23. 験の夜は、王宮で
二十七日目の未明、まだ夜の冷たさを抱いた辻に、先客がいる。
黒い外套に痩せた身を包んだ男である。式部の役人だという。この時刻に、凍える辻で人を待つ役目まで王宮にあるとは、知らなかった。
男の口からこぼれる息が白く、闇へほどけては消えていく。ずいぶん前から立っていたらしく、外套の肩には霜が薄く降りている。
その足元には、灰色の老犬が静かに座っている。この方も、ずいぶん前からそこにいらっしゃったらしい。役人は、自分の靴先に触れそうな毛並みにさえ気づいていない。
「北方公爵閣下の、満月の夜の所作について、あらかじめ取り決めておきたく」
「所作、と申しますと?」
「お立ちいただく位置。壇へ上がられる頃合い。呼び出しの順。……その三つにございます」
男の声には、悪意がない。この方はただ、その夜の進行を滞りなく運びたいだけである。式次第に穴があると、あとで叱られるのは、たぶんこの方なのだろう。
だからこそ、始末に負えない。
「立会の方にも、ご足労いただくことになりますが」
立会の方、と男は言う。そのよそよそしい呼び名が指しているのは、わたしである。
グスタフどのが革の紐を環から外し、わたしは、かじかむ指で組紐を通す。結び目の手応えを確かめてから、役人の方へ向き直る。
「まず、散歩を終えてからにしてください」
男が、寒さも忘れたように目を見開き、ぽかんと口を開ける。
「は」
「一刻、お待ちいただけますか? ……この方の朝は、一刻しかございませんので」
◇
往路を、わたしたちは黙ったまま歩く。
黒犬は、いつもの半歩前を行き、石畳の継ぎ目を、いつもの数だけ踏んでいく。言葉を交わさなくても、互いの歩幅だけはぴたりと合う。積み重ねてきた朝が身体に残っているようで、今朝はその一致が、かえって痛い。
東の空はまだ深い藍をたたえ、屋根の列も眠りの色に沈んでいる。パン屋の煙突から、一日でいちばん早い煙が立ちはじめ、焼けるパンの匂いが冷えた空気へかすかに混じる。
丘の頂で鐘が鳴り、その響きの中で光がほどけ、人の輪郭がゆっくりと組み直される。
彼は、いつものベンチを見ても、座ろうとはしない。
わたしも座らない。二人で、丘のへりをゆっくり歩く。王都の屋根と塔が夜の青を脱ぎ、朝の色に染まっていくのを、ただ見守る。
言葉は喉まで上がってくるのに、ひとつも声にならない。口に出せば、そのどれもが今夜のことへつながり、この静かな朝を終わらせてしまうからである。
彼が石をひとつ、靴の先でそっと転がす。乾いた音が、朝の静けさをかすかに揺らす。わたしは、その石が止まるまで目で追う。止まってほしくないと願うように。それだけで、たっぷり十を数えるほどの時が過ぎていく。
話すことなら、いくらでもある。今夜のこと、紙のこと、壇のこと。けれど、どれを口にしても、この一刻まで今夜のための打ち合わせに変わってしまう。それだけは惜しくて、口を開けない。
だから、わたしたちは歩く。二十日あまり、毎朝そうしてきたように、隣にいることだけを確かめながら、ただ、歩くのである。
「……よい朝だ」
「はい。よい朝です」
それが、今朝の会話の全部である。七つの音を、わたしはうっかり数えてしまった。数える癖は、こういう朝にも働く。
グスタフどのが担ぎ上げた決裁箱は、今朝も、拍子抜けするほど軽い。
「王都の役所は、紙をお出しになりません」
「そうか」
「北からの急ぎだけにございます」
三枚に署名を終えると、彼はペンを静かに置く。その指はすぐに離れたのに、視線だけは丘の下の道へ残り、しばらく戻ってこない。
鐘から一刻。光の中で輪郭がほどけ、黒い犬が戻る。さきほどまで隣を歩いていた人の気配が、朝の冷たさに吸い込まれていく。
◇
辻では、役人が外套の前をかき合わせ、唇を青くして待っている。
組紐を外すと、グスタフどのが革の紐を環へ着ける。金具が冷たく鳴り、それから黒犬は、役人の前に静かに座る。
「待たせた」
「い、いえ。……では、段取りを」
「段取りは、私が全部聞く」
夜明けの声は、もう戻っている。けれど、戻った声から落ちる言葉は、どれも短く、硬い。
「ただし、答えの段だけは、白紙で置け」
「し、しかし、それでは進行が」
「進行のために、人の口を先に埋めるな」
役人が、書きつけを持つ手を止める。黒犬の言葉をのみ込むように唇を結び、それから、その一行だけを空けたまま、深く頭を下げて帰っていく。
◇
昼、王都の辻という辻に、布告の写しが貼り出される。薄い陽の下で、新しい墨だけが妙に黒く見える。
それを見た世間がざわめき、動き出すのに、半日もかからない。噂が屋敷の門をくぐった午後には、父が応接間で、わたしに向かって膝をついている。
「頼む。家のためだ」
父の膝は、絨毯の柔らかな毛を深く押し潰し、その背をひどく小さく見せている。四年前、この方はギルモア家の条件を呑んでいる。呑んだ理由も、たぶん、今と同じ一言だったのだろう。
「お父様」
「陛下のお名前で出た紙だぞ。ここまで来て断れば、この家は――」
「お父様。わたしは、まだ何も訊かれておりません」
「訊かれてからでは遅いのだ!」
張りつめた沈黙を断ち切るように、母が扇をぱちりと閉じる。
「この子の『はい』は、この子のものです」
父の肩が、不意に打たれたように跳ねる。
「あなたが引く紐ではありません」
――四年前に言えなかった一言を、母は今日、震えのない声で言う。父は何も返せず、胃薬の包みを取り落とす。柔らかな絨毯の上でさえ、その音は妙にはっきりと響く。
わたしはその包みを拾い、母には見えないよう、そっと父の手へ戻す。触れた父の指は、冬の石のように冷たい。その冷たさに、父を怒りきれない自分を知る。
◇
その夜、わたしは誰にも告げず、ひとりで辻へ出る。
貼り紙は、灯の届かない端が夜露を吸い、少しめくれている。冷えた指でそっと押さえ、はやる息をなだめるように、上から順に読んでいく。
験の誓いは、次の満月の夜、王宮大広間にて。参集を許す。
北方公爵ヴィルヘルム・ノルトヴァルト。
――そして、その次の行。
アシュフォード伯爵令嬢セシリア。
立会の方、ではなかった。その違いを目でなぞった瞬間、喉の奥がひやりと狭くなる。朝、あの役人が言わなかった――たぶん、言えなかったのだろう――ことが、紙の上ではもう決まっている。
貼り紙の墨はまだ新しく、指の腹にわずかに移る。糊の匂いと、夜露の匂いがした。この紙は王都じゅうの辻に、同じ文面で何十枚も貼られているはずである。何十枚ぶんのわたしが、今夜、答えることになっている。本当のわたしだけを、辻の闇に置き去りにして。
――名前というのは、こんなに軽く運ばれるものだったろうか。
わたしは、四年かけて数を数えた人間である。数は、気分では動かない。けれど、紙に書かれたわたしの名は、わたしの気分も、返事も、何ひとつ待ってはくれなかった。
わたしは、まだ何ひとつ言っていない。
言っていないのに、この紙の中のわたしは、もう答える人になっていた。




