22. 軽い言葉は、北の風に
二十六日目の夜は、まだ終わろうとしてくれない。
組紐は、黒犬の首輪に着いたままである。わたしは細い端を、逃げ道を残すようにゆるく持っている。指に力を込めずにいられるのは、この方が決して引っぱらないと、もう知っているからだ。
フィオナ様は灯の輪の中で膝を折り、息をのむほど美しい礼をなさる。裾の揺れまで、前もって決められていたかのようである。
「北方公爵さま。差し出がましいことを申し上げます」
誰も止めない。楽の手まで止まり、残された余韻だけが高い天井へ薄く消えていく。広間じゅうがいっせいに息を吸い、そのまま吐くことを忘れたような静けさである。
「わたくしなら、喜んでお受けしますのに」
――次の瞬間、広間が、ざわりと鳴る。絹の裾も、息も、ひそめた声も、いっせいに波立つ。
わたしは、握った紐の端がじわじわ汗ばんでいくのを感じる。手のひらは冷たいのに、その内側だけが焼けるように熱い。みぞおちの辺りに、まだ名を呼びたくない小さな棘が刺さっている。……これが、あの朝の丘で覚えたものと同じ痛みだと気づくまで、少し時間がかかった。
嫉妬という言葉を、わたしはまだ自分に許せずにいる。口にすれば、浅ましい望みまで形を持ってしまいそうだからだ。それでも頭のどこか冷えた場所だけは、いつもどおり正確に動いている。
盟の誓いは、獣の姿と人の一刻の、両方を知った者にしか立てられない。あの方は、朝の一刻をご覧になったことがない。……いまのは、誓いではない。申し出である。
けれど、この広間の誰ひとり、その違いを知らない。それこそが、いちばん大きな問題だった。
「では、今ここで誓わせては!」
張りつめた静けさを破って、誰かが叫ぶ。
「絵を待っていたら、月が満ちてしまうぞ!」
「盟の誓いに、儀は要らんはずだ! 誓いだけ先に取れ!」
札を持った男たちが、靴音を忍ばせることもなく壇の方へにじり寄る。令嬢が二人、三人と、フィオナ様の後ろへ連なろうとする。香の匂いと衣擦れが押し寄せ、空気までこちらへ傾いた。善意の人も、そうでない人も、同じ速さ、同じ顔で前へ出る。
悪い人が、ひとりもいない。ひとりもいないのに、この場は、こんなに息が詰まる。喉のあたりに、蝋の煙が溜まっているようである。
この方が二十日かけて守ってきたものが、いま、善意の速さで薄く削られていく。断ってくれてよい、と最初の朝に仰った人である。わたしの自由を守るためなら、ご自分の位さえ手放そうとしている。その重さを知りもしない言葉が、軽々とこの方を囲んでいく。
「令嬢さま、お黙りで?」
札の男が、人好きのする笑みを浮かべてこちらを覗き込む。悪気などどこにもない、よく磨かれた商売の顔である。だからこそ、その目にはわたしではなく、答えだけが映っている。
わたしが息を整えるより先に、北の家宰どのが、震える声を押し出すように張り上げた。
「お、お嬢様! では明朝、丘へお越しくださいませ! 一刻をご覧に入れれば、それで――」
資格を、作りに行こうとしている。忠義の人である。この方を救いたい一心で、誓いを選ぶはずの心まで置き去りにしかけている。忠義の人が、いちばん危ない。
膝の裏が、みっともないほど細かく震えている。靴の底だけが、どうにか床に縫いついている。
あれだけの人の前で声を出したことなど、生まれてこのかた一度もない。四年間、わたしは笑われる側に置かれ、黙って立っている役であり続けた。声を持たない娘だと思われているほうが、傷は浅く済んだからである。
それでも、組紐のぬくもりを指に食い込ませ、わたしは一歩、前へ出た。
「並んでください」
広間が、音も息も忘れて止まる。
「順番です」
「……並べ、と仰せか?」
「はい。順番です」
――張りつめた糸が切れたように、誰かが、堪えきれず吹き出した。
小さな笑いはたちまち広間の端まで走り、詰め寄っていた人たちの足を、その場に縫い留める。壇の方へ伸びかけた手が、急に重さを思い出したように下りていく。誰も名指しされてはいない。ただ、列の作法を告げられただけである。
