口に咥え、わたしの手のひらへ落とした。返されたのは紐だけなのに、隣を歩いた時間まで手の内に戻ってきたようで、指をすぐには閉じられない。
濡れた組紐は、生温かい。朝の冷気の中で、その熱だけがいつまでも消えず、ほどいた髪よりも心を頼りなくする。
「明日は、替えの引き紐をお持ちいたします」
グスタフどのがそう申し添える。その声音には、今朝の出来事を見なかったことにしてくださる控えめなやさしさがあり、わたしは静かに首を横に振る。
「引き紐は、条例のためのものです」
黒犬が、こちらを見上げる。何も促さず、ただ続きを待つ眼差しである。
「あなたが隣を歩いてくださるのは、条例のためではありません。……それは、今朝わかりました」
黒犬は、何も言わない。ただ、尻尾の先が、石畳を一度だけ打った。小さな音が、朝の辻にひとつだけ残る。
――明日の夜、わたしはこの方と踊る。




