24. 約束を、ひとつだけ
二十八日目の未明、窓の外にまだ夜の青さが残るころ、目を覚まして寝室の扉を開けると、家宰がその前に座っていた。
俺の家の者は、どうも、寝るということを知らん。
「殿。三通、しあげてございます」
ベルンハルトが、夜通し冷えた床へ紙をそっと並べる。紙の端をそろえる指が、かすかに震えている。寒さのせいではない。
一通目――衆目の中で誓いを請い、退路を断つ口上。二通目――期限の猶予を陛下に願い出る口上。三通目――求婚を取り下げる口上。
「一通目でございましょう。……お願い申し上げます。あの方は、必ず『はい』と仰せになります」
「言うだろうな」
「では?」
「言わせる場所で言わせた『はい』は、あれの言葉ではない」
堪えていたものが切れたように、家宰の目から涙がぼたぼた落ちる。この男は、俺が九つの年から、ずっと北にいる。兄の柩も、父の柩も、この男が吹雪の中から運んできた。その背が何を負い、ここまで俺を支えてきたか、俺は知っている。
「殿! 北が、北が待っておりますのだ!」
「北を預かる者が、人の口を借りて位を守ったら、次は何を借りる?」
家宰が、祈るように床へ額をつける。老いた肩が震える気配を背中で聞きながら、俺は三通をそのまま残し、部屋を出る。
薄明の辻で、あれは今朝も、こちらを待っていた。
二十分早い。四年ぶん、そうして生きてきた人間の癖である。待たされ続けた人間は、いつしか待つほうへ先回りし、傷つかずに済む癖を身につける。
グスタフが革の紐を環から外すと、あれは自分の組紐を通す。朝の冷気にさらされた細い指、その運びにはもう迷いがない。この二十日あまりで、この人の手は、この結び方をすっかり覚えてしまったらしい。
「参りましょう」
――坂の下へ差しかかったところで、あれの足が止まる。
人垣である。
昨夜の札の連中に朝の見物人まで加わり、坂の入り口を幾重にも塞いでいる。冷えた朝靄の向こうで、誰も声は上げない。ただ、こちらを見ている。その沈黙のほうが、嘲りよりも肌に刺さる。
俺は構わん。犬の姿をいくら見られようと、今さら減るものなど、俺にはもう無い。
――いや。ひとつだけある。この人が、俺の隣にいるところを、人垣の無遠慮な目に晒すこと。それだけは、俺の一存では決められん。
「こちらです」
「その道は?」
「道は、わたしが決めます。わたしの散歩ですので」
あれは人垣を振り返りもせず、するりと右へ折れた。
塀と塀のあいだに挟まれた、人ひとりぶんの細道である。身を入れれば、俺の肩が両側の石壁にこすれる。壁は夜の冷気を抱えこんだままで、厚い毛越しにも冷たさが染みる。犬の身体には狭すぎるが、通れんことはない。
鼻先を、日に干した布の乾いた匂いがくすぐる。見上げれば、塀の上の細い空を渡す綱に、洗い物がずらりと下がっていた。
「この道は?」
「洗濯物の近道です。十一の年に見つけました」
声は、いつもどおり平らである。細い背中は、振り返りもせずに先を行く。
――そのとき、俺はようやく気づく。
この人は、自分が見られることなど何とも思っていない。四年間、笑われる側に立ち続けた人間である。今朝この道を選んだのは、自分が傷つかぬためではない。
俺を、人垣の目から守るためである。
げんに、この背中は、俺が壁に肩をぶつけぬよう、ほんの少しだけ歩みを緩めている。喉の奥が、うれしいはずなのに詰まる。それでも俺は、何も言葉にしない。言えば、この人は「近道ですので」と答え、差し出した優しさまで何でもないものにしてしまう。
細道を抜けたころ、丘の頂で鐘が鳴る。朝の光が毛並みをほどくように満ち、人の姿に戻った。
決裁箱を開けば、入っているのは北のぶんだけである。王都からの紙は、もう来ない。空いた隙間が、残り時間の形に見える。
