21. 一曲の儀、お相手は黒犬
二十六日目の夕、窓を染める夕暮れの光の中で、母がわたしの髪を結い上げてくださった。
編み終いを留めるのは、今夜もいつもの組紐である。汗を吸って少し柔らかくなった撚りは、指になじむほど使い込まれ、それでも髪の奥へきちんと納まっている。母はその結び目をご覧になったが、何もお訊きにならない。ただ、訊かないという静かな心遣いのまま、簪を一本、余分に挿してくださる。
四年前、同じ鏡の前で髪を結っていただいた。婚約の披露の夜である。あのときのわたしは、鏡の中の自分の口の端を指で持ち上げ、笑顔の形を頬に覚え込ませようとしていた。愛想とは、そうして形から作れば、いつか心にも身につくものだと思っていたのである。
今夜は、持ち上げていない。うまく笑えなくても、鏡の中のわたしから目をそらさずにいられる。
「その紐を抜いても、崩れないように留めておきましたよ」
「ありがとうございます」
「ほどきたくなったら、ほどいてよろしい。簪なら、もう一本ありますからね」
「……なぜ、ほどく前提でいらっしゃるのですか?」
「この二十日、あなたが朝ごとに出ていくのを見ておりますからね」
母は、そういう人である。鏡越しに、わたしの耳が赤くなるのを、見ないふりで見ておられる。
玄関では、父が胃薬の包みを開いておられた。薬草の苦い匂いが、冷えた夜気の入り込む戸口に漂っている。今夜のぶんは、これで三包目になるはずである。
「馬車は、別々でよいのだな? ……本当に、別々でよいのだな?」
「王宮までは、あちらの家の作法がございますので」
「そうか。……そうか」
父は同じ言葉を二度おっしゃってから、ためらうように、わたしの肩へ手を置かれた。こうしていただくのは、四年ぶりくらいである。手のひらは薄く、触れた肩へかすかな震えが伝わってくる。この方は、世間が怖い。娘が笑われ、家まで笑われることも、きっと怖くてならない。それでも今夜は、その怖さを抱えたまま、わたしを送り出そうとしておられる。
「……行ってまいります」
「うむ。……その、なんだ。足元に気をつけなさい」
犬と踊る娘に、父が贈れる言葉は、たぶん、それが精一杯だったのだろう。
◇
王宮の車寄せは、連なる灯に白い石壁を照らされ、昼のように明るい。磨かれた馬車の金具が光を弾き、車輪の影だけが忙しなく石畳を横切っていく。
油の焦げる匂いと、馬の汗と、女たちの甘い香が混ざり、夜気の冷たさの中へ逃げ場もなく厚く溜まっている。蹄の音や御者の呼び声までが石壁に跳ね返り、耳の奥を落ち着かなく揺らす。
馬車を降りた途端、外套の襟を立てた男が四、五人、いっせいにこちらを向いた。手には小さな札を持ち、獲物を見つけたような目を輝かせている。昨日の坂の下にいた方々と、たぶん、同じご商売である。
「令嬢さま! 今夜はどちらに賭けても損はしませんぜ!」
会釈だけを返し、背中へ集まる視線を振り切るように、わたしは公爵家の馬車の方へ歩いた。
扉が内側から開き、黒い巨躯が、狭い箱から夜そのものを押し出すようにゆっくりと降りてくる。石畳へ置かれた足は重く、革の引き紐の端は、グスタフどのの手にある。
「本日も、条例のぶんを」
「ありがとうございます。……ここから先は、わたしが」
わたしは簪を抜き、髪から組紐を引き抜いた。編みが端からほどけ、結い上げていた髪が肩から背へ流れ落ちていく。さらされたうなじを夜気が撫でていく。守っていたものを一枚剥がされたようで、そこだけが心もとない。グスタフどのが革の紐を環から外し、空いたそこへ、わたしは組紐を通す。二重に回して、固く結ぶ。もう、この方と自分をつなぐときだけは、指先も迷わない。