けれど、並べと言われた瞬間に、人は気づいてしまうのである。自分がいま、何かの列に並ぼうとしていたことに。
その沈黙を割って、黒犬が、数歩、前へ出る。わたしは紐から手を離した。垂れた組紐が床の上を短く引きずられ、かすかな音を残していく。
「……軽い」
砂を噛んだような掠れ声が、それでも高い天井に吸われることなく、広間の隅まで届く。
「北の風には、向かん」
フィオナ様の微笑みは、崩れない。まつげさえ揺らさず、寸分同じ角度のまま、白い灯の下に留まっている。
あれは、たぶん、意地でも我慢でもない。あの角度は、この方がずっと昔に覚えて、それきり動かさずに済ませてきた顔なのである。誰にも同じものを向けられるということは、誰にも別のものを向けられないということでもある。
少し離れた柱の下で、ランドルフ様がその横顔をご覧になっている。それから、公爵の方へ向けられた同じ角度の微笑みへ、ゆっくり目を移された。何を思われたのか、わたしには分からない。ただ、伏せられた目がしばらく上がらず、その口もとからいつもの余裕が消えていたことだけは見えた。
やがて黒犬が、こちらへ戻ってくる。垂れた組紐の端を口に咥え、わたしの手のひらへ、返すようにぽとりと落とす。
口もとで濡れた組紐は、生温かい。そのぬくもりが、言葉の代わりに指の奥まで染みてくる。二十日あまり前なら、わたしはこれを犬の癖のひとつだと思い、そこに隠れた意味を探しもしなかったはずである。
◇
広間の隅、柱と柱のあいだ。人の波からわずかに外れた暗がりで、ハルダー男爵家の当主とギルモア侯爵家の家令が、笑みを薄く貼りつけたまま短く言葉を交わしている。
「公爵家は、もう終わりでございましょう。……となれば、うちのお話は、急ぐこともございますまい」
「いえ。いま、決めていただきたい」
「はて。昨夜は、しばし待たれたし、と仰せでしたが?」
「昨夜と今夜では、風向きが違いますでな」
男爵の指に力がこもり、扇の骨が、きり、と乾いた音を立てる。笑みだけは、まだ口もとに残っている。
「……娘の話をしておるのですが」
「手前どもも、娘御のお話をしております」
二人の顔は、同じ夜会の金色の灯を受けながら、きれいに逆の方を向いている。言葉だけは娘を語り、目はそれぞれ別の明日を見ているようである。
◇
夜半になる前に、わたしたちは熱のこもった広間を抜け、冷えた空気の待つ車寄せへ出た。
組紐を環から外すと、グスタフどのが手慣れた指で革の紐をそこへ着ける。ここから先は、夜の匂いと人の気配が入り交じる市中である。
「お先に、馬車をお回ししてまいります」
家令どのはそう言い残すと、返事も待たずにいなくなってしまう。……人の顔色を見ないふりのできる、気の利く方である。
揺れる灯の下に、黒犬とわたしだけが残された。広間のざわめきは厚い扉の向こうへ遠のき、代わりに馬の吐く息と、夜風が石を撫でる音が聞こえる。
「戻りました?」
「……戻る場所は、こちらだ」
声はひどく掠れ、夜気にほどけそうだった。それなのに、その一言だけは迷わず耳の奥へ届き、そこにまっすぐ立っている。
わたしは返す言葉を探す。けれど、見つけた端からどれも頼りなくほどけて、黙ることしかできない。喉の奥が熱い。夜風は頬を刺すほど冷たいのに、そこだけは、泣く前のように熱を抱えている。
――そのとき、砂利を踏み散らす足音が、静けさを追い立てるように慌ただしく近づいてきた。
「嬢様! 嬢様、ようございました、まことにようございました!」
北の家宰どのが、裾を乱し、目を真っ赤にして走ってくる。肩で息をしながら、それでも顔いっぱいに喜びを浮かべている。この方は、今夜もまた泣いておられる。
「明日には、王宮から触れが出ますぞ。陛下のお名前で、正式に!」
嬉しさを隠そうともせず、声が弾んでいる。悪気は、ひとかけらもない。こちらに何が刺さったのか、この方は知らないだけである。
わたしの指は、いつの間にか組紐を強く握りしめていた。手のひらに食い込む痛みだけが、ほどけそうになる心を、かろうじてつなぎ止めている。