「北の街道は、まだ雪が残っておりますか?」
「峠だけだ。……あと三日で、荷が通る」
「では、北は困りませんね」
あれは、そういう数え方をする。俺の位の残りではなく、雪の残りを数える。
署名を終え、俺はペンを置く。乾いた小さな音が、風の渡る丘にひどく大きく響いた。言うと決めていたことが、いざとなると喉の手前で硬くつかえている。
「ひとつだけ、約束をさせてくれ」
「伺います」
「満月の夜が終わっても、朝の散歩は続けたい」
返事を急かすような風が、丘の草を一斉に撫でていく。朝露が光り、さざ波のように揺れる。
「……犬のままでも、あなたが嫌でなければ」
あれは、何も言わない。伏せたまつげの先で、朝の光だけが揺れている。
俺は待つ。四年ぶん、言葉を数えて生きてきた人間が、いま、その数え方ごと投げ出しかけているのが分かる。細い喉が動き、止まり、何かをのみこんで、また動く。せり上がってきたものを、必死に押し戻しているのだろう。
それでも、声にはならなかった。
声にすれば、抱えているものを全部言ってしまうからである。この人は、守れる分しか言葉にしない。そして今日は、その言葉を守れるかどうかが、明後日の夜に懸かっている。沈黙は拒絶ではなく、約束を粗末にしないための、あれなりの誠実さなのだ。
「……無理に返すな」
それ以上やさしい言葉を探せず、俺には、そう言うのが精一杯である。
鐘から一刻。光の中で人の輪郭が淡くほどけ、影が低く伸びながら、犬の身体へ戻っていく。
辻へ戻ると、あれは組紐を外し、グスタフが革の紐を着ける。指先が離れる、そのわずかな間だけ、首まわりに朝の冷気が触れた。
「では、また明日」
あれはそう言って、こちらに背を向ける。背筋はまっすぐで、歩幅も乱れていない。何事もなかったように遠ざかるその姿を、俺は動けずに見送った。……乱れていないことが、今朝は何よりこたえる。
屋敷へ戻り、消えきらぬ炉の火の前で、俺は三通の前に座る。
一通目を、火に入れる。続けて、二通目も火に入れた。
紙は炎に包まれ、端からゆっくり丸まっていく。字が熱に反り返り、意味を失い、やがて読めなくなった。焦げた紙の匂いは、北の冬の宿舎を思わせる。猶予を願う口上が灰へ沈むのを見ながら、俺は白く閉ざされた北の峰を思う。
約束を違えた隊が、ひとつ死ぬ土地である。迎えに行くと言った者が来なければ、待っていた側は雪の中で凍る。だから北では、約束は雪より重い。
人の心を置き去りにして言葉を強いる主に、あの土地は預けられん。そう思うと、迷いは不思議なほど静かに消えた。
「グスタフ」
「はい」
「これを」
家令は残った一通を受け取り、中を読む。読み終えると、紙を持つ手にわずかに力をこめ、深く頭を下げた。何も訊かない。この男は四十年、言葉より先に主の覚悟を受け止め、そうやって仕えてきている。
「殿。ひとつだけ、申し上げてもよろしゅうございますか?」
「言え」
「箱は、休みませんので。……明朝も、担いで上がります」
夜。空の青が深まり、窓に月明かりが差すころ、王妃陛下の使いが来た。
書状は無い。口上をひとつだけ預かってきたと言う。
「よい夜を、とだけ」
……あの方は、すべて察しておられる。察したうえで、止めることも、押すこともなさらん。選んだ言葉の重さごと、こちらに委ねてくださっている。
使いを見送る。静けさの戻った部屋には、燃えた紙の匂いがまだ薄く残っている。俺は窓辺へ寄り、夜の底を見上げた。
月は、もう、ほとんど丸い。青白い光は冷たく澄み、縁がわずかに削がれているだけである。丸くなるのは、明後日である。そのわずかな時が、夜空いっぱいに張りつめている。