「嬢様。広間は、屋内にございますが?」
「条例のためではありません」
わたしは黒犬の背へ、気持ちを伝えるようにそっと手を置く。厚い毛の奥から伝わる熱が、冷えた指先へ静かに染み込んでくる。
「広間の方々が、怖がりますので」
黒い耳が、ぱたりと一度だけ動いた。返事の代わりらしい。それから、この方は何も言わず、わたしの歩幅へ自分の歩みを重ねてくださる。
肩のあたりには、寄り添う毛並みの熱がある。夜のこの方の身体は朝より温かく、呼吸のたび、黒い毛の下で力が膨らむのが分かる。獣が濃くなるとは、こういうことなのかもしれない。それでも、隣にある温もりを怖いとは思わない。
車寄せの隅、太い柱が落とす影の中に、灰色の毛並みが座っている。灯の届かない場所から、こちらをじっと見届けているようである。……灰色卿は、どこにでもいらっしゃる。
◇
大広間の扉が開くなり、流れていた楽の音が半拍だけ遅れる。奏者の指まで、こちらを見て迷ったのだろう。
蝋の熱と人いきれが、扉の内側から壁のように押し寄せてくる。甘い香と、汗と、磨かれた床の油の匂いが、息を吸うたび喉の奥へまとわりつく。きらびやかな衣装の色も、天井から降り注ぐ光も、その瞬間だけはすべて霞んだ。三百の目が、いっせいにこちらを向く。扇の陰で生まれたささやきが、絹の衣擦れを連れて波のように広がっていく。犬だ。本当に連れてきた。あれが例の令嬢だ。
背中の産毛が、いっせいに立つのが分かる。四年間、わたしはこういう部屋で笑われる側だった。笑い声が上がる前から肌の内側が冷たくなり、息の仕方まで分からなくなる。その感覚に、慣れることはついにない。
「賭けは締切だぞ、締切!」
どこかで押し殺した声が上がり、堪えきれなかったように、どっと笑いが起こる。……笑いというより、これから何が始まるのか待ちきれない、という音である。
黒犬の喉の奥で、低い震えが生まれかけた。厚い毛の下で身体が硬くなるのを感じ、わたしは組紐を短く持ち直す。
「唸らないでください」
逆立ちかけた毛が、手のひらの下で静かに伏せる。この方は、わたしの言うことなら、たいてい聞いてくださるのである。そう思えば、手のひらに残る温かさだけを見ていられる。
……いいえ。違う。
この方は、唸れば損をすると分かったうえで、それでもわたしのために唸ろうとしてくださっている。止めているのは、わたしの都合である。
壇上で、王妃陛下が扇をひとつ鳴らされた。乾いた音が笑いの波を切り、楽が変わる。ゆっくりした三拍子である。
「六の儀。北方公爵と、アシュフォード伯爵令嬢」
――踊るのである。仔馬ほどの犬と。
「踊れますか?」
「……やる」
二文字だけである。けれど、逃げる気など少しもないことは伝わってくる。宵の口のこの方の声は、砂を噛んだようにざらつき、人のものへはまだ戻らない。
わたしは組紐を手首に二重に巻いた。革の紐より短いから、巻けば、肘の触れる間合いで固定される。少し身じろぎするだけで互いの熱が伝わるほど近い。この距離なら、どちらもはぐれない。
紐が手首に食い込む。痛いというほどではない。けれど、この痛みの手前くらいの感触が、いまのわたしには、たいそう心強い。離れまいとする気持ちに、目に見える形が与えられたようである。
その感触に背を押され、思いついたことがひとつあった。
「数えます」
「……?」
「わたしが数えますので、その通りに脚をお出しください。……得意なのです、数えるのは」
黒犬の目が、一度だけ、まっすぐこちらを見る。灯を映した黒い瞳の奥で、戸惑いと、たぶん信頼のようなものが、わずかに揺れる。
「一、二、三。一、二、三」
小さな声のつもりだったが、静まり返った広間では、天井へ届くほどよく通った。四本の脚が、数に合わせてぎこちなく、それでも真剣に動き出す。前足、前足、後脚。前足、前足、後脚。
磨いた床を、爪が細かく掻いている。金色の光が揺れる床の上で、楽の音の隙間に、その音だけが飾り気もなく正直に混じる。寄り添う毛並みの熱は、肘から二の腕へ、そこから首筋へと移ってくる。わたしの心の臓は、たぶん、三拍子よりずっと速い。
「一、二、三。……一、二」
前足が、わたしの靴の甲に乗り上げる。靴越しにずしりと重みが伝わり、身体がわずかに傾く。
「また踏みましたね」
「……求婚の足取りだ」
「ただの大型犬です」
どこかで、誰かが堪えきれずに吹き出した。けれど、その笑いは、さっきまでの音とは違っている。刺すような冷たさがなく、わたしたちの不格好な歩みに、思わずこぼれたような響きである。
後脚は、必死である。三拍子は、犬の身体のためにできてはいない。滑りやすい床を踏みしめようと、毛並みの下では筋が強く張り、黒い耳がひたむきに前を向いている。荒くなりかけた息が、わたしの手首のあたりへ触れる。熱い。その熱さが、この方の懸命さそのもののように思える。
この方は、笑われている。それを承知で逃げも隠れもせず、この広間の真ん中で、後脚を懸命に運んでおられる。わたしだけを笑われる側へ置いていかないために、その大きな身体で不慣れな歩みを続けてくださる。
わたしは数を止めない。数だけが、いま、この方に差し上げられるものである。はやしていた声が、いつのまにか、数える声にかき消されていく。
最後の一拍で、わたしたちは同時に足を止める。手首の組紐だけが、互いの息に合わせてかすかに揺れている。
広間が、静かである。誰も何も言わない。楽の余韻さえ消えた空間に、わたしたちの息遣いだけが残っている。
その張り詰めた静けさの中で、黒い尻尾だけが、隠しようのない喜びを振りまくように盛大に回っている。
「……尻尾が」
「殿は、風だと仰せでございます」
グスタフどのが、まるで初めからその時を待っていたかのようにどこからか進み出て、黒い尻尾のよく見える位置で、深々と一礼した。
「無風です」
――広間が、笑う。今度は、はっきりと、わたしたちを遠巻きに傷つける声ではない。黒い尻尾の喜びへつられるように、明るい笑いの音が広間いっぱいに弾けていく。
王妃陛下が、その笑いの余韻を見渡しながら、壇の上で静かにお立ちになる。
「六つの申し合わせのうち、五つが済んでおります。残るはひとつ――絵の受け渡しだけです」
扇が、ぱちりと鳴る。その小さな音に、和らぎかけた空気が再び張り詰める。
「それは、ひと月先」
笑いが、潮の引くように消えていった。ひと月先。……この広間の全員が、いま同じ算術をしている。先ほどまで好奇心に輝いていた目が、意味へたどり着いた端から、次々と冷えていく。
蝋の熱も、隣にある黒い身体の温もりも変わらない。それなのに、床のあたりから、すうと温度が下がっていくのが分かる。手首へ食い込む組紐が、急に細く頼りないものに思えた。
紙が仕上がるのは、期限の外である。法の婚約は、間に合わない。
北の家宰どのの顔から、見る間に血の気が引いていくのが見えた。その表情が、わたしのたどり着いた答えに間違いはないと告げている。
凍りついたような静けさの中を、絹の擦れる音がひとつ、ためらいもなくこちらへ近づいてくる。
ハルダー男爵家のフィオナ様が、揺れるドレスの裾を静かに従え、黒犬の前へ進み出ていた。




